- 突然崩壊した全ての原因や過程を、誰が知っているというのだろうか。
もう、何がどうなっているのかわからなかった。
コチコチと無情に時を刻む時計の音が嫌になった理由や、もともと短い爪が剥がれるまで噛んでしまう理由など、もう思い出せもしなかった。
誰かが知っているというのなら、全てを教えて欲しいとさえ思っていた。
ただ、事実として受け入れるべきことがあまりにも唐突な結果としてだけ眼前に押し付けられ、それを理由や原因なしで受け入れるにはあまりにも理解不可能だったと言うだけなのかもしれないとは思う。
一ヶ月と少し前、あの人が消えた。
唐突に、いなくなったのだ。
携帯も繋がらない、家に行ってももぬけの殻、知人からの話や本人かどうかもわからない目撃情報(あの人が右目にいつでも眼帯を付けていたことを感謝する日が来るとは思わなかった。)を頼りに友人たちと探してみても一向に見つからない。
なんとなくあの人がどこかへ消えてしまうような気はしていた。
時々ぞっとするほどの悲しみの闇を片方残された眸の奥にぽっかりと浮かび上がらせて俺を見ていたから。
そのあとに必ず中身のない上辺だけの笑顔を俺に向けるから。
何かに追い詰められ、憔悴していたのは残された俺たちも、あの人も同じだったのではないだろうかと思う。
あくまでもこれは推測でしかないが。
まともにものも考えられなくなった俺が思いだすことができる断片的な記憶と思考を繋ぎ合わせた結論がこれだった。
それからしばらくたったあと、俺は彼の家へ行った。
あの人が失踪したことによって一番苦しんでいるのは彼だろうと思ったからだ。
彼のあの人に対する執着は時々見る者を悲しくさせるほど純粋で強かったから、ひとりであの人のいない夜を過ごしているに違いないと思ったら心配になったのだ。
そして俺は彼のことが好きだったから、どうしても放っておけなかった。
久々に見た扉は何度インターフォンを鳴らそうとも決して内側から開くことはなかった。
ただ、いつ行ったとしても鍵が開いたままになっているだろうことは想像に難くなかった。
彼は何があってもあの人を待ってるだろうと思っていたから。
いずれ帰ってくるだろうと、諦めきれないであろう彼は健気にあの人の帰りを待っているに違いなかった。
案の定鍵のかかっていない部屋の扉はいとも簡単に開いた。
足を踏み入れたその部屋には死臭にも似た鉄の錆びた匂いと腐敗臭に満ちていた。
決して何かが腐っているわけでないことは綺麗に片付いた部屋からすぐにわかったが、そこには確かに何かに淀んだ空気が満ちていた。
靴を脱いで一応声を掛けてから部屋に上がるが、返事はない。
シンと静まり返った静かな部屋の中で、煌々と明るい蛍光灯や食べ残されたふたり分の食事があまりにも当然の日常の様相を呈していて、俺は今までのことはすべて何か悪い夢だったのではないだろうかと錯覚した。
けれど、ソファとテーブルの隙間に倒れた彼を見た瞬間、全ては現実だったのだと凶暴なそれに頭を殴られる。
毛足の長い絨毯の上に以前より艶のなくなった派手な髪の毛が円を描くように散らばっている。
その腕から流れた血液が絨毯の長い毛を巻き込んで固まっているのを見つけて、一瞬死んでいるのかと思ったが、赤い肉が見える腕に握っていたカッターの刃を押しあてたからまだ生きているのだと悟った。
痩せこけた躰と、切り刻まれた腕と、目の前に突きつけられた現実と、当然の日常を切り取ったかのようなテーブルの上の冷めた食事があまりにも不釣り合いで、俺はその場に座り込んでしまった。
膝を折る俺の中で何かが音を立てて崩れて行った。
それは、人間として生きるために必要な何かだったかもしれないし、その逆だったかもしれない。
ただ、その何かが崩壊する音を聞きながら俺は泣いた。
今まで泣くことができなかった分をすべて流すように、ただ泣いた。
彼に声をかける気にもならなかったし、彼とあの人の間に何があったのかなんて想像したくもなかったけれど、崩壊した日常の中の唯一の支えだったものまでが奪われた瞬間だった。
どれくらい泣いていたのかはわからなかったけれど、仰向けに寝そべって、虚ろな目を天井に向けて何かを呟いている彼を置いて部屋を出た。
行きは小降りだった雨が帰りには土砂降りになっていて、俺は傘もささず、涙をぬぐうことも忘れ、家への道なんてよくわからないまま歩いて帰った。
街をゆく人々が不思議そうに、蔑むように俺を眺めていたけど、そんなことを気にする余裕はなかった。
俺は彼らに問いたい。
