- 面倒くさいと思った。
体に纏わりついたホテルの安いボディーソープの匂いが鬱陶しい。
もう辞めてしまおうか、いろいろと。
そうは思うが、他に何をできるのかも、何をしたいのかもわからなくて、辞めたほうが面倒なことに気付く。
社会の恐ろしいほど底辺で、それでも社会に流通する通貨を動かすという社会活動に貢献していることは違いない。
ホストだろうが、大企業の社長だろうが、ものすごく離れたところから社会を眺めれば同じことだ。
動かす金額に至っては、佐助一人で中小企業くらいにはなるんじゃないかと思う。
(それは少し見栄を張った気もするけれど)
真夏の眩しい日差しが、触ってはいけないもののように街路樹の葉の隙間で煌めいた。
目がチカチカする。
えてして巨大な繁華街と言うのは、オフィス街の近くに寄生するように繁栄するものなのだ。
仕事帰りのサラリーマンを狙ったキャバクラ。
終電に乗りそびれたその客を狙った風俗店。
そしてそこで働く女たちを狙ったホストクラブ。
まったく良くできているものだ。
横を通り過ぎたOLの香水の匂いに吐き気を催す。
誤魔化したくてスーツの内ポケットの中のタバコを探す指先に、裏引きで得たくしゃくしゃの札が触る。
使い道が思いつかない。
これも通帳の肥やしになるのか。
いくら溜まっても使う気にならないのに。
正当な対価と割り切って使ってしまえば、佐助の人間としての何かを自分で否定することになってしまうように思った。
ああ、くだらない矜恃。
結局タバコを吸うのは諦めた。
何をしたって拭えないのが劣等感と言うものだからだ。
数時間前までどんちゃん騒ぎをしていた店の前を通り過ぎて、自宅とは反対方向に角を曲がる。
今日こそ拒んでもらえるんじゃないかと、淡く期待して。
バカバカしい。
繁華街を抜けて、古びた住宅がならぶ街並みに不似合いな新築マンション。
パネルを操作して、教えられた暗証番号を入力すれば簡単に開くエントランスのガラスの扉。
最新式の防犯設備はあまりにも無防備だ。
俺が強盗にでもなったらどうするんだ。
あり得ないけど。
底辺には底辺なりのプライドがある。
繁華街のはずれに建つ新築マンションはいくらくらいなのだろう。
やはり値の張る買い物、になるのだろうし。
そんなことを考えてみる。
あの人なら自力で買えるかもしれない。
なにせ有名ホストクラブの代表だ。
元は2000万プレイヤーだったと言うのは有名な話だし、未だに店が暇な時に彼が呼ぶ客は、一晩でオビのついた札束を落として行く。
こんなご時世に結構なことだ。
(1ヶ月で2000万を稼ぎ出す男にマンションの一つくらい買ってしまう女などごまんといるのだろう。)
(俺様だってその有名ホストクラブのナンバープレイヤーなんだけどね。うん。)
(まあ、売上的な話をすれば、8桁に少し届かないくらいだし。買ってもらえなくは…あるか。)
彼がくれたおさがりの腕時計が左腕でまた重みを増す。
有名なブランドの、宝石が散ったその時計は、彼には似合わない気がした。
ポストの前を通り過ぎる頃には、どうでも良くなっていたのだけど。
思考が浮遊している。
気持ち悪い。
エントランスを抜けて、エレベーターに乗り込む。
防犯カメラもいい加減佐助の姿は写し飽きただろうか。
(俺はもう飽きたよ。)
目的の階でエレベーターを降りる。
そういえば彼の部屋は角部屋だ。
きっと隣の部屋より高い。
扉に取り付けられた最新式の鍵は暗証番号と鍵を併用するタイプのものだ。
どちらも手中だが、流石にここを勝手に開けるのは気が引けて、おとなしくインターフォンを鳴らす。
ぴんぽん、と家主を呼び出す音は佐助の住む安普請のアパートと同じだ。
いつになったら、この音は進化するのだろう。
(俺様も、ね。)
暫くして鍵の開く音がした。
だけどこの扉はいつも自分で開けなくては開かない。
拒まれはしていないが、歓迎もされていないんだなと思っている。
それなら暗証番号なんて教えるなよマジで。
「お邪魔しまーっす。」
鍵の開く音からたっぷりと時間をかけて扉を開けた。
そこに家主の姿はない。
長い廊下の向こう、居間に続くドアが空いている。
