夕食を終え、長曾我部は真田、片倉と共に食堂を後にした。
寒々しい廊下も腹が満たされているせいか、心持ち無機質さを失って見える。
揃わない靴音と屈託ない笑い声を響かせて歩く廊下は3人しかいないこともあってか帝国軍の本部を思い出させ、長曾我部はその隻眼をゆるりと笑みに細めた。
頭の後ろで手を組み、真田の話に傾けていた耳が神経質に高く鳴る靴音を捉えて長曾我部は真田に向けていた視線を前に向けた。

「あれは…毛利准将…?」

元より色素の薄い顔を更に蒼白にして、青白い肌には目立ちすぎる赤い唇を引き結び、俯きがちに歩いている。
常はきちりと閉じられたシャツの前は乱れ、それを押さえるように胸の前で小さな拳を握り、3人には目もくれずに早足で部屋へと入って行く。
真田の表情が曇ったのを宥めるように短く硬い髪をくしゃりと混ぜ、長曾我部は笑った。
真田を挟んだ向こう側の片倉は切れ長の目を更に鋭くして閉じた扉を睨みつけている。
その表情から感情は読み取れない。
足を止めた真田を促し、黙したまま部屋へと戻る。
俯いたままの真田を風呂場に押し込み、タバコをふかす片倉を振り返ってやれやれとため息を吐いた長曾我部はベッドに腰掛けた。
安いスプリングが軋み、耳障りな音を立てる。

「…気になるか?」
「まぁな。」

膝に肘をつき、爪先を眺めている長曾我部の形のいい後頭部に片倉の声が落ちる。
苦笑混じりにいらえを寄越す長曾我部はしかし、顔を上げない。
ふぅ、と煙を吐き出した片倉が深入りはするもんじゃねえよ、と億劫そうに返す。
元が淡泊でどこか冷めた片倉らしい言葉だった。
反して面倒見の良い長曾我部は真田しかり、毛利しかり、放って置けない思いで苛々と前髪を掻き上げた。
凛とした印象を与える通った鼻筋を撫でる指先が憂れうのを片倉は唇の片側を上げて見つめた。

「まぁ、止めはしねぇが。」
「まったくアンタらしいな。」
「テメェは止めたって首突っ込みたがるだろ?」
「まぁな。」

くつくつと喉を鳴らした片倉が言えば、隻眼に悪戯っ子のような色を浮かべ、片眉を上げた長曾我部が笑う。
ぎしりと音を立てて立ち上がった長曾我部を諦めたように、されど楽しそうに見上げた片倉は真田には適当にごまかしておいてやると嘯いた。
片手を挙げ、長曾我部は静かに部屋を出た。

毛利が入って行った扉の前、長曾我部は扉を叩こうとした手を持ち上げたまま悩んでいた。
見かけた様子がおかしかったから見に来たなどと言えば、あの能面のような無表情と氷のような嫌悪しか纏わない毛利がどう対応するだろうかと考えてみるが、やはり嫌な顔で出迎えられるのが関の山だろう。
放っておくべきかと思う良心と、気になってしまう好奇心やお節介がせめぐ。
今回の合同軍事演習の真の意図に薄々感づいている長曾我部は、ただ人質然と好き勝手にされるよりはウチの流儀ってもんをここの奴らにも教えてやらなくては、と言う不遜な傲慢さも持ち合わせている。
明確な期間を公示されなかったこの軍事演習、そしてそれを言い渡したときに見た信玄の憂い顔。
そして同盟国との軍事演習に向かうには少々低すぎるとも言える責任者の階級。
全てを重ね合わせてみれば同盟締結のための人質のようなものであることはすぐにわかった。
それに憤りを覚えなかったと言えば嘘になるが、ここへ来るまでの長い航海のうちに、生きて帰ればいいってことだろうと笑い飛ばせるほどには長曾我部も割り切ることができた。
相手は准将だが、表向きは使者として丁重にもてなされている長曾我部だ。無碍にはできないだろうと尻込みする感情を叱咤してから、どうにでもなれと叩いた扉の向こうからいらえはなかった。
何度かノックを繰り返し、悪いとは思ったが金色にくすんだドアノブを回せば、重厚な扉は意外な程に呆気なく開いた。
キィ、と小さく軋む扉を少しだけ押し開ける。
罵声を覚悟で覗き込んだ室内は嗅ぎ慣れた鉄錆の匂いに満ちていた。
室内に充満する不穏な空気に腰に下げたままだった拳銃を構え、慌てて扉を蹴飛ばすように室内に踏み込んだ長曾我部は眼前の光景に時間が止まる思いをした。

がらんとした室内に置かれた皴一つなく整えられたベッド。
糸の切れた操り人形のように手足を投げ出してベッドに凭れかかるように座り込んだ人影。
白いリノリウム張りの床に広がる血液。
夥しい量の、血液。

