軋むベッドの上で猿飛は昔覗き込んだドアの隙間を思い出していた。
明度の低い室内で男の腹に跨がり、己と同じ色の髪の毛を振り乱してあられもなく喘ぐ女。
幼心にその女と行為を嫌悪すべきもののように思っていた。
何度も目撃した、それ。
しかし、猿飛はそれを見てから半年と間隔をあけずに同じことをする羽目になった。
正確にはただ泣き叫んでいただけだが、と内心で訂正してから血は争えないってことか、とその酷薄な唇に嘲笑を乗せた。
あのとき、あの女が相手にしていた男よりも自分が相手にしている男の社会的な地位は上だ。
していることも、そのどちらもがただ欲に従順な無能であることに変わりはないが。
先輩軍人に組み敷かれ、喘ぐ自分もそれとなんら変わりはないのだと理解した猿飛の背筋を恐怖にも似た快感の痺れが走る。
細い肩を強張らせて吐精した猿飛につられるようにしてのしかかる男もまた猿飛の胎内に欲を吐き出す。
触れるのも躊躇われるような奥深く、身体と精神の境目に叩きつけられたそれが猿飛を蝕む。
嫌悪に込み上げた嘔吐感を脱力した躯で押さえ込んだ猿飛は枕に顔を埋めた。
既にベッドから下りて着衣を整えた男は静かに部屋を出ていく。
早く後処理をしておかないと腹が下る。そうは思うものの吐精後の倦怠感と精神的な疲労が体を鉛のように重たくしていた。
もそもそとベッドの脇に首だけを動かした猿飛は床に胃の内容物を吐き出す。
殆ど固形物のないそれは猿飛の喉を焼き、更なる嘔吐感を呼んだ。
嘔吐感に任せて吐き出すだけ吐き出した猿飛は肌蹴た白いワイシャツの袖で色の悪い唇を拭う。
安っぽい蛍光灯と吐瀉物の饐えたニオイがあの薄汚い部屋と美しい娼婦を思わせた。

猿飛がこの親衛隊へ入り5年ほどが経過した。
今では中尉というそれなりの階級にいるが、それは心を捨てた猿飛が躊躇なく伊達の命令に従って残虐とも言えるやり方で粛清を行い、伊達の興を買ったからに他ならない。
元々血統を重んじるこの親衛隊で猿飛は異色だった。
虐げられるか、無いものにされるしかない下層階級の出身である猿飛が士官学校もでないままに親衛隊に所属していること自体おかしいのである。
しかし虐げられ存在を無視される事に慣れすぎた猿飛は、親衛隊に従軍する他の軍人の欲の処理に都合がよかった。
おおかた裏で伊達が何かを吹聴したのだろうが猿飛にとってそれはたいした問題ではなかった。
(それに何を言われていたとしてもそれは事実に限りなく近い。)
猿飛にとって伊達は初めて自分の存在を目に留め、どんな形であれ存在を認めてくれた人間であったし、猿飛にそれなりの社会的地位や価値をあたえ、今も秘書官としてもっとも身近に置いてくれている。
それだけで伊達は猿飛が盲目に従うだけの価値のある人間だった。

コツ、と安っぽいドアを叩く音に猿飛の華奢で若い背中が跳ねる。
振り返れば開けたドアに凭れ、口元を嫌らしい笑みに歪めた伊達が立っていた。
乱れた姿のまま振り返る猿飛の冷め切った瞳に僅かばかり歓喜の色が柔らかく灯る。
後ろ手にドアを閉めた伊達の高潔とも言える靴音が雄と吐瀉物のニオイが篭る部屋に不似合いに響いた。
俯せに横たえた背中に伊達の細い膝が減り込む。
鮮やかなオレンジ色の髪を掴めばぶつりと千切れるそれ。
他の部下のように短く切りそろえさせないのは、その感触が気に入っているからでもあった。
背中に伊達の体重を載せたまま無理矢理顔を持ち上げさせられた体がぎしりと軋むが、伊達は気にした様子もなく猿飛の肩甲骨の間についた膝に容赦なく体重をかける。

