真田が出て行った部屋で暫く他愛のない話に花を咲かせていた片倉と長曾我部であったが、中々帰って来ない真田に痺れを切らし先に寝てしまう事にした。
軍装を解き、タンクトップと煙管服の下に着替えて決して柔らかいとは言えないベッドに潜り込む。
明かりの消えた室内はしんと冷めた静寂に満ちた。
洋箪笥の上に鎮座する置き時計が精密に時を刻む音が厭に大きく響く。
寝付けない長曾我部は寝返りを打って鋭い眼光を宿した隻眼で汚い天井を睨み付ける。
普段いくら時化た海の上であっても平気で眠れる長曾我部が眠れないなど珍しい。
長曾我部は睨み付ける天井に数人の顔を思い描く。
夕方、ここへ到着した時に出迎えた艶やかな髪をした下士官といい、対面した毛利といい、ここに従軍する者は皆一様に表情がない。
規則正しく統制された独裁者の操り人形のような無表情の白い面はどこか嘘臭く、それでいて頑なに侵入を拒む鉄壁の城塞のようだった。
しかし、その中で唯一あの伊達と言う男だけは腹の底に蠢く醜悪な恣意を剥き出しにしていた。
不躾に三人を舐めた昏い視線。無邪気故の残酷さを孕んだ笑み。
それは幼い子供がバッタの足をもいで喜んでいるような、無知故の残酷さに近い。
しかし、伊達はまだ若いとは言っても少将なのだ。それなりに酸いも甘いも噛み分けた大人のはずである。
(酸いと甘いを噛み分けたことが分別に直結するわけではないのだが、長曾我部の今までの人生を思えばそこまで考え至るはずもない。)
まるで体だけ大きくなって精神は子供のような伊達を、長曾我部の本能は危険だと告げていたし関わらないに越したことはないとも思う。
さりとて向こうから手を出してきた場合には何があっても贖罪させるというのが長曾我部のやり方だ。
気に入らねぇとちいさく舌打ちをした長曾我部は静かにベッドを抜け出し、礼服の上衣だけを肩に羽織って部屋を出た。
片倉は寝ているのか起きているのか、長曾我部を止めなかった。

薄暗い廊下を歩く軍靴の音が湿気た空気に波紋を広げる。
水を打ったような静寂の中でその音は些か耳に痛い。
それでも真田を見つけなくてはいけないという半ば義務感のようなものが長曾我部の足を進ませた。
寒々とした廊下にドアの隙間から漏れる光もよそよそしく、作りものめいたそれに長曾我部は舌打ちする。
長曾我部が感じている不穏や薄気味悪さは決して気のせいではない。
すべてが氷の中のように絶対零度で存在するここは、しかし筆舌に尽くし難い負の空気だけが纏わり付く。
長曾我部は歩を早めた。
行く宛てがあるわけではないが、なんとなく真田を捜すかと数時間前に辞した伊達の執務室を目指す。
途中の渡り廊下の扉を開ければ冷たい雨と強い風が長曾我部の細い髪を揺らした。
雨のせいでいっそう濃さを増す夜の闇に長曾我部は肩を竦めた。遠くで稲光が閃き、目指す部屋がある建物をその不穏な空気ごと浮かび上がらせる。
その影に煌めく何かを見つけた長曾我部は再び落ちた闇に目を懲らす。
強く煌めいたそれは真田の軍刀の柄であった。
雨に濡れるのも構わず呆然と立ち尽くす背中は何か恐ろしく重たいものを背負ったように丸い。
常にぴしりと伸びた背が幼くも凛々しい印象を与える常の真田からは程遠いが、背中に一筋落ちる長い濡れ髪は間違いなく真田のものであった。
肩に光る肩章も間違いなく少佐という階級を示している。
(そしてこの辺りに長曾我部の知る軍装に少佐の肩章を付けるものは真田しかいない。)
その場から動かずに真田を呼ぶが、立ち尽くす真田の背中は身じろぎもしなかった。
ただただ立ち尽くすその背中に近付いた長曾我部は、強い雨がぬかるんだ地面を打つ波紋を呆然と見つめる瞳に眉を顰めた。

「オイ、真田。」

肩を叩いた手に、大袈裟なほど大仰に振り返る。
真田の丸い瞳が怯えに爛々と輝くのを認めた長曾我部は一瞬面食らいまじまじと真田を見つめた。
何度か戦場で見たことのある真田は、いつだって真っ先に全線へと飛び出していく怖いもの知らずと言う言葉がしっくりと来る凛々しい軍人だ。
士官学校時代の同級生である片倉の秘書官を勤めていた時の武勇伝もいくつか片倉から聞いている。
直接的に部下として預かったことはないが、大将が可愛がっているくらいだ、よっぽど将来に見込みのある男なのだろうと思っていただけに、目の前の真田の姿と持っていたイメージのギャップに長曾我部は一瞬言葉を呑み込んだ。
普段幼ささえ感じさせるおぼこな造りの顔に短い髪から流れ落ちる雨がはっとするほど色を付けるその面は、しかし冷えて色を失っていた。
部屋を出て行く前には確かにからからと笑っていたのだ。伊達とか言う男が何某かの行動を仕掛けたに違いない。

長曾我部は細い眉の間に皺を寄せて真田との距離を一歩詰めた。

「何があった?」

頭をよぎる伊達の下卑た笑みをかたどる薄い唇が長曾我部を嗤った。
一緒の部隊として派遣されている以上、階級が上になる長曾我部には真田を守るための努力をするだけの義務がある。
その義務を全うできなかったのだ、と嘲笑う残像をゆっくりと瞬きで掻き消した長曾我部は真田の肩をに指先を伸ばした。
真田の見た目よりはしっかりとした肩を掴む長曾我部の厚い掌に知らず力が篭る。
真田の細い顎からぽたりと雫が落ちた。
それが泪なのか雨なのか、この暗闇の中で長曾我部が確認する術はなかった。