「おい、アンタ!」

叫んで駆け出した長曾我部の靴が血液を踏んでびちゃりと滑る。
軍服が血に汚れるのも構わずに、虚空に視線を投げる毛利の傍らに膝を付いた。
小さく舌打ちをして誰が、と呟いた長曾我部は毛利の側を離れて部屋中を検分して回るが、どこにも人影はなく窓もかたく閉ざされたままである。
緩慢とも鷹揚とも取れる仕種でちいさな頭を動かした毛利は濁った琥珀にぼんやりと長曾我部の銀糸の髪を捉える。

「…大事ない。捨て置け。」

頼りなげに掠れた声で呟いた毛利はしかし、はっきりとした口調で長曾我部を拒絶した。
その声に毛利に視線を戻した長曾我部は小さな違和感を覚える。
毛利の血液の出所だ。胸でも腹でも脚でもなく、左腕なのだ。
大半がボロと化した左腕のワイシャツを引きちぎり、長曾我部は露になった細い腕に視線を落として絶句する。
血液に塗れた細すぎる腕に刻まれた無数の傷。白い肌にいっそう白く残った傷痕は過去のものだろう。
軍の中にも人を殺す重圧や組織への嫌悪から精神を病むものは少なくないが、ここまできてもなお軍に在籍し続ける者を長曾我部は見たことがなかった。
その上、毛利は准将という位置まで上り詰めている。軍の矛盾や殺人の重さになどもうすっかり慣れていてもおかしくない。
もう痛覚さえ失われているであろう腕の付け根を痛ましさに顔を歪めて握る。
死人のように冷たい腕と多すぎる失血にチアノーゼを呈する唇が死人のようで、長曾我部の体温が一気に下がった。
止血など意味を成さないかもしれなかったが長曾我部はそれ意外に成す術を持たない。
腕を伸ばし、毛利の右手に握られた赤を反射するナイフを取り上げ、扉の方に投げる。
今は理由よりも手当が先だとベッドからシーツを引きはがし、血まみれの毛利の腕にそれを巻いた。

「…放って、おけと、言っている。」
「馬鹿野郎!アンタこのままじゃ死ぬぞ!!」
「…構わぬ。」
「生憎と俺が構うんだ。アンタは黙ってな。」

手当を施す長曾我部を口調だけが明確な意志で拒絶する。
怒鳴り付けた長曾我部は渇いた血液が模様を描くはだけたワイシャツを脱がせにかかる。
途端、毛利の腕が恐ろしいほどの力で長曾我部の手首を掴んだ。
突然のことに毛利に視線をやった長曾我部の隻眼に映る毛利はガチガチと奥歯を鳴らして目を伏せた。
左手よりはまだ体温のある右の指先が縋るように長曾我部の手を拒絶する。
暴かれることをひどく恐れたその指先を剥がし、長曾我部はボタンを開けた。
白すぎる薄い胸板に散らされた赤い鬱血。
毛利の躯を暴いた略奪者が所有の証として散らした凌辱の残滓。毛利の細い声が絶叫を紡いだ。

「アンタ…いったい…」

いらえはない。
ただがたがたと震える痩躯が暴かれる恐怖に黙して耐えるばかりで。
長曾我部は軽すぎる毛利の躯を抱き上げて風呂場へ向かう。
問うたところでこの男の恐怖と拒絶を煽るだけだと悟った長曾我部は熱いシャワーを出して冷えた毛利の躯を温めていく。
毛利はただ躯を強張らせてされるがままになっていた。
ざぁざぁと鳴る水音が痛いほどの静寂を消していくのに二人は救われたのであった。
酷さを増す出血が気にかかったが、冷えた大理石のように冷たかった毛利の躯が徐々に体温を取り戻していくのに小さく安堵の息を吐いた。
ある程度体温の戻った毛利の左腕に巻いたシーツをそっと剥がし、直接シャワーが当たらないように血液を流す。
露呈した傷の深さに長曾我部の表情が歪む。
手首、肘、二の腕の内側。
一歩間違えれば動脈を傷付けることにも成り兼ねない場所に一際深く刻まれた傷。
縦横に走る亀裂は、瓦解しそうな毛利の脆い内面の証明のように刻まれている。盗み見た毛利の顔は長いまつげの先まで無表情で塗り固められていた。

「なぁ、…痛いなら痛ぇって顔しろよ。」
「………」
「見てるこっちのが…痛ぇよ。」

反応を返すことさえ辞めた毛利は眉一つ動かさずに風呂場に篭る湯気を虚ろな目で眺めている。
あの時に毛利を呼び止めていればこんなことにはならなかったのだろうか。しかし、その時の自分が何か毛利にしてやれることがあっただろうか。
過ぎてしまったことを後悔しても、その結果は見えない。
己の無力を握りつぶそうとして失敗した長曾我部の指先が再び毛利の傷に触れる。
泣きそうな長曾我部の声が天井に反響して二人を責める。
溢れた血液が無色を汚して排水溝へとこぼれ落ちて行った。


End

全てを諦めた無表情はただ死神を乞うばかり。
2011/07/06 加筆修正

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