空気を裂く軍刀の音で目を覚ました。
その音は拷問に使われる鞭の音よりも確実に片倉の耳に馴染んだ物だ。今更、違うはずもない。
早朝と真夜中の狭間の空気は酷く水分を孕んで、重苦しく片倉の剥き出しの二の腕に纏わりつく。
枕元に置いてあった拳銃を手に体を起こし、まだ暗い室内をぐるりと見回した。
3つあるベッドのうち、人の気配があるのは今自分が乗っかっているものだけだ。
長曾我部が出て行ったことは夢とうつつの狭間に覚えている。おおかた、やたらときれいな顔をした独裁者の狗の元へ夜這いでもかけにいったのだろう。
面倒見がいいと言えば聞こえはいいのだが、ただ闇雲に厄介ごとに首をつっこみたがるだけだとも言えるあの男の性質は今に始まったことではない。
あの潔癖と高潔を混ぜて人の形にしたような狗が何某かの後ろ暗い経緯を抱えていることには片倉も気付いてはいるが、ここ数日の合同訓練や軍議の様子から見て、あの男が隻眼の中尉と良くない関係にあり、さらにあの二人がこの国の主導者たる独裁者のお気に入りであることは理解していた。
そんな危なっかしいものに迂闊に近づくほど片倉は愚鈍ではないし、そもそも他人に興味などかけらほどもない。
長曾我部が使っていたはずのベッドから、真田が眠っているはずのベッドに視線を移した片倉は、小さくベッドを軋ませて立ち上がると裸足の足音をできるだけ殺してそこに近づく。真田が抜け出したままの乱れたシーツと、枕元に置かれたままになっている拳銃が淡く月の明かりを吸っている。
風が吹いた。
その違和感に下ろしたままの前髪の隙間から、素早く入り口である扉と窓に拳銃の銃口を代わる代わる向けて初めて大きな窓が開け放されていることに気がつく。
ひゅ、と再び空気を裂く鋭い音が聞こえた。
姿勢を低くして窓の方へと足を向ける。
この国の中枢たる軍の内部とはいえ、片倉にとってはどこまでも信用ならない得体の知れない場所であり、軍事協定の締結による合同軍事訓練を建前に、片倉をはじめ、長曾我部と真田の隊を人質にしているということに間違いはない。
本国からの帰還命令がいつまでも出ないことと、演習期間が定かではないことがその確たる証明だ。
今ここで分隊の最高管である3人のうち誰かが殺されたとしても何ら疑問はない。
(万が一、そのことが発端でこのふたつの国の間に戦争が起きたとしても、軍事力の差とこの国の冷酷さを見れば戦果は火を見るよりも明らかだ。)
不穏な空気に嫌でも疼く左頬の古傷に冷たい銃身をぴたりとあてるように拳銃を構え、窓のある壁に背中をつけた。
再び、空を切る軍刀の音が聞こえ、次ははっきりと軍刀の反射する光が室内を移動した。

「誰だ」

地を這うように低い声で問うと同時に銃口を窓の外へ向ける。
それだけで人が殺せる様な冷たい視線に晒された男が反射的に軍刀の切っ先を片倉に向けたが、半瞬の後にその切っ先は下げられた。
それとほぼ同時に片倉も銃口を下ろした。
窓の外にいたのは、片倉が身を案じていた真田幸村少尉その人だった。
真田の顔がへにゃりと困ったような笑顔に歪み、軍刀を腰につけた鞘に納めると窓の方へと寄ってくる。
真田の背後に茂る木の陰や、建物の影にも人影がないことを確認した片倉は、それでもできるだけ音量を絞った声で、何してんだと真田に問いかけた。
その片倉の呆れたような眉間の皺を認めた真田は視線を足下に落として足を止めた。
窓からの距離は3メートルに満たない程度だ。しかしそれは片倉と真田の精神の距離のようでもある。
さりとて、元来他人に万に一つの興味もない性質である片倉は鬱陶しい前髪を掻き上げ、手にしていた拳銃を真田のベッドに放り投げた。
それを片倉が怒っているのだと勘違いしたらしい真田が申し訳ありません、と小さく呟いた。

「いや、別に構わない。こんな時間から鍛錬とはご苦労なことだな。」
「いえ…」
「寝ないのか?」
「少し、眠れなくて…」

そうかとだけ返した片倉は俯いてしまった真田の鳶色のつむじを怪訝な表情で暫く見つめた後、話なら聞いてやる、と告げた。
差し出した片倉の掌に、寝起きの片倉よりも幾らか暖かい真田の掌が重なり、抱き締めればもっと暖かいのだろうかと邪推が頭をかすめた。
乗り越えるには少し高さのある窓枠に、行儀悪く片足をかけた真田の手を引いてやれば、薄く筋肉をつけた若く身軽な体はいとも簡単に枠を越えて部屋の内側に足を下ろした。
がちゃがちゃと真田の腰に下がった軍刀が音を立て、少しバランスを崩して傾いだ体が片倉の腕の中に抱き込まれる。
雪崩れるようにして床にしりもちをついた片倉の腕の中で真田が慌てたのがわかった。
抱き込んだ真田の体は、予想の通りに暖かい。