「随分きたねぇな。猿飛。」
「しょうしょ、っ…」
「さっきの男は吐くほど嫌だったか?」

喉を鳴らして笑った伊達が膝を腰に移動させて、浮き出た猿飛の肩甲骨に噛み付く。
痛みに息を詰めた猿飛はしかし後昏い安堵も同時に感じていた。
まだこの人は自分を見ていてくれる。
残虐に細められる伊達の眸がいつか自分を映さなくなる日が、猿飛は怖かった。
薄く喘いだ唇に伊達の長い指が入り込み、無遠慮に喉を突く。
治まり切らない嘔吐感が振り返し、猿飛は枕に嘔吐した。
蔑む瞳でむせる猿飛をみつめる伊達はいっそ剣呑なほどの残虐を揺らめかせ、ついきっきまで雄に犯されていた後孔をまさぐり始める。
生理的な嫌悪に強張った体など素知らぬふりで胎内を蹂躙する指はひとかけらの感情も悟らせない。

「きったねぇな…猿飛。」
「っ、う…」

快感を与えるでもなくただ気まぐれに蠢く指先がもどかしく、猿飛の細い腰がわずか揺らめく。
そうすれば事が迅速に済まされる事を知った体はただ快感を追い、思考を停止させる。
とめどなく吐き出した胃の中は既に空になってしまったというのに食道が不穏に蠕動する不快。
雄に蹂躙される体と充満する嫌悪と恐怖が猿飛の体を走る。
伊達の姿に一瞬とはいえ気を抜いて安堵した精神にその恐怖は甚大な損害を与えたようで、がたがたと震える体を支えきれずに吐瀉物に汚れた枕に顔面から落下した。
そんな猿飛を見た伊達は満足げに唇を歪めて嗤った。

「お前は、汚れてる方が似合う。」
「い、…っ、…やめ、」
「泣けよ。もっと、汚れて、…縋って見せろよ。」
「やめ、…ごめ、なさ……ゆる、し…ッあ…っふ」

吐き出した胃液が目に入って酷く痛んだ。
確かめられているだけのかもしれない。猿飛の胸に絶対的なものとして刻まれている伊達への服従を。
先程まで脳裏にふわふわと浮かんでいた過去の残像が、確たる記憶となって猿飛の精神を蝕む。
幼い体に苦痛と恐怖だけを刻んでいった男の指先、ただ快感だけを追っていればいいのだと気付いたあの日の天井。
繰り返す謝罪と縋る腕に満足した伊達は汚れた指を猿飛から引き抜き、そのまま猿飛の目尻に浮かんだ涙を拭う。
優しさも、残忍さも持たない冷たく静かな指先。猿飛はただ嗚咽に喘ぎ、震えていた。
引き抜いた指を口の中に押し込まれ、猿飛は咳き込んだ。
苦く酸っぱい胃液と、青臭い精液の臭い、そして涙の甘美な塩味。
汚れ切った自身を思い知らされるその味。
然りとて不快を感じないのはきっとこれが伊達の指だからだろうかと猿飛はいつでも飛ばない理性の片隅でぼんやりと考えた。

一切の激情が消えた伊達の眼は酷く虚ろだった。
凶暴な純粋を飼う伊達は、色に例えるなら黒。
毛利や猿飛とは比べものにならないほどの純粋な黒が伊達を愛でている。
何物にも染まらず、飲み込み、巻き込むことを厭わない、闇の色。
生まれ持ったその色は培養された純粋の白を厭う。
猿飛の無色を蝕み、毛利の紅掛空を飲み込むそれはしかし、宿主たる伊達をも犯していることに気づかない。
強引に口付けられた唇は切なく汚れて、行為の先をねだる。
しかし伊達の体が猿飛の体を抱くことはなかった。これも、あの日から繰り返されてきた絶望だ。
唯一許した人間が猿飛を、猿飛の体さえも愛でることはない。


東の空が、明ける。

End

お願いだから、暴かないで。この空虚と切ない骸を。
2011/07/06 加筆修正

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