「おれは、…」

言い淀んだ真田の手が震えを殺すように拳を作る。
長曾我部は叩き付けるような雨を黙殺し、ただその言葉の続きを待つ。
ばらばらとトタンを打つ雨の音を掻き消すように雷の炸裂音が全てを静寂へと導いた。

「どうすれば…」
「人殺しなど…殺戮者になど…」

ともすれば雨音に掻き消されてしまいそうな真田の小さな声を拾い上げた長曾我部は、一瞬安堵の表情を浮かべた。
前線に出て行く軍人たればこそ、誰でも一度は考えることだ。
それをなぜ、今日そして今考えることになったのかは別だとしても、まだ手遅れではなかったようだと真田には見えない隻眼の奥で安堵する。
従軍して10年ほどが経とうとする長曾我部にしてみれば、同じことを考える軍人を何人も見てきた。
それは長曾我部とて例外ではない。
(その前に精神を崩壊させて軍を去って行く者もいたが、それを真田が知る必要はない。)

「なりたくねぇってのは無理な相談だな、真田。」

感じた安堵の一切を消し、硬い表情を作った長曾我部は真田の肩に置いていた手を小さな頭に乗せた。
固い髪が濡れて纏わり付くのも気にせず、長曾我部はそのちいさな頭を撫ぜた。
冷たい雨に体温を奪われたチアノーゼの唇が小さく震えた。

「俺達は軍人だ。相手が誰であれ、邪魔な奴らは殺すしかねぇ。」

長曾我部の隻眼が鋭く歪み、空を走る稲妻が美しい銀髪に乱反射する。
稲妻を背に真田を見つめるその姿は慈悲などとは無縁の鬼神の如く雄々しく、そして迷いのない決意を滲ませていた。
その決意があったからこそ、長曾我部は数々の激戦で鬼籍に入ることなくいまもこうして呼吸をしているのだとさえ思わせるそれを見開いたまなこに映した真田はしかし、その真実を受け止めることができないでいた。

「何かを守るためには必ず犠牲が出る。その犠牲を背負って、守るものは重たくなる。」
「投げ出せねぇ程重くなる頃にはお前もそんな事でめそめそすることもなくなる。」
「今は辛いかもしれねぇが、何の為に戦うのか、よーく考えてみるこったな。」

現状の真田に掛けるには些か酷すぎるとも言える言葉とは裏腹に長曾我部の声音は柔らかい。
真田の頭に乗せられたままの手がほんのりと熱を伝え、真田はそれまで捕らわれていた無機質からようやっと解放された。
長曾我部の守るものとは何なのかまではわからずとも闇色に呑まれない決意を背負うこの男が既にそれを見つけていることは確かであった。
真田の肩が弛緩したのを感じ取った長曾我部は肩に引っかけていた礼服の上衣をその傷ついた肩にかけてやった。
断ろうとする視線を感じ取った長曾我部はいいから、と鋭い犬歯を覗かせて無邪気に笑う。
降り止むことを知らない冷たい雨は、理想と現実の間で揺れ動く真田にこれからも降り続く。
それでも真田は強く、ただその背を凛と伸ばし迷いなく戦場を駆けねばならない。
それが軍人と呼ばれる者が最低限はたさなくてはならない義務であり、軍人になると決めた時に背負わなくてはならない責務なのだ。
そのことを身をもって知っている長曾我部は、せめてこの青年のしるべとなり、迷わぬように導いてやれればと思う。
純粋であるからこその葛藤を微笑ましく思っても、それを取り除いてやることなどできないと知っているから。
すっかり雨に冷えた肩を抱き、静かにその場をあとにする。
その場を舐めていた見物の視線があったことを真田に知られるわけにはいかないので振り返らずにいたが、次のその視線の持ち主と会った時に手を出さずにいられるかはわからないな、と小さく溜め息を吐いた。
そのことももちろん、真田は知らない。





雨の中、歩み始めた二人の背中をガラス越しに眺める伊達の視線が満足そうに笑む。
左の眼の奥、淀んだ闇の色。
乾燥した薄い唇を舐める舌の赤色だけが不穏に浮かび上がる。

「こんなにあっさり壊れてもらっちゃあ困るからな。」

応接用のソファーを振り返り、くつくつと喉を鳴らす。
呼び出しに応じてソファーで脚を組んでいた毛利が不快そうに眉を歪めた。
冷たい伊達の指先が毛利の細い顎をさらい、鼻先にさも愉快げな残忍な瞳が近づく。
避けるのも面倒な毛利は黙って目を閉じた。

「せめてまぁ、お前くらいはもってもらわねぇとな。」
「なぁ、毛利……愛してるぜ。」

毛利の色のない唇を伊達の赤い唇が攫う。
これが愛なら、愛とは随分と独り善がりで自分勝手なものだなと毛利は心中で呟く。
しかし愛など知らない毛利にとってそれはどうでもいい事であった。
遊びであろうが、本気であろうが、嘘であろうが。毛利にとって伊達という男は秘密を共有する者でしかないのだから。
甘受する唇は指先と同じに冷たく、それでいて対象のない憎悪に焦がれる熱の味がした。

End

立ち上がったならば惑うことは許されない、それがさだめ。
2011/07/08 加筆修正

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