- 彼のことだけを考えていられるというのは、とても幸せなことのように思えた。
帰ってくるのかわからない男と自分の為に用意したふたり分の食事を、然して食べたいとも思っていないのに食べた。
咀嚼し、飲み込み、そうして気分が悪くなってトイレに吐き出した。
既に一ヶ月近くまともに食事を摂れた試しはない。
食べては吐き、これでいいのだろうかと自問してテーブルに用意したふたり分を全て食べてはみるが、結局体が受け付けずに全て吐き出すことの繰り返しだ。
狭いトイレの床に座り込んでどうすれば救われるのか考えたが、目の前の現実はどう転んだって俺様には優しくないだろうなと思った。
その結論を拒絶したつもりが、体の方は胃の中身を拒絶したらしかった。
ごぼりと喉奥から吐き出されるのが酷く醜くて滑稽だったから、声を立てずに笑った。
ひとつき前に消えていった男は今日も帰ってこなかった。
涙が出るようなことはなかったけれど、もし泣けたのならばきっと俺はひと月でもふた月でも泣いただろう。
(今の俺様にそれだけの期間泣き続けるだけの体力などありはしない。)
泣けない俺様の代わりのように、袖を捲った腕から流れた血液の跡が乾いて気持ちが悪い。
片手に箸を持ったまま便器に突っ伏して食事の残骸を吐き出している自分は一体何がしたいのだろうか。何を求めてここから動けずにいるのだろうか。
もう俺様にだってわからない。
喉に絡み付いた吐き出したものの残滓を吐き捨て、壁に座り込んだ体を預けた。
傷んでぱさついたオレンジ色の髪が視界を斑に染めるのが邪魔で、それを掻き上げた左手で口許を拭う。
ぴりぴりと自分でつけた傷が痛んだ。
自分の躰がおかしいことなんて、誰かに言われるまでもなくわかっていた。
訳もなく楽しくなって、何もない空中を見上げたまま肩を震わせて笑う。
噛み殺した笑い声は噛み締めた奥歯の隙間から漏れ、徐々にけたたましいそれとなって狭い密室で出口を失っていやというほどに反響した。
笑いながら手をやった首筋に残ったひと月前の傷は悲しくなるほどに治りが早くて、今では僅かな瘡蓋を残すばかりになっている。
それがなくなってしまわないようにその瘡蓋を剥がすように爪を立てて掻きむしる。
致命傷にはなり得ない、浅く可愛らしい傷痕だ。
そんなちっぽけないつ消えてしまうとも知れない傷でも、あの男と俺を繋いでいてくれるなら消えて欲しくなかった。
いずれこうなるんだろうなとは思っていた。
俺様がおかしくなるのが先か、あの男が全て面倒になって発狂するのが先か。そんな歪な関係の中でふたり、終焉と狂気に怯えて生活していた。
初めからあの男は優しくなんてなかったし、そもそもそんなことは求めてはいけない関係だったと思う。
あの男には好きな人がいたから。
俺はずっとあの男のことが好きだったから知っている。
彼は俺以外の誰か(それが誰なのかはわからなかった。わかりたくもなかったし、それまでに十分絶望したからだ。)を本当に好きだった。
しかし、その誰かに思いは伝わらないのだろうなとも思った。
伝える素振りもなければ、絶望した素振りもなかった。
だから、狡猾な俺様はその弱みに付け込むことにした。
『好きな人がいることは知ってるんだけど。』
あの男は確かに驚いた。
いつもは鷹揚に伏せられるだけの片方しかない眸が僅かに瞠られたのを俺は見逃さなかった。
『そいつの代わりに俺様を隣に置いてみるってのは、どうよ?』
続いた言葉に、あの男の漆黒の眸はいつも通り、鷹揚に伏せられたのだけれど。
今考えると無謀だったし、バカだったなと思う。
あの男がその相手(彼がいなくなった今ではそれが男だったのか女だったのかさえもわかりはしない。わかりたくもない。胸くそが悪いだけだ。)に、柄にもなく一途な思いを寄せていたのだとは、その時には気付かなかったのだ。
その時点で俺様の負け確定っていうかまあ、そんな感じ。
どれくらい一途だったかなんてもはや知る術もないけれど、俺様とタメはれるくらいには一途だったのかもしれないなと、こうなってしまった今では思う。
もちろん、その気持ちが俺様に向くとか、俺様に情がわいてどうの、なんてことにはならなかったわけだけれど。
同じようなセリフで相手の弱みに付け込む輩は大体そうだとは思うけど、俺様もご多分に漏れずそれを少なからず期待していた。
彼が誰かを思うのと同じように俺を思ってくれればいいと一瞬でも考えてしまったのだから。
