毛利はその男が隻眼となった理由をしらない。
病で失ったとも、拷問で失ったとも言われるいわくつきの右目に、毛利は興味などなかった。
しかし、毛利は眼球の失われた伊達の右の眼窩に棲む闇の深さを知っていた。

毛利を抱く伊達の指先は信じられないほどに優しい。
これが反逆者をこれ以上はないほどに残虐な方法で死へといたらしめるあの指先なのかと思うほどに。
柔らかいベッドの上に体を投げ出す毛利の頬を壊れ物でも扱うように繊細な手つきで撫で、形のいいネクタイの結び目を解き、隙なく一番上まで止められたシャツのボタンを丁寧に外す。
その間も緩むことのない作りものの優しさを毛利はただ無表情に見つめている。
毛利の酷薄な唇を嘗める舌先に従って毛利は緩く口を開け、伊達の肉厚な舌をそのちいさな口腔へと招き入れた。
口腔を犯す舌はしかし、略奪者のなりを潜めた穏やかな動きで毛利の舌を搦め捕った。
舌の裏を擽り、歯列をなぞり、頑なに快感を拒む毛利を宥めるように舌を吸い上げる。
はぁと湿度の高い吐息を吐き出した伊達は、あばらの浮いた毛利の薄い胸板を指先でなぞりながら、筋張った首筋に唇を落とす。
はだけたシャツから剥き出しになった鎖骨に舌を這わせ、所々にあかい鬱血を残す伊達の唇が残虐に歪むことはない。
くすぐったさに時折すくむ背を宥めるように、伊達の冷たい指先が力無く投げ出されたままの毛利の指先に絡む。
僅かばかり熱を帯びはじめた毛利の痩躯が伊達の穏やかな愛撫に跳ねるが、その小さな口は相も変わらずに引き結ばれ、栗色の双眸は己を抱く伊達になど興味は無いとでも言いたげに天井の木目を映すだけである。
伊達はそれを知ってかしらずか、綺麗に磨き込まれた毛利のベルトのバックルに指をかけ、微かな金属音だけを残して毛利を守る全てを取り払った。
暖かな布団の中で肌を合わせる不快感に毛利の華奢なからだが硬直する。
噛み締めた下唇がぶつりと音を立てて切れる。
口腔から鼻腔へと流れ出す血液の醜悪なにおいに、毛利のからだはがたがたと震え出す。
縋る場所を持たない指先が、白いシーツの上をさまよい、泣き出しそうに歪んだ眉の下、切れ長の瞳が視界を閉ざした。
あばらの浮いた白い胸元に唇を寄せていた伊達は体を起こし、毛利の狭い額にかかった栗毛を払う。
細い鼻梁をなぞった指先が毛利の酷薄な唇を撫でた。

軍部高官であった父親が死んだあの日、毛利は死んだ。
親衛隊をはじめ、陸海空の高官たちが集まった訓示の場、伊達は凛と伸びた毛利の背の孤高の潔癖に見惚れていた。
弟殺しの共犯者を自らとこしえの涅槃に葬り去った毛利の横顔に滲む完全なる嘘への安堵は、軍部への嫌悪としてその秀麗な眉を歪ませた。
鎧のように一分の隙なく毛利の痩躯を覆う高潔の陰に潜む断罪への渇望を、貪欲な伊達の隻眼は見透かして嗤う。
罪が露呈しない限り訪れることのない断罪を待ちわびるあかい唇がきりと引き結ばれ、夜の街で雄を待ちわびる売女のそれのようにあかく染まる。
毛利を蝕んだのは父を断罪したことへの安堵ではなく、誰にも断罪されることがなくなってしまった己への嫌悪だった。
毛利に覆い被さる伊達の背後にちらつく銀色が眩しくて、毛利はごちゃ混ぜになった感情に目蓋を閉じた。
どうして伊達が自分を抱くのか、この優しさはなんなのか。毛利は何度も考えた。
血を分けた血族を二人も手にかけ、その罪が露呈するための道も自ら断っておいてなお断罪されたいなどと善人ぶってみせる自分にはそのような価値はないのだと己を卑下して、更にそうして感傷に浸っている自分に気付いてはまた抜け出せない自己嫌悪の泥沼が毛利の足下に広がっていくのだ。
父を殺してしまえとそそのかしたその唇で、我を慰めるなど酔狂にもほどがある。
そうは思っていても、許されたような錯覚さえ覚えるこの愛撫に身を任せることをやめられないのだ。
体を繋ぐのはそれに付加する行為でしかない。
共犯者になってやるとうそぶいた唇が優しく触れるたびに、言い知れない安堵と背徳に酔いしれることができる。
そのあとに訪れるおそろしいほどの自己嫌悪を理解していても、他に掬い上げる腕を知らない毛利は抜け出すことができないのだ。





