しんとした深夜の豪邸のバスルームで、毛利は服のままシャワーの水を浴びていた。
床を打つシャワーの水が毛利の左腕を汚してしたたる血液をさらって排水溝へ流れて行く。
肘まで捲り上げたワイシャツは濡れそぼり、血を吸って醜悪な色に染まる。
しかし、冷たいタイルの上に座り込んだ毛利の虚ろな琥珀の瞳はそれを映しはしなかった。
さっき毛利が撃ち抜いた異母弟の胸に咲いた大輪の血濡れた花。
脳裏に焼き付いたそれが毛利の網膜に残像を映し出し、驚愕に見開かれる弟の金色のまなこがスローモーションのように再生された。
込み上げた吐き気に抗う事なく吐き出した胃液が毛利の黒いパンツを汚したが、むせる毛利の眸にその光景は映らない。
抜け出すことのできない残像が毛利を蝕んでいた。


事の発端は士官学校を卒業し、束の間の休みを自宅で過ごす為に家に戻った3日前に遡る。
軍部高官の父を持つ毛利は、多くの軍関係者の子供がそうであるように義務教育を終えてすぐに士官学校へと入学した。
軍の参謀として名高い父親の名に恥じぬ優秀さの頭角をそのころからあらわしていた毛利はトップクラスの成績で士官学校を卒業し、軍部の最高司令官である総帥の護衛から軍内部の粛清まで手広く担う親衛隊への配属が決まっていた。
優秀さはさることながら、容姿や家系までもが選考の対象となるその隊に配属されることは、軍人としての誉れでありこの国での安定した生活を約束されたも同然である。
更に毛利は同じくトップクラスの成績で卒業した伊達と共に尉官ではなく少佐という佐官をもってその親衛隊へ入隊することが決まっている。異例の優遇ではあったが、親衛隊の入隊試験のときに同席した総帥の采配と聞けば反するものもいなかった。
そのことを一足先に報告した母はお父様もお喜びになるでしょうね、と微笑み、弟は羨望と畏敬がないまぜになった瞳で毛利を賞賛した。
毛利の軍人としての将来は順風満帆に思えたし、そのうち自分も父のようにそれなりの家柄の娘と結婚して幸せとも不幸だとも言えない結婚生活を送るのだろうと思っていた。
夕方、日勤を終えて軍部から帰宅した父に簡単な挨拶をすませると、書斎で話を聞こうと言われて何の疑いもなくそのあとをついていった。
思えばこれが毛利の人生が奈落へと突き落とされるための序章だったのかもしれない。
豪奢な書斎の応接用ソファーで向き合った父に、無事に卒業したことと配属先を伝えると、予想よりも冷たい声がそうか、と告げた。

「元就、近頃急激に景気が悪化しているのは知っているな?」
「はい。」
「親衛隊が軍内部の粛清を管轄としているのは知っているだろうが、景気の低迷によって管轄が増えるそうだ。」
「何が増えるというのです?」
「非支配層の粛正だ。」
「なぜ軍部はそのようなことを…」

景気の低迷の原因を非支配層に押しやるためだ。
悪魔の思想だな、と胸中に吐き捨てた毛利は秀麗な眉を歪めてみせた。
父はそれに気付いた素振りもなく話を続けている。
目の前に座る父は今後如何に親衛隊の存在が重要であるかを訥々と話しているが、毛利は然程の興味も感じられないまま聞いていた。
被支配者階級の殲滅という任務は、元より感情の起伏の少ない毛利に適任であるように思えた。
国民や絶対の忠誠を誓う独裁者が望むのは公平や公正ではない。如何に迅速に対象を始末し、悪魔への供物として捧げるかである。
その数でのみはかられる忠誠になど毛利はなんの感慨も持たなかったし、傲慢で残酷な独裁者に誓う忠誠など持ち合わせてもいなかった。
ただ、忠誠を誓った方がこの世界で生きてゆくに都合がよく、毛利は生まれながらにしてそのチャンスを持っていたという、ただそれだけで。
しかし、形だけでも忠誠を誓い、親衛隊への入隊を許可された毛利を、軍部の高官である父親はもう息子としては見ていなかった。
親衛隊のいち少佐でしかない毛利は、父にとっては己に絶対の忠誠を誓う体のいい手駒のようなものなのだろう。父は毛利に残酷すぎる初任務を言い渡した。

「弟を殺せ。」
「な…!?」
「お前も知っていることだが、あいつの母親はお前とは違う。」
「まさか、」

毛利には兄弟がいた。
正妻の子であり、毛利家の正当な後継者である毛利と、父が愛妾に産ませた弟。
そして、今までは知らなかったことだが愛妾は被支配階級の女で、娼婦であったのだ。
その子供を引き取ったのは良家にありがちな子供を使った家同士の政略のためだ。
唯一の子供である毛利には家を継いでもらわねばならないが、いざというときに切り札になる子供がいないのでは心許ない。
そのことを幼心にも理解していた毛利は半分しか血のつながらない弟を疎ましく思ったりはしなかった。むしろ、父の血を色濃く受け継いだのか、聡明な弟を可愛がっていたくらいだ。
先程も弟からの賞賛をくすぐったく思いこそすれ、疎ましく思うことはなかった。いつか弟が同じ道を歩み、自分の部下として入隊してくることをささやかな理想として思い描いたほどである。
しかし、下賎の血をを引く者が軍部高官の家族であるなど周囲に知れたら大変な事になる。時代と言う大きな流れに逆らうことはできん、と父は己の卑怯を責任転嫁して大仰に溜め息を吐いてみせた。
それが他に漏れる前に始末しろという父の顔面は今までに毛利が見たことのないものであった。
己の保身にのみ固執する冷酷で傲慢な、それでいて憐れでちっぽけで己に迫る危機にただ怯えるだけのその狡猾な目は、誇り高く高潔であれと幼い毛利に凛とした背中で説いた父のものではなかった。
激しい嫌悪感に毛利の視界が闇に染まる。
着ていたセーターの裾を握った毛利の指先が小さく震えた。
それは怒りでもあり絶望でもあるが、父の単純な浅ましさや卑しさを完全には否定できなかった。
自分が士官学校でしてきたことはそれの縮図ではないか、と思ったのだ。
学友を蹴落とし、蹴落とされたそれらを踏み台にして自分の血統の良さと優秀さを武器に勝ち取ったのが親衛隊少佐としての異例の入隊であり、そのためになら汚い手段さえも厭わなかったではないか、と。
止まない目眩は同族嫌悪でしかないと毛利は理解していた。