「申し訳ありません。」
「怪我、ねぇか?」
「大丈夫です」
「ならいい、謝るな。」

興味がないのは事実だが、下の者を守るだけの器量は厳しい縦社会である軍部に身を置く者として捨て切ることはできなかった。と、言うよりは否が応でも身に付いてしまった。
軍に入る前の片倉は今よりも更に掴み所のない男であったし、今よりも輪をかけて淡白であったとも言える。
それを片倉よりもあとに入隊した真田が知るはずもないし、下の者を守る器量を優しさとして評している真田には片倉の淡白さや奔放さはマイナス点にはならないようで、片倉によく懐いている。
人の上に立つ者として懐いてくる者を無条件に斬り捨てるのは必ずしも得ではないということは軍の大将である信玄から嫌というほどに聞かされているし、上っ面だけの敬慕を見抜けないほど片倉は愚鈍ではない。
それは長曾我部も真田も同じである。上っ面だけの感情で己の保身を計るくらいならば真っ向から戦ってそれを勝ち取ることに美徳を感じている、と言うのも3人の数少ない共通点かもしれない。
(そしてそれは3人の所属する軍に於いて上に昇れる者として選ばれるための重要な資質でもあるのだ。)
素早い身のこなしで片倉の膝の上から立ち上がった真田は片倉に手を差し伸べようとしたが、そんなことは不要だとでも言うように片倉は立ち上がって真田のベッドに放った拳銃を拾い上げると、さっさと自分のベッドの端に座り直してしまった。
その背中を見送った真田は軍刀を外し、自分が眠っていたベッドに腰を下ろした。

「んで、何をそんなに思い詰めてんだ?」
「思い詰めてなど…」
「話す気がねぇなら俺は寝るぞ。」

常時の真田にしてはしおらしく俯いてもごもごと言葉を濁そうとした真田だったが、片倉の突き放したような言葉に顔を上げた。
その目が縋り付くように片倉の鋭い一重の眸を見つめている。
はぁ、と溜め息を吐いた片倉は無言でいかつい顎をしゃくり、話を促した。
それに幾らかほっとしたらしい真田は再び俯いて訥々と言葉を紡ぎ始める。
伊達と二人きりで接触した日から、真田の頭の中にお前も殺戮者だと言い切った伊達の声がこびりついて離れない。
直後、長曾我部に言われた言葉を何度も反芻していた。
真田が闘う意味、殺戮者と軍人の違い、大義の旗の元に繰り返される戦争と言う名の大量殺戮、そして守るもの。
平素から考えるよりも先に行動に移すタイプの真田には少々荷が勝ちすぎる問いに、自らが納得できるだけの答えを出さなくてはいつまでもこのジレンマから抜け出すことはできないとわかっていたからこそ考えていたのだが、どの答えもでないまま迷いに落下していく。
自分は、奪ってきた命に与えられるはずだった未来という犠牲まで背負う覚悟で命を奪ってきたのだろうか。覚悟が足りなかったのではないか。
何もかもを民の安寧というわかりやすい大義を盾にして、全ての責任を放棄してきたのではないか?
これまでのことを全て忘れて新たな覚悟を胸にこれから先も戦うには、今まで奪ってきたものが大きすぎる。
もう、前にも後ろにも進めない。
話が進むにつれて途切れがちになる言葉が真田の迷いや戸惑いを如実に表していた。
それを感じ取りながら、片倉はこれが真田の愚か、と目蓋を閉じた。
真田を責める静寂が片倉には心地いい。

「なら、もう答えはでてるんじゃねぇのか?」
「え、」
「置き去りにして進めないなら、背負ったまま進め。」

だろう?と片倉は簡単な足し算の答えでも教えてやったように軽く言った。
長曾我部が言いたかったことも突き詰めればそういうことだ、とあっけなく引導を渡してしまった片倉ではあるが、真田はきちんとその答えを自分で考えたと判断したからに他ならない。
伊達という男が何を思って真田を殺戮者だと断言し、それを真田に伝えたのかは片倉にはわからないが、おおかたそこにはどす黒く醜悪な恣意があるに違いない
しかし、長曾我部は違う。
数多くの激戦を共にしてきた片倉はわかる。長曾我部は真田さえも背負っているのだ。
背を預ける戦友として、一緒に高みを目指すものとして。
その中に自分が含まれていることも大いに理解しているし、自分も長曾我部のようにこの男を背負ってやらねばならないということも理解している。
(少なくとも、この人質状態から抜け出すまでは、だ。)
(俺は長曾我部ほど優しくもなければ器量もない。)
かつて、何人もの軍人がその階級に関係なくこのジレンマに苦しんできた。
それは激戦の最前線であったり、テロの鎮圧の翌日であったりと様々だったが、今、この時が真田のタイミングであったというだけのことだ。

