ばしゃりと派手な音を立てて幸村は桶に白い手を突っ込んだ。
夏が近いとは言え、もう夜半も近い刻。さらに冷たい井戸水が少しずつではあるが確実に幸村の指先から体温を奪って行く。
冷えた指先はぴり、と痛みを訴えるが幸村はそれでも手を濯ぐことを辞めなかった。
戦場から奥州へと引き返す伊達軍を引き止め、馬上から転がり落ちた政宗を連れて屋敷に戻り、さらに傷付いた者達に手当てを施し終える頃にはもう日もとっぷりとくれていた。
夕餉の刻までは伊達、上杉両軍との小宴で煩かった城も今はひっそりと月の光を浴びて佇むだけである。
その庭先で静かに、でも一心不乱に手を洗いつづける幸村の背にはただならぬ闇がのしかかっていた。寝静まった城より静かで、夜半の空よりも暗い闇を背負ったまま袴の裾が濡れるのも気にせず手を洗う。
今後の事を相談していた信玄の部屋の障子を開けた謙信が、そんな幸村の背中を見つけた。
「あれは、かいのわかきとら……なにを、」
「良いのだ。」
思わず庭に降りようとした謙信の肩を厚い信玄の手が掴んだ。
煌々と降る月明かりの下の幸村は、戦場で見せる猛々しい姿とも普段の柔らかな笑顔とも違う空気を纏っている。余程集中しているのか、普段は姿を見るだけで子犬のように後を着いて回る信玄が姿を見せても気づいた様子はない。
黙々と桶の水に細い指を浸ける横顔には鬼気迫るものがあった。
「あれはなぁ、あやつの儀式なのだ。」
「ぎしき、とは…?」
解せぬ様子で謙信は隣に立つ信玄を見上げる。信玄は慈しむような視線を幸村の横顔に向けたまま言葉を継ぐ。
「あやつはこの戦国の世で生きるにはちぃとばかし優し過ぎるのだ。今頃、さっき戦場であやつが殺めた者どもを思っておるのだろう。」
「そうでしたか…」
謙信は目を細めて信玄から幸村へと柔らかな視線を移す。暫くそうしていたが、ふと信玄を振り返ると薄い唇に苦笑を乗せて謙信は言った。
「しかし、そろそろひえる。もうよいとこえをかけてやらなくてよいのですか?」
心優しい越後の軍神の瞳に本気で心配する色を見つけた信玄はうむ、と頷いた。
「その役目は生憎、わしの物ではないのだ。あやつもわしに弱いところを見せたくはないだろうからな。」
じきに止めるものが現れる、という信玄の言葉に安堵した様子を見せた謙信は『では、またみょうちょう』と言って宛がわれた部屋へ向かった。
その男とは思えぬ華奢な背中を見送った信玄は部屋へ戻り、静かに障子を閉めた。
幸村が自分のせいで流れた血の感触を拭い去るにはまだ少し時間がかかる。縁の下で二人の会話を聞きながら幸村の背中を見ていた佐助は小さく溜め息を吐いた。
ばしゃりと肘までかけた水が見た目より筋肉質な幸村の前腕を滑り落ちる。その感覚は目を閉じていれば鮮血のそれと何等変わりがない。
ぞわりと粟立つ背中を竦ませて、幸村は目を開けた。赤い瞳は既に像を結んではいない。
かじかむ指を鼻先に近付けて、スン、と小さく息を吸う。
「やはり、もう取れぬのか…」
この手指に、髪に、体に染み付いた血の香りは。
誰にも言えない。この血の香りに自分がこんなにも恐れ戦いていることは。
敵将を、その兵や民をも傷付けてしまうことを恐れているなどと。甲斐の若武者が聞いて呆れる。
2歳しか歳の変わらぬ奥州の国主はあんなにも勇猛果敢であるというのに、自分は……
幸村は並々と水が張られた桶を掴み、頭からその中身を被った。
柔らかな鳶色の髪を濡らした水は、まるで涙のようにその血の気が引いた頬を伝った。
恐れと、申し訳なさと、不甲斐なさを混ぜたようななにかが押し寄せて、幸村は噎せ返るような鉄錆の匂いの中で意識を手放した。
「全く…旦那は優し過ぎるんだよ」
ひとり、事の成り行きを最後まで見守っていた佐助はぽつりと呟いて縁の下から這い出た。ん、と一つ伸びをして、庭に倒れた主の元へ向かう。
濡れた前髪が蒼白な頬に張り付き、それを照らす冷たい月明かりのせいで、まるで死人のようだと佐助は思った。
すっかり冷えてしまった体を手ぬぐいで拭いてやり、その軽い体を抱き上げる。主の部屋へ戻る途中、女中部屋を覗いて湯たんぽを用意させた。
こうなってしまった幸村は少々乱雑に扱っても目を醒ましはしないことも知っているが、壊れ物でも扱うように佐助は濡れた着衣を着替えさせていく。途中、湯たんぽを持ってきた女中が控えめに声を掛けたが、幸村から目も離さぬままこのことは他言無用と伝えただけだった。
「誰にも言えないならせめて、俺様に言ってくれたらいいのに。」
そしたら俺が旦那の代わりに返り血でも罰でも受けてあげるのに。
幸村の頬を撫でながら佐助が呟いたことは誰も知らない。
End
あなたのためなら鬼にでも夜叉にでもなれるのに。