長曾我部はその日も夜遅く、片倉と真田が寝静まったのを見計らってそっとベッドを抜け出した。
片倉は気付いているのかもしれないがそんな素振りは見られないので、敢えて言うこともしなかった。
(そして片倉に何か言われたところで引き返す道もないだろうと長曾我部は思っている。)
潮の薫りの染み付いた煙管服の上衣だけを肩に掛け、薄暗い廊下へと足を踏み出した。
ひやりとした廊下の空気にひとつ身震いしてここ数日で行きなれてしまった部屋の扉を目指す。
自分の足音が薄ら寒い廊下にいやに大きく響くのも、無機質な廊下の冷たさにももう慣れてしまった長曾我部は、ただ無表情で足を進めた。
目的の扉の前に着いた長曾我部はノックもせずに扉を開けた。
ノックなどしたところで返答があるはずもないことを、長曾我部はこの数日間で学習していたのだ。
小さな軋んで開いた扉の向こうでは、珍しく毛利が読書にふけっていた。
突然開かれた扉に動じることもせず、読んでいた本からちらりと視線をあげて長曾我部を一瞥すると、再び本に視線を落とす。
この数日間、長曾我部が見てきた毛利は血まみれだったり、小さな頭を便器につっこんで吐いていたりと碌なものではなかっただけに、長曾我部は安堵の息をこぼして、後ろ手に扉を閉めた。

「何用だ。」
「いや、その、心配で。」

ベッドのヘッドボードに背を預け、足を投げ出した毛利の邪魔にならないようにベッドに腰掛けた長曾我部に毛利は視線をやることもなく、しかし咎めることもしなかった。
かさついた沈黙が二人の間に落ちる。然りとてその沈黙は決して重くなく、当然のようにそこにあった。
静かな毛利の息遣いが狭い室内でいやにリアルに響くのを長曾我部はぼんやりと聞いている。
何度目かの白い指先がページを捲る音のあと、毛利は表紙に挟んでいたしおりを挟み直して本を閉じた。

「我の無事は確認したであろう。いつまでそうしているつもりだ。」
「包帯、換えたのか?」

本を置くためにサイドボードに伸ばされた細い腕を掴んだ長曾我部の海色の瞳が毛利を覗き込む。
関係ないと振り払うには少々腕が痛んだ。
覗き込む隻眼の真摯さを受け止めるだけの器量を持たない毛利の視線が宙をさまよった。こんなことならいっそ、伊達の誘いを断わらずにまた血まみれで床にでも横たわっていれば良かったとさえ思うのは、理由のない優しさがおそろしいからなのかもしれない。
昔からその血統と秀麗な容姿や才能ゆえに周りから賞賛されているだけで、無条件に愛され大切にされているわけではないのだと薄々ではあるが感づいていた毛利には長曾我部の理由のない気遣いは未知のものだった。
それにどう対処すればいいのかがさっぱりわからないのだ。
素直に甘えて目一杯の優しさを享受すればいいだけなのだが、教科書にも軍規則にもないその回答を毛利が知るはずもない。
毛利の返答を待たずにまくり上げられた袖の下、乱れた包帯が顔を覗かせる。
ほらみろ、とでも言いたげに毛利を見つめる長曾我部の視線を長い前髪で遮断した毛利は、はなせ、とだけ呟いた。

「腕取れたらどうするんだよ。」
「この程度の傷、放っておけば治る。いちいち貴様は心配しすぎなのだ。」
「そんな簡単に治るはずないだろうが。だいだい使い物にならなくなったら死ぬしかねぇだろ、ここじゃあよ。」

長曾我部の言葉に、逃れようともがいていた毛利の動きがぴたりと止まった。
それを見た長曾我部が毛利の細い腕を不格好に覆う包帯を外しはじめ、外気に晒された傷口がぴりぴりと痛む。
なぜ、と毛利は思った。どうしてこの軍に来て数日しか経たないこの男が、しかもそれまで何の関係もなかった国でのうのうと生きてきたはずの男がそれを知っているのかと。
通常、怪我や病気のために軍人としての能力をなくした者は退役する。
しかし、親衛隊では退役という制度はない。
多くのことを知りすぎているせいだ。総帥の行動はもちろん犯罪者のリスト、行方不明として公表されている者の末路まで、軍の最高機密とされることを扱うのが親衛隊のデスクワークなのだ。
それが外部に漏れる可能性を徹底的に排除した最高で最悪のシステムだと毛利は考えていた。
つまり、片腕をなくそうとも、内蔵を病もうともこの親衛隊と言う籠からは抜け出せない。無能は片っ端から排除するこの軍において、親衛隊でそうなるということは死を意味する。
親衛隊に席を置く毛利は同僚によって粛清されるものを何度も目にしてきたし、自ら粛清の血の雨を降らせたことも少なくない。
それさえも見抜いたというのだろうか?
当の長曾我部はじくじくと醜い体液を溢れさせる毛利の傷口を見て困ったように眉を下げている。
毛利の長曾我部に対する評価は体力に任せて軍上層部の命令を聞くしか脳のなさそうな軍人、有り体にいえば体力バカで佐官さえも戦場での功績によるものだろうというものだった。
毛利とは対極にあるもの、と思っていたがそうではなかったのか。
動揺を隠し、透徹した氷のような声で毛利は言葉を継いだ。

