定時を2時間ほど回って退社した三成は会社の正面玄関の前でぼんやりと立ち尽くした。
年度の変わり目から本格的に始動するプロジェクトの責任者に抜擢され、その準備のために忙しくなり始めたここ暫く、定時に退社した試しなど一日となかった。
決算までふたつきを切った街並みは、身を切るような冷たい風を纏いながらもどこか柔らかくイルミネーションに浮かれている。
歩き出した三成は、横目に見たディスプレイに初めてバレンタインが近いことを知った。
スーツの雑踏に溶け込む三成の銀色の髪が、精密機械のネジの色を呈して駅へと流されてゆく。
駅ビルの中はぬるま湯の中のように不快な温もりに満ちていた。
耳につく甘ったるいラブソングに耳を塞ぎたい衝動に駆られた三成はしかし、眉一つ動かさずに足を進めた。
後ろを歩くカップルの甘い言葉やぬるいラブソングに苛立ちながらもたどり着いた改札は、あたたかな無機質さで三成を迎えた。
ホームへ滑り込んできた電車に乗り込めばそこには三成と同じく疲れきったサラリーマンがひとときの安らぎに揺れている。
病人のように細い背中をドアに預けて目を閉じ、明日の予定を思い浮かべる。
朝イチで取引先に向かい、昼までに打ち合わせを済ませ…考えただけでうんざりした三成は思考を止める。
とりあえず帰宅して、ゆっくり風呂にでも入ろう。
そう決めた三成はただ窓の外を流れる街の明かりを見つめていた。



三成は会社から少し離れた場所にあるマンションに住んでいた。
狭い1DKは寝に帰るだけの三成には充分な部屋だった。
扉の前に立ち、鍵を開けて扉を開ければそこには安息の暗闇が待っているはずだった。
しかし、消したはずの白熱灯が柔らかくともる玄関には、ここ最近やっと見慣れた革靴が一足、ぽつりとこちらを向いていた。
慌てて靴を脱ぎ、鍵をかけるのも忘れて荒々しい足音と供に部屋へ入ると、自分の部屋のようにくつろぐ男がいた。


「遅かったな、石田。残業か?」
「貴様…なんのつもりだ。」


三成をちらりと確認した男は、手にしていた缶ビールに口を付けて笑った。
テレビに向けられていた隻眼がゆるりと細まるのを、三成は言い知れぬ不快感を伴って睨み付けた。


「アンタが俺がこねぇって寂しがるんじゃねぇかと思ってな。」
「ふざけるな!」
「Ah?ふざけてなんかねぇぜ?」

大まじめだよ。
立ち上がった男の白い指先が三成のネクタイの結び目を解く。
男は三成の大学時代の友人で、名を伊達政宗と言った。
小さい頃に親に捨てられ、引き取られた先の養父を病で亡くした頃に知り合った彼は、三成の絶望や不条理への憤りも全てを見てきた。
そのとき、もがく三成の手を取ったのがこの男だった。
寂しさを紛らわせるためだけの、ひとひらの情もない三成の深夜の呼び出しにも、嫌な顔一つせずに応じるこの男を、三成は都合よく使っていたつもりだった。
いつの間にかその関係は曖昧なままずるずると何年にも渡って続いている。
三成自身、なぜこの男の手を取ってしまったのか、わからずにいる。
ただ、時折見せる冷たい無表情の横顔が、無関心の象徴のようなその切れ長のまなこが取られた手を振りほどけない理由なのかもしれないと、漠然と思うだけで。

「メシ,食ってんのかよ。」

相変わらず細せぇのな、と三成の手首を掴む指先の冷たさに、三成の背が震える。
脱がされかけたままのトレンチコートが肩から滑り落ち、ばさりと厭に大きな音を残して床へ広がる。
向かい合って立つ男をねめつける三成の視線を、すべらかに流す男は常に剥がれ落ちることのない余裕を滲ませたいびつな笑みを浮かべて三成の髪をくしゃりと撫でた。