もし、貴殿らの日常が今崩壊し、その中の唯一の救いだったものまでが崩壊したら、あなたたちは傘をさして呑気に家に帰ることができるのか、と。
俺の日常であったものは、そんなことすら出来ないほどに粉々に消え去ってしまったのだ。
部屋に戻って、部屋にあったありったけの鎮痛剤や風邪薬を胃袋に押し込んだ。
ソファーに座り込んで、だけどじっとしていられなくて左手の親指の爪を噛んだら、それは俺の日常のようにあっけなく剥がれ落ちた。
そのうち意識が朦朧として、座っていられなくなったから冷たいフローリングにずぶ濡れのまま寝そべった。
(と、言うよりも倒れこんだと言った方が正しいかもしれない。)
左胸の鼓動が、どんどん速く、大きくなっていく。
まるで心臓が左耳にあるみたいだと思ったところで俺の意識は途絶えた。
俺があの人の失踪の前兆に気付いていながら止めなかったからいけなかったのかもしれない。
あの人がいなくなれば、彼が少しは自分に慕情を向けてくれるだなんて幻想を捨てきれずに、あの人を行かせてしまった俺のせいで彼はああなってしまったのかもしれない。
あの人が帰ってきたところで、現状がどうにかなる確率はすごく低い。
俺は俺の日常が崩壊したなどと言ったが、それは他でもない自分の驕りのせいだったんだと思ったら、現状は天罰なのかもしれないな、と思った。
彼を求めた俺の強欲が呼んだこの崩壊への罰は、日常と彼を失うことだった。
不意に気がついた。
自分がまだ生きていたことに少なからず驚いたけれど(だって俺が飲んだ薬の量は約3箱分だ)今はこういうことも想定して製薬会社も死なない程度の薬しか作ってないんだろうな、と思ったら少し笑えた。
一日以上たったのか、それとも数時間しかたっていないのかはもうわからないけど、そんなものはもう何の役にも立たないような気がした。
俺は生きることを放棄したから。
彼が今という時間を生きることを放棄し、あの人が日常とという誰もが持って当たり前のものを放棄したように、俺は誰もが何の疑問もなく手にしている生きると言うことを放棄しようと思った。
それは、死ぬということに他ならなかったけれど、俺は死ねなかった。
いざ死ぬとなると痛くない方がいいとか、残された人間に迷惑がかからない方がいいとか、そんなときまで冷静な自分に嘲笑を一つくれてやってもう一度ソファーに座り込んだ。
一度乗りかけた船なら、最後まで。
そんなことを思って俺は財布を掴んで解熱剤を買いに出かけた。
一軒の薬局で大量に買うと怪しまれそうだったから、何軒か回って、10箱の解熱剤を買った。
俺はドラッグストアの袋を提げて家へと戻った。
ぐるぐると胃が回る感覚に吐きだしそうになるのをこらえて、買ってきた解熱剤を箱から出して噛み砕いた。
3箱分くらいを噛み砕いて、誰にもお別れをしていないことに気付いた。
そんなことを許された立場ではないことは分かっていたけれど、残った薬と今飲んだ分の薬でうまく回らない頭の中で彼が笑った気がしたから、俺は元の袋に残りの解熱剤を詰め込んで部屋を出た。
眩しすぎるほどに晴れた空の下を、ぼんやりと灰色に濁った雨雲のような目をして歩いている自分の姿が容易に想像できて、それが楽しかったから声をたてて笑った。
街は、やはり俺をゴミでも見るような目でちらりと見てから何事もなかったように俺が失った日常へと戻って行った。
鍵が開いたままの淀みの中に足を踏み入れると、そこは暖かく俺を迎えた。
俺は何の違和感も感じずにその中へと吸い込まれていく。
それは俺が何かを放棄した人間だったからかもしれないけれど、それが嬉しくて俺は少しだけ泣いた。
相変わらず残ったままの食事の残骸の横に倒れたままの彼を見つけて俺は安堵する。
「佐助…」
「……」
「もう、死んでしまってもいいと、思わないか?」
「……」
「一緒に、死んでくれるか?」
モノ言わぬ彼の虚ろな目の奥には赤くて黄色い歓喜の闇があったから、台所にあった包丁を掴んで彼の腹に跨って包丁を振りあげた。
その次の瞬間、俺は自分の愚かさに気づかされることになるのだけど、そんなことその瞬間の俺が知るはずもない。
「おかえり、政宗。」
からん、と乾いた音をたてて掌から滑り落ちた包丁は、そのあとも俺と佐助を殺すことはなかった。
彼が待つなら俺も付き合おう。
どうか目が覚めませんようにと祈りながら解熱剤を噛み砕いて、意識を手放した。
End
ああ戻ることも進むことも許されない。酷いシナリオだ。
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