「遅かれ早かれ、死ぬのだ。我も、貴様も。」
「遅いに越したこたぁねぇだろ。」
「…貴様、思った以上に愚鈍だな。」
「なんでだよ。みんなそう思うに決まってらぁ。」

消毒薬と替えの包帯を探して室内を勝手に物色する長曾我部を止めることもせず、毛利は力なくベッドに痩躯を沈ませた。
長曾我部の阿呆を凝縮したような返答と物言いに、やはり思い違いかもしれない、と小さく胸を撫で下ろす。
あの3人の中で一番気をつけなくてはならないのは片倉という歴戦の猛者然とした眼光鋭い男だ。年若くして力だけでのし上がってきたこの男ではない。
考えた毛利は、己の思考と長曾我部の返答に対して、くだらぬと小さく呟き伸ばした細い指先で醜悪に根付いた瘡蓋を剥がした。
深すぎる傷口から滑り落ちる血液はなんの未練も見せずに毛利のからだを離れ、シーツに真っ赤な染みを遺す。
波打つシーツにしたたる小さなしずくを眺める毛利は、無能となった自分を粛清するのはやはり伊達なのだろうか、とぼんやり考えた。
その時に残虐に歪められるであろう薄い唇と冷ややかな黒燿石の眸を想像して歓喜を背に這わせる。
我の全ての罪をその場で暴き、口汚く罵りながらなぶり殺しにしてくれればなおいい。

「人間など、誰かの死の上に生きているのだ。」
「なんだそりゃ。」
「誰かが死に、誰かが幸せに暮らすのだ。」
「……?」

「我が奪った数多の命の上に、この国の民の安寧があり、軍の恒久の繁栄があるということよ。」

死したものを拾うものなどおるまい。
温度のない冷たい声で言い放った毛利を、やっと見つけ出した消毒液を手にしたままの長曾我部が憐憫に満ちた瞳で見つめた。
視線の先の毛利は無能と罪人のレッテルを張り付けられて惨殺され、ゴミのように打ち捨てられる己の姿を左腕を滑り落ちた血液の軌跡に眺めている。
毛利の歩んだこの数年の人生において、それは揺るぎようのない真実だった。
例え長曾我部に哀れまれようとも、伊達につけ込まれようとも、それは毛利にとって不変の真理であった。
弟の死の上に父の安泰があり、父の死の上に毛利の生があった。
そして毛利の精神の死の上に伊達の精神の繁栄がある。
気を抜けば死しか訪れるもののないこの世界で、狡猾にも残酷にもなりきれない毛利が生きて行くための精一杯の真理がそれであった。
長曾我部はもう一度ベッドを軋ませて、寝転がる毛利の腕を取ると、そうかも知れないな、と酷く優しい声で言った。
腕に刻まれたおびただしい数の傷は、自分の死の上に何かを築いてくれということなのだろうか。
長曾我部は片方だけの狭い視界に毛利の闇の深さを見たような気がした。
それでも放っておけないのは元来の性格だけなのか。それとも死なずとも築くことはできると自分にいい聞かせたいだけなのだろうか。
長曾我部にはわからなかった。
薄い目蓋を下ろした毛利の良く通った鼻梁を眺め、自分と毛利の間にある絶対的な価値観の相違をその切れ長の隻眼に映す。
そうじゃない、といえば、この男は壊れてしまうのだろうか。それともおそろしいほどの理知的な論理で完膚なきまでに叩きのめされるのだろうか。
どちらも望まない長曾我部はただ黙し、武骨な指先で細い栗毛を慰めのように梳いた。


End

誰かの願いが叶う頃、あの子が泣いてるよ。

※絶対零度とは、物質における温度の下限で、セルシウス度で表せば-273.15℃である。 参照:wikipwdia

←prev | next→