- 猿飛は薄汚れた街の薄汚れたアパルトメントに住んでいた。
母は美しい橙色の髪を持った美しい娼婦だった。
父の顔は知らない。どうせ母を買ったどこかの軍人だろうと猿飛は思っていたし、それについて母と話した覚えもなかった。
街には独裁者からの弾圧を免れた異民族と混血、そして落ちぶれた純血でも迫害対象でもない混血が入り交じっていた。
時折やってくる親衛隊が粛正と称した殺戮を繰り返すその殺伐として渇いた街で育った猿飛はやはり渇いていた。
嬉しいことや楽しいことは起こらない、血のニオイと圧倒的な権力への恐怖ばかりのその街で希望に溢れた将来を望めと言う方が酷であるというものだ。
そして迫害の対象であるわけでもなく、かと言って優遇される純血でもない猿飛にとって、独裁者はただ君臨するものであり、嫌悪の対象でもない。
猿飛と同じくらいの異民族の子や、迫害される混血の子供達はみな一様に独裁者が倒され迫害されない未来を描くが、そうではない猿飛には描く未来などなかった。
このままこの何もない街でいつか訪れる死をじっと待ち続けるだけだ。
ある日、客が来るからと部屋を追い出された猿飛が道端で時間を潰している時に、親衛隊の粛正部隊が街を訪れた。
街の住人達が家に閉じこもり、恐怖と嫌悪に固く扉を閉ざす中、帰る場所のない猿飛だけが形だけの通に取り残されていた。
乱れなく歩を進める一軍の先頭、鷹揚に歩く右目を眼帯で隠した男が猿飛の前で足を止めた。
「この辺に異民族を匿う奴らがいるらしいが…知ってるか?」
猿飛は怯えも見せず、冷ややかな視線を男に投げると一軒の家を指差した。
そこは街の中でも比較的裕福な家だった。
最近、そこに見知らぬ人間が出入りしているのを昼夜問わず部屋を追い出される猿飛は知っていた。
男は素直じゃねぇかと厭らしく唇を歪め、猿飛に扉を開けるように言う。
猿飛はちいさく頷き、その家の扉を叩いた。
「おじさん、佐助だけど…家に帰れないんだ。暫く置いてくれないかな?」
猿飛の境遇を知る家の主は薄く扉を開け、速く入るようにと猿飛に言う。
しかし、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
眼帯の男が猿飛の背後から彼を撃ち殺したからである。
扉を押し開けて倒れる骸に、家の中から耳をつんざく悲鳴が響く。
男の後ろに控えていた隊員達が踏み込み、そこにいた全員がものの数分で骸になる。
血を流し倒れる屍の中、その男は隻眼を細めた。
戸口に立つ猿飛にそれは見えなかったが、一寸の乱れもなく揃った長靴の踵と凛と伸びた背中が美しいとぼんやりと思った。
折り重なる屍の中には猿飛を形だけでも可愛がってくれた夫人や娘の物もある。
しかし、目を見開いたまま絶命するそれらを見ても猿飛の心は波紋一つ描くことはない。
大変な事をしてしまったとも、仕方がなかったとも思わない。
ただ、目の前で知っている人間が死んでしまったという事実だけを酷薄に見つめる無表情の猿飛を振り返った隻眼の男の唇がいびつな笑みを刻む。
その邪悪さを街の人間は嫌悪したが、ほとんど母に捨てられたような猿飛はそんなちっぽけな悪に嫌悪など感じなかったし、幼い佐助をも買っていく男たちの方がよっぽど身近で嫌悪すべき悪だった。
「お前、名前は?」
「さるとび…、さすけ」
突然前髪を掴まれた猿飛は、けれども驚きもせずに緩慢に男の隻眼を見つめ、反り返った喉のせいで引き攣る声で答えた。
思いのほか細いオレンジ色の髪がぶつりと音を立てて千切れる。
男はその漆黒の眸にきらきらと残虐の光を宿したまま、端正で残酷な顔を寄せると猿飛の右の目蓋を舐めた。
反射的に閉じた瞼をこじ開け、無遠慮な赤い舌が猿飛の視界を蹂躙する。
不快感に一瞬眉間に皴を刻んだ猿飛だったが、すぐに無表情を取り戻す。
蹂躙など、猿飛にとっては珍しくもなければ嫌悪するものでもない。ただ差し出せばその時間は終わるのだ。
そのことを悟って動かない佐助の眼球から口を離した男は満足そうに隻眼を弦月に歪め、形の良い唇を舐めた。
「お前、中々上等じゃねぇか。一緒に来るなら拾ってやる。どうだ?」
男の手が髪から離れてもなお猿飛は男から目を離さなかった。
作り物のように整った顔面に不遜で傲慢な残虐さを刷いたその男の真意はわからない。
ただ、この男は自分をひとりの個人として認識するのか、とほんの少しだけ驚いてみせた。
この男の手を掴んだ先に何があるかなど想像もつかないが、美しい娼婦の待つあの部屋と、渇いたこの街に居続ける理由も見つからない。
欲はないが、未練もない。
ただ、人間として識別される生活、と言うものには興味があった。それだけの理由で猿飛は伊達の血に汚れ切った手を取った。
「イイコだな、佐助。」
血に塗れた男の長靴の爪先に跪づき、忠誠のキスを。
見下ろす獰猛な捕食者の瞳は、きっと裏切らない。
猿飛はそう確信した。
今より堕ちるなど、あり得ないのだ。
End
愛してなんていらないの、ずっと傍に飾っていて。
20011/07/06 加筆修正