「それが毛利のため。ひいてはお前のためにもなる。」

耳の奥に眠る蝸牛を鷲掴みにされ、揺れて回る視界に噛んだ唇がじくじくと痛む。
失った平衡感覚の中で、殺せと告げる父の声だけが繰り返された。





微かな音を立てて開けた扉の向こうは静かな月明かりが満ちていた。
青白い光が照らすベッドに眠る弟のあどけない顔は既に死んでいるようにも見えた。
毛利に似ない金色の髪が潔癖に白いシーツに広がるのが目に痛い。
それはまるで剥き出しの神経や脳や、そういった物を無遠慮に蹂躙するような不快感を毛利に与える。
一度は忘れた眩暈が毛利を襲った。部屋に満ちる静寂と消毒されたあどけなさ、そして右手に持った引き金を引いてしまえば二度と戻れない平穏。
それらを天秤にかけたときに、毛利が選べたのは自分の未来と父の軍部高官としての挟持だけだった。
妄想の敵意の中、毛利はその細い指には重たすぎる引き金をひいた。
左胸から跳ねた返り血が白いシャツを染め、一瞬驚愕に見開かれた弟の黄金色の瞳が殺人者の姿を映す。
それに耐えられなかった毛利はもう一度引き金を引いた。
弟の眉間から飛んだ脳漿が冷たい頬を汚す。
涙を流す資格すらないと決めた心はただきりぎりと軋む痛みに悲鳴を上げた。
崩れ落ちた床の上に流れた血液が染みを作り、毛利の手を染めて鼻につく粘性の香りが毛利の脳髄を揺らす。
人を殺すということの重さは理解しているつもりだった。そのあとに背負わなくてはいけないものがあるということも。
しかし、この数発よりも重たい何かを背負うことは毛利のこのあとの生涯でないだろうとも考える。少しだけ安堵した己の脆弱と薄情に嫌悪の震えが走った。
どれくらい座り込んでいたのかはわからない。
ふらふらとバスルームへ向かい、着衣のままシャワーの蛇口を捻る。
拳銃に張り付いてしまったように動かない指先を左手でゆっくりと剥がすと、硬質な音を立てて拳銃が落下した。
冷たい水が拳銃に纏わりつきながら薄赤く染まって足元へ流れるのを眺める毛利の目に涙はない。
守るべきものを自ら手にかけた己に涙を流す権利などないのだと言い聞かるように頭から冷たい水をかぶる。
己の物ではない血液が毛利を責め、叫び出しそうになる衝動を飲み込んだ胃が痙攣した。
喉奥に感じる蠕動にまかせて胃の内容物を吐き出した毛利は栗色の髪から流れ落ちる無色の水を見ていた。
自分は既に心などなくしているのだと、類を見ない冷酷さで周囲を圧倒してきた毛利はそう思っていた。
然りとて、毛利とて人の子である。
なくしたと思っていた心は確かに存在し、今こうして毛利を苦しめている。
保身の為に我が子さえもを手にかける父の不条理と、唐突に覆された父親像、そして実現されなかったささやかな理想。
結局はそれに逆らうことも出来ず弟を手にかけた己の醜悪。
不条理と醜悪は同じ保身に起因するという残酷な事実。
それが己は所詮父の子であり、こんなにも嫌悪する父と同じ穴の狢でしかないという結論を突きつける。
目についた剃刀を手に、一心不乱に己を染める血液を自分の物へと塗り替える姿は痛々しくもあり禍々しくもあった。
その裏に隠れた高潔な精神が崩れることもできずに毛利を苦しめる。
唐突に崩れ去った毛利を毛利たらしめる根幹。それを失ってなお冷静でいられるほど毛利は外道にはなりきれなかった。
せめてこの身を濡らす血液が自分の物であれば救われると切り刻んだ腕だけが毛利を擁護する。
白い前腕の内側。
薄い皮膚を切り裂けばパカリと開いた白い脂肪に鮮血が滲む。
次から次へと溢れ出すそれを流す冷たい水が邪魔で毛利は震える痩躯を背にした壁にもたれさせた。
ずるずると座り込むその右手は限度を知らず毛利を傷つける。
痛みなど感じるのもおこがましい。死んだ弟は、もう痛みを感じることもできないのだ。
毛利が奪った命の重さとその時間の尊さに比べれば毛利の苦しみなど取るに足らない物。
しかし死ぬことは出来ない。毛利とて自分が一番可愛いのだ。
流れ出す血液に安堵する己が耳元で嘲笑う。
父を憎むことも、弟を蔑むことも、まして自分を赦すこともできない毛利の潔癖がその折れそうな首をじりじりと締め付ける。


翌朝、騒動の最中に現れた毛利の琥珀の瞳には孤高の潔癖だけが色を残していた。


End

精神を蝕む痛みに比べれば、失う痛みなどたいしたことはない。
2011/07/06 加筆修正

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