あの男との関係は最初から最後まで、俺が知り得る限りの常識から逸脱した関係だった。
ぱきん、と無機質な音をたてて掌に転がったおおよそ合法的な薬剤の色とは思えない色をした錠剤を見つめる。
今更のように捨ててきた生活だとか友達だとか幼なじみだとか、アイツのことだとかを思い出して、手の中の錠剤を呑みこむ気になれなくなってしまった。
捨ててきたというよりは、そうする他にあの常識から逸脱しっぱなしの日常から逃げ出す術を思いつかなかっただけだが、結果として捨ててきた形になったことを悔やんでいないと言えば嘘になる。
喉が渇いていることを理由に、テーブルの上にあったハイネケンで手の中にあった錠剤を胃袋に流し込んだ。
クスリが効いてくるまでの間、手持無沙汰になった俺はポケットに突っ込んだ煙草に火をつけた。
ここがどこだかなんてもうよくわからないけど、頭蓋骨と肺を震わせる低音とクラブの点滅する光があることは確かだ。
気が付いた時にはここにいて、薄いハイネケンを飲んでいた。
そこそこの広さがあるそこには、たくさんの人間がうろついているけれどカウンターの隅に座った俺を気にするやつなんて一人もいなくて、それが心地いいと感じるのにそう時間はかからなかった。
あの男の前から逃げ出したあの日から、俺はクラブやら知り合いの家やらを転々としていた。
適当に捕まえた女やら男やらとホテルで夜を明かした日もあった。
あの日から何日経過していて、今日が何日なのかはもうよくわからない。
携帯電話がなるたびに拒絶のように頭が痛むから携帯はどこかで適当に捨てたし、なにより数を数えることにさえ疲れていた。
それくらい、あの男の慕情というものは重たくてどこか狂気に似通った何かを孕んでいた。
知り合いの家に転がり込んだ時にもらったこの毒々しい錠剤が唯一現実から逃げ出せる魔法のようなものだった。
効いている間はあの男のことも、アイツのことも忘れていられた。
ずっと脳みその代わりに鉛でも詰まってんじゃないだろうかというほどに重たかった頭が急にふわりと軽くなる。
ああ効いてきたなと知覚すると同時にひらりと目の前を蝶が飛ぶように光が走る。
体中の血管を血液が逆流するような気持の悪い悪寒が背中を走ったら、後は訪れる楽園に身を任せていればいい。
あの男もアイツも、恐怖も悲しみも後悔も怒りも全て、ただ何もかもを忘れて目を閉じていればいい。
そんな気がして、俺はスツールを降りてボックス席のソファーに丸くなって座った。
ゆるやかにアップダウンを繰り返す機械的な音の波に漂うように目を閉じる。
きりきり舞いの光の渦と、脳が拾いすぎるほどに溢れ返る音。
頭蓋骨が震えて、俺は鉄骨だらけの暗い天井を見上げた。
その天井がいつかアイツと一緒に行ったクラブの天井に酷似しているような気がして俺はひとりで笑った。
あの時、アイツは初めてクラブに行って、中学生のように緊張していた。
俺はそれが可愛くて、アイツがそんなことするはずないと知りながらナンパでもしてこいよと笑った。
案の定、ナンパなんてとんでもない破廉恥だと喚いたアイツの子犬みたいにふわふわした頭を撫でて、冗談だよと笑っいながらそんなアイツに安堵したんだ。
大丈夫、少しずつでいいから好きになってもらえればいいと。
柄にもなく大切にしたいと思える恋だった。
その恋心も、アイツも本当に本当に大切だった。
それなのに、なぜ俺はあの男とあんなことになってしまったのだろう。
吐息だけで笑ったつもりが、完全に笑い出してしまったらしい。
それに気づいた何人かが、俺を哀れむような、嘲るような視線で見たけど気にならない。
だって、俺は今、俺だけの世界でありったけの音と思い出と、残像に酔いしれているから。
俺にはもうアイツとの思い出しかなくて、迂闊な自分が成したことが原因でアイツと過ごす未来全て失ったのだ。
頭がおかしいことは、誰かに言われなくても分かっていた。
俺はただ幸村が好きなだけだったのに。
柄にもなく中学生の初恋みたいに、アイツの表情ひとつ仕草ひとつにドキドキして、絶対に誰にもバレないようにアイツを想っていただけなのに。
どうして今、アイツから遠く離れたこんな場所でバカみたいにクスリをキメてるんだろう。