「なあ、シヴァって知ってるか?」
「は?」
「どっかの宗教の最高神のひとりだ」
「破壊神、でありますか?」
「そうだ。」

創造神、維持神と並んで破壊の神様が最高神とされるのはどうしてだかわかるか?
片倉の問いに真田が首を傾げる。
シヴァとは創造神であるブラフマー、維持神であるヴィシュヌと共に三大神として世界の真理を担う破壊神の名である。
その前身は神話に登場する暴風雨を司る神であるとされ、大きな水害を世界にもたらすものだ。
しかし、それは裏を返せば埋没した豊かな土壌を掘り返し、枯れた土地に命の源とさえ称される水をもたらす恵みの神であるとも言える。
破壊の裏には必ず創造があり、それは維持へと繋がる。しかし、維持のためには必ずどこかで斬り捨てなくてはならないものが現れる。
それを破壊するのがシヴァであり、何もなくなってしまったそこには必ず次の何かが創造される。
それを繰り返して人類は、否、世界は現在という時を迎えているのだ。
シヴァ神は世界を壊し新たな世界を創造するために備える、というのが信仰される一つの理由でもある。
破壊の裏の創造に気付くことができなければ、それはただの破壊であり、殺戮だ。
しかし、その後に新たな何かを築き上げることができれば、その破壊は創造への序章となる。
静かに語る片倉の声に耳を傾けていた真田は、静かに顔を上げた。
あの日以来鳶色の黒目がちなまなこに揺らいでいた迷いの炎は、その勢いを削いだものの、まだ確かに揺らめいている。
膝の上に握られた拳は痛みに耐えるためか、それとも新たな道へと進むための覚悟のためか、小さく震えていた。

「俺たちは神様じゃねぇんだ。絶対的な正義なんざ持ち合わせてねぇし、真理も知らない。」
「だから、迷いもするだろうし、道を踏み外しもするさ。」

重量のない声で言った片倉は真田の返事は待たずに再び語る。その最高神の子供とされる神の話だ。
シヴァの長男とされるガネーシャはあらゆる障碍を取り除く神として信仰されているが、それも一種の破壊であることには変わりない。
破壊は必要悪であり、時には善ともなることの証明でもある。
悪を裁くわけではなく、破壊するのだ。己の信念に従って。
そしてシヴァの次男は軍神スカンダだ。孔雀に乗り槍を携えた偉大なる神は破壊から産まれたのだ。
つまり、軍そのものが破壊と再生の一端を担うために組織されたものだというのが片倉の見解だった。
(軍神をそのまま軍に置き換えてしまった安直さは自分でもどうかと思っているのだが。)
軍の行う殺人は決して破壊だけであってはならないという理想もそこには含まれるが、それは言わずとも真田に伝わったらしい。
真田の鳶色の眸が驚いたように僅か見開かれた。
片倉が遠回しにでも理想を語るところなど、長くなりつつある付き合いの中でも見たことがなかったからだ。
再生へと向かう正しい破壊ならシヴァの一族はその軍に勝利をもたらすだろうし、間違いならばその軍に敗北と言う名の破壊を与えるだろう。
全ては己の信念と神の采配一つだ、と片倉は笑った。

「おまえはまだ生きてる。それは正しいことの証明だ。だから、これからも迷わずに進めばいい。」
「はい。」
「悪いな。神主の家系だから、俺はこういう風にしかものを考えられん。」

それが嫌で逃げ出したはずなんだがな、と片倉は苦笑した。
信仰する神がどんなものであれ、その神が誕生した背景には必ず理由がある。
それは人間が作り出した真理であり、崇高で手の届かない神々よりも人間の世界に土着した真理であると片倉は思っていた。
こんな話を誰かに話したことはないし、話す必要もないと思っていた。
結局は神に縋り付いているようで、どこか照れくさかったのだ。

「いえ、…某はいま、神よりも片倉大佐に救われた気分です。」
「そいつは良かった。」
「ありがとうございます。」
「眠れそうか?」

はい、と笑った真田の目に曇りも迷いもない。
それに僅か安堵した片倉は肩の力を抜いてベッドに横になった。

「さっさと寝とかねぇと明日の訓練で泣く羽目になるぞ。」
「そうですな。ところで、」
「ん?」
「長曾我部大佐は…」
「夜遊びだ、ほっとけ。昔から夜遊びだけはひでぇヤツでな。」

そうですか、と窓の外に視線を向ける。
昇り始めた朝日が眩しい。

End

宗教的な話はあんまり書きたくなかったんですが、こう落ち着けるしかなかった…。
2011/07/08 加筆修正

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