最初のうちは拒絶の姿勢を見せたあの男も、そのうち俺をあしらうのが面倒にでもなったのだろう、勝手にしろと呆れたように視線を泳がせた。
俺様がいくらそれに歓喜しようとも、赦されたと勘違いしようとも、それは結果として無関心と言う名の拒絶でしかなかった訳だが、バカな俺様は勘違い有頂天であの男の恋人面してたわけ。
ああもう頭が悪すぎてあの頃の自分を殺してしまいたい。
今の自分がいなくなったって構わないから、跡形もなく抹消してしまいたい。
あの時、そんな勘違いをしていなければ俺様はトイレだけがお友達の生活はしていなかっただろうし、床に這いつくばりながらカッターを探しにいくこともなかったのに。
立ち上がって歩くだけの気力はないけれど、カッターを握り締めて菫色に浮かび上がる血管をぶった切るだけの執念だけが俺を動かしている、なんていう残念な状況に陥りはしなかっただろうに。ああ、悔しい。
それでもここでくたばってしまえないのは、明日にでもあの男が帰ってくるんじゃないかっていう絶望的な確率の奇跡への期待を捨てきれずにいるから。
いや、あの男はここ以外に帰る場所なんて持たないのだから、待っていればいつか帰ってくるのだ。そう思っている。
きっと、この使い物にならない体も、彼を喪失してしまったことも強欲への天罰なのだろう。
彼に愛して欲しいだなどと、自分の立場もわきまえずに願ってしまった俺への、残酷だけれど相応な天罰なのだ、と思うことにしたら酷く虚しくなってしまって、そんな自分を叱責するようにようやく見つけたカッターの刃を腕に滑らせた。
もう傷しかない腕の上に、また赤く涙が流れて、泣くことも許されない俺はそれを許さないために上から上から傷を付けて。
いつかこの腕がちぎれて、千切れたところから腐敗して、そしてこの罪と罰の螺旋から抜け出せる日が来るのかな、なんて甘い考えをぼんやりと霞む視界で考えた。
思い出の切れ目みたいにぷつりぷつりと刃を引いて、その傷は一体いつのことだったかを思い出そうとしたけれど、俺とあの男の間に思い出と呼べるようなものは何一つなくて、それが悲しくて泣き出さない為にまたぶつりと錆びた刃が皮膚を引きちぎる感触に身を任せるだけだった。
数を数えるように傷を数えたら、あの男の片方残された黒燿石に似た眼の奥に巣喰った闇にも似た哀しみの色を思い出した。
あの哀しみの色は、一体何を哀れんでいたんだろうか。
報われるはずのない俺の恋か、流されて俺と体を重ねた自分か、それとも報われそうにない彼自身の恋心か。
全てうまくかみ合うことのない世界の歯車か。
あの男が、俺に傷を残していなくなったあの日みたいに仰向けに冷たい板張りの上に転がっていれば、あの男が帰ってきて傷を増やしていってくれるんじゃないか、なんていう妄想くらいは許して欲しい。
愛しているんだあの男を。
あの日、逆光で見えないはずのあの男の片方だけの眸には怒りとか、苛立ちとかじゃなくて、いつもの哀しみの闇がいつもより色濃く映っていたから。
あの男が振り上げた鈍色に蛍光灯を反射する包丁の刃に映った何も知らない子供のような目をした自分の飴色の眸の奥に視えたあの赤くて黄色い底のない闇は、いったいなんという名前だったか。
「もっかい、アイツに刺されたら思い出せるかもしれないけど、」
「アイツ、いなくなっちゃったし。」
こんな躊躇い傷(と言うと自分でやった方みたいだけど)一つ残して消えてしまうなんて。
この傷が消えれば俺があの男のことを忘れるとでも思ったのか。
冗談じゃない。
それどころかますます愛おしくて、ますますあの冷たい隻眼が恋しいだけだ。
どうしてあの時、あの男は躊躇ったりしたのだろう。
俺のことなんて好きでもなんでもないはずなのに。それどころか鬱陶しいくらいには思っていただろうに。
俺はあの時、あの男に殺される自分を想像して少し興奮したのに。
廊下の蛍光灯を見上げたら目がちかちかしたからゆっくりと目を閉じた。
目蓋の裏に描くのは思い詰めたあの男、そして振りかざされた包丁の鈍色。
「もう愛して欲しいなんて言わないから、」
「せめて息の根、止めてってくんねえかなあ。」
「政宗くんの、おばかさん。」
(アンタのいない世界に興味はないけれど)
(アンタに殺してもらわないと、死ねない。)
end
この躊躇い傷は全部アンタのものなのに。
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