(確かにアタマのネジは既にいくつかぶっ飛んでいると思う。)
そんなことどうだっていいような気はしたが、いつだって頭から離れない。
名前を呼んだ時に振り返るアイツの背中で踊る長い栗色の襟足とか、好奇心ばかりの子犬のような琥珀の眸とか、いつでも凛と伸ばされた綺麗な背中や、破廉恥だと叫びながら狼狽える子供じみた表情とか、そんな残像が性懲りもなく俺に憑き纏う。
戻れるものならばあの場所に、アイツがいるところへ戻りたいと思うが、俺とあの男の関係があんな誰がみても狂気の沙汰としか思えない状況で破綻した今、アイツと俺の間にあった関係も既に破綻してしまっている(はず)。
アイツに蔑まれるのも、殴られるのもまだ許せるが、拒絶されてしまうのが怖い。
あの琥珀の眸が拒絶に透徹するところを想像しただけで吐き気がするほどに怖い。
拒絶されても仕方がないことをしたとは自覚している。
なぜなら、俺はアイツの想い人と爛れた関係にあり、更に振り回すだけ振り回して挙げ句の果てには怪我をさせて失踪したのだから。
(その怪我の深さや大きさは最早関係ないし、その結末に至るまでの過程などアイツの知ったことではないだろう。)
そう、アイツはあの男が好きだった。
これは本人に確認したわけではないからあくまでも推測でしかないが、アイツがあの男に向ける表情の全て、感情も込みのそのあらゆるあの男への対応は初恋に戸惑う中学生のそれのようだった。
あの男の隣でだけ、アイツは穏やかに笑った。それは俺の見たことのない顔だった。
それは隣にあの男がいるからであって、俺がいるから、ではないのだ。残念ながら。
そのことを知った時に俺はアイツの恋人というポジションを諦めるべきだったんだ。
だけど、どうしてもアイツの傍にいたかった。
逸る気持ちを押し殺し、何度も抱き寄せようとした手を強く握り締めてきた。
努めて『アイツのいい友人』であろうとしたのに。
あの男と俺との間で関係が変化したことにより、俺は『アイツのいい友人』から『想い人の恋人』へと変わってしまった。
それはあの男のせいではなく、強欲だった俺のせいだと言うことはもちろん理解している。
あの男が俺のことを好きだと言ってきたとき、俺は断固として断わるべきだったのに、アイツとの関係やそれまでの日常やらを天秤にかけ、なあなあに流してしまっていた。
ついに流すことでさえ面倒になったこともあって、「好きにすれば」などと言ってしまった。
それがこの関係の崩壊の始まりであるのだとすればやはり俺が全ての元凶なのだ。
だからきっと、アイツと居場所を失ったのは天罰。
強欲にも、アイツを、アイツの隣という居場所を欲してしまった俺への、残酷だけど相応の罰なのだ。
「ね、おにいさんひとり?」
「あ?」
上から降ってきた声に目を上げると、そこにはアイツ(に見えただけらしい誰か)が立っていた。
俺の顔をじっと覗き込んで、名前を聞くと俺の手を引いてフロアへと降りていく。
ますます脳内に溢れ返る低音と高音の緩い波の中で、俺はもう何も分かっていなかった。
誘われるまま踊り、誘われるままキスをした。
誘われるままクラブを出て、誘われるままホテルへ行った。
目の前にいるものがたとえアイツの残像だったとしてもいいや、なんて投げやりなのはきっとまだあの錠剤が効いているからだ。


一つだけ、神様。
俺の弁解とも懺悔とも祈りともつかない戯言を聞いてくれるなら。
あの時、あの男を殺さなかったのは、アイツがいたから。
あの男が死んでしまったら俺の愛する人は二度と笑わない気がした。
だから、直前で躊躇った。
もし、あの男が死んでないのなら、一つだけ、アイツを幸せにしてやってほしい。
佐助の隣でアイツが笑っていてくれればそれでいい。
アイツがあの優しい目で笑っていられるなら、俺はこの罰を甘んじて受ける。
切れたクスリが見せた幻覚は、隣で眠るあの男。
叫んだって逃げることのできない、絶対的恐怖と、罪と罰の螺旋。

End

俺がいなくなるから、どうか神様、彼を幸せにしてください。

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