今日こそは手酷く拒んでくれるかと思ったのに。
小さく舌打ちして、靴を脱ぐ。
リビングのソファには寝起きらしい姿の小十郎がいた。
両脚に肘をついてタバコを吸っている。
「起こしました?」
「時間考えてこいっていつも言ってるだろうが。」
「以後気をつけまーす。」
そう言いながら、小十郎のタバコを奪い、その膝の上に乗り上げる。
本当に寝起きなのだろう、抱きついた首筋から汗とも石鹸とも違う雄の匂いがした。
「テメーと違って俺は寝起きなんだ。」
「朝勃ちとかしてません?」
「残念ながらテメーほど若くもねえよ。」
遠回しでズルい反応だと佐助は思った。
存在を拒むことはしないくせに、求めるものを与えはしない。
理由は、気付かないふりをしている。
ズルズルと小十郎の膝の上から降りて、床の上にぺたりと座り込む。
痩せたせいでダブついたスーツのおかげで苦しい体勢ではない。
上体を捻って背後にある机に置かれた灰皿に、まだ長いたばこを押し付ける。
「今日も元気に枕か?」
「お陰様で今日も予定ができたんで出勤できそうです。」
「出てくる前には香水でもつけてくることだな。」
うちのNo.3がそんな安っぽい匂いじゃ困る。
小十郎はあくびをかみ殺した。
本当に嫌な男だ。
「今月は8桁に乗れるんだろうな?」
「さぁ?今いくらか数えてるわけじゃないし。」
「860万くらいだったと思うが。」
締め日は月末。
それまでに出勤できる日は一週間とちょっと。
どうにかなる数字だなと思ったが、二日間くらいは茶を引くのも悪くないかもしれない。
大体、俺様は疲れてる。
「わざと茶ァ引こうなんて考えんじゃねぇぞ。」
「俺にだってそう言う気分の日もありますぅ。」
「今日だけにしておけ。」
捨てられたくなかったらな、と言う響きを暗に滲ませた小十郎の声はどこまでも普段通りだ。
拾ってもいないくせに、とは心の声だ。
「どォしよっかなぁ?…」
佐助が売り上げようが売り上げまいが、店には月に1000万以上を売り上げるホストが二人もいる。
政宗と元親だ。
不動のワンツーに、野望や羨望はもちろん、もはや闘争心もない。
どちらも嫌いだけれど。
入店から約一年、とんとん拍子に売れた佐助でさえも、どうせ俺はと言う気持ちになるのは当然のことだろう。
「じゃあ、1000万に乗ったら代表は俺に何してくれるわけ?」
「新しいスーツでも買ってやる、とかいえばいいのか?」
「アンタ、本気でそんな安いもので俺様が頑張れると思ってんの?」
わざとらしく色を刷いた笑顔に、小十郎は眉間のシワを深くする。
あーそう。
そんなに嫌なんですか。
笑顔が消える。
「買える範囲のものなら買ってやる。そこまでだ。」
「キスはつかないわけ?」
「どうして俺がテメーとキスなんかしなくちゃいけないんだ」
客とはするくせに、とは言えなかった。
覗き見の悪趣味を露呈するほど間抜けじゃあない。
「ハイハイわかりましたー。じゃあ、一千万いったら代表が使ってるカルティエのライターください。」
「新しいのでもいいんだぞ?」
「アンタのだから価値があるんです。ホント、アンタに貢ぐ女の気持ちがわかる気がするよ。」
この男の高い理想と、そこへ近づくことへの対価に釣られて、この男を手に入れられないってわかってるのに頑張っちゃう哀れな女の気持ちがね。
エアコンのせいで乾いた空気が佐助の気持ちをささくれさせる。
不愉快だ。
「ねぇ、どうやったらアンタは俺を抱いてくれる?」
「女になったら。」
「俺様だってお金は持ってんだからね!マジで工事するよ!?」
「俺に一回抱かれるためにか?」
「一回だけかよ…」
それでも抱かねぇよ。
小十郎は立ち上がって伸びをした。
出勤時間まではまだもう一眠りできるだろう。
寝乱れたしわくちゃのスーツを脱いで、ベッドでもう一眠り、か。
「テメーも寝てくんだろ?来い。」
「勢いで襲ってもいいなら。」
「じゃあ帰れ。」
「嘘です。抱き枕でいいです。」
きっと彼を超えても、この男は俺を抱きやしない。
俺に期待しすぎなんだ、この人は。
買いかぶりで俺を振り回すのも大概にして欲しい。
End
それでもアンタが欲しくて頑張る俺は客なんかよりよっぽど哀れ。