「風呂,入って来いよ。寒かっただろ?」
「貴様に言われずとも入る。」


スーツのジャケットを脱ぐこともせず、風呂場に消えて行った細い背中を見送った男の隻眼が困ったように細まったことを知らない三成は、脱衣所で服を脱ぎながら、ここ最近この部屋に入り浸る男の真意を考えていた。
少し前までは三成の呼び出しに男が応じる程度の関係で。
よく考えてみれば三成は男のことなど何一つ知らないのだ。
職場はこの部屋から電車を乗り継いだ先に在る大手企業だということくらいは知っている。
その社長の息子で、その会社が一族で経営している会社だということも。
大学は同じだったが、いつも男が三成のことを気にかけて話かけてくるばかりで、三成から男のことを聞いたことは一度もない。
高校はどこに通っていたのか、兄弟はいるのか、会社の部署はどこなのか、友達の名も、何も。
問いかけたことは愚か、それを知らないことに違和感を抱いたことさえなかった。
さぁさぁと体を打つシャワーの水を眺めながらそんなことを思った三成はしかし、それを知りつつ聞かなかった己の卑怯もよく知っている。
聞いてしまえば、多少なりとも情をかけてしまうのが人間というものだ。
あの男のように、無条件に自分を相手にするような人間はなおさら。
三成は己の弱さを誰よりも良く理解しているつもりだった。
そして、心許したものを失う痛みの大きさも。


(知らなくていい。知ってしまえば他人で入られなくなる。)
(踏み込めば失う痛みが増すだけだ。)
(どうせ、みんな、私を置いていく。)


(裏切られたと憎む痛みは、もうゴメンだ。)


胸中に呟き、薄い唇を噛み締めた三成は、出来るだけ時間をかけて体を洗った。
普段はなおざりにしか乾かさない髪もきちんと乾かし、その間に男が帰ってしまっていることを期待して。

しかし、三成の期待は裏切られる。
磨りガラスのはまったリビングの扉の向こうには柔らかな灯りが煌々とともっていた。
微かに漏れるテレビの賑やかすぎる音声が扉一枚を隔てた二人の冷たく静かな関係には不釣り合いだと、細い眉を歪めた。
扉を開けば、微かな男のマルボロの薫りが三成の痩躯に纏わりつく。
その淀んだ空間の中、男はソファーに仰向けで寝そべっていた。
その横顔に見慣れぬ疲労と諦観の影を色濃く落としたその隻眼はしっかりと閉じられている。
ともすれば飲み込まれてしまいそうな仄暗い闇の甘い薫りが三成の脳髄を揺らした。
ソファーを占領され、行き場のない三成の白い裸足の足が呆然と立ち尽くす。
不愉快な程に同調する三成の心の傷がズクリと疼き、三成が頑なに拒んできた男に踏み込むという行為を促す。
(違う。知りたい、などと…!)
心中で己を叱咤した三成はぎり、と右の拳を握った。
男の背負う痛みや虚無感の正体を暴いてしまえば、それに同調し、簡単に陥落する己のもろい心が手に取るようにわかる。
色素の薄い唇を不快に歪めた三成の華奢な手首に男の長い指が絡まる。
緩慢な仕草で捕らえた三成を、男はおそろしい程の強さで引き寄せた。

「…、離せ。」

乾いた上下の唇を剥がすようにして吐き出した言葉は、男には届かなかった。
ソファーに転がるおとこは、掴んだままの三成の手首を更に引き,三成は勢い任せに床に膝を付いた。
骨ばかりが目立つ三成の細い膝がフローリングに当たって鈍い音を立てる。
手首を解放した指先が線の細い三成の顎をさらい、乾いた唇に噛み付いた。
ぶつりと唇が切れる感触と、血の味と、マルボロの薫り。



「たまには、俺から甘えられるのも悪くねぇだろ?黙って甘えさせとけよ。」



三成の背をざわめかせたのは、首筋に触る冷たい眼帯の感触なのか、それとも言葉とは裏腹な男の弱り切った声だったのか。
認めたくない三成は前者のせいだと自分を騙し、男のざんばらの黒髪に伸ばしかけた指先を握った。



end

わかってる。失いたくないと思った時点で負けだと言うことくらい。

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