もう帰りてえ、と思わず声が出た。
午前中、具合が悪かった佐助は、夕方まですっかり欠勤するつもりでいたのだ。
風邪薬を飲んで、昼くらいまでぐっすり眠ってやろうという目論見が覆されたせいで、普段以上にやる気がない。
今日は一番の上客(いわゆるエースとか言うアレ。)が来ている。
そして素敵な素敵な締め日でもある。
小十郎からライターをせしめるための約束であった売り上げ8桁を、3日前に達成した佐助にはこれ以上売り上げを伸ばさなくてはならない理由もない。
そう思っていたのに、体調不良を押してまで同伴し、好きでもないシャンパンを口からのみならず、鼻からも逆流させるほど飲んでいるのは、どういうことだろう。
夕方の小十郎との電話を思い出した佐助はトイレットペーパーで鼻をかみながら、シャンパンのせいなのか、情けなさのせいなのかわからない涙を目尻に浮かべた。
ナンバーワンの政宗はさすがと言うべきかなんと言うか、今日はエース一本でヘルプもつけずに余裕綽々にシャンディーガフなどというお洒落な飲み物をたしなんでいるし、政宗に次ぐ元親も先程指名客をひとり帰らせて、エース卓一本である。
それでもどちらもそれなりの売上なんだろうなと思うと非常にゲンナリした。
もうそれは盛大に。
ラストも間近のこの時間帯に3卓も被らせたまま、どの卓でもシャンパンでどんちゃんしている佐助は傍から見れば必死に売上を作っているように見えるかもしれない。
(正直なところ帰らせるタイミングを失っただけだ。)
(もう頑張れない、正直。逆に俺様が帰っちゃいたい。)
喉に絡まった痰を、開店前に新人が磨き上げたであろう便器の中に吐き捨てた。
暗いオレンジ色の照明をまんべんなく反射する便器の中では水と胃液で薄まったシャンパンがまだ小さな泡を浮かばせている。
卓を立つ直前に流し込んだ瓶の中身を胃袋に入れてトイレまで運んだようなものなのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが、少しだけシャンパンに同情した。
こんなことを人生で経験するのは親戚連中に無理矢理飲まされた新郎と、ホストくらいなものだろう。
新郎は人生で一回だが、ホストは毎日だ。
あほらしい。
(100万のドンペリだって俺様にかかればトイレの水と同じです。なんちゃって。)
口の中に残る胃液とシャンパンが混ざった不快な味を拭うように唇を拭った。
流してしまう前に便器の中を覗き込む。
少しだけ血の色が混ざっていた。
吐きすぎて喉でも切れたんだろうか。
はあ、と佐助が溜め息をついたところで、個室のドアがノックされた。
「いつまで吐いてんだ。」
代表の小十郎の声だった。
もうこれ以上面倒ごとを増やさないでくれと考える脳の反対側で、意外とちゃんと佐助を見ているらしい彼に歓喜する。
返事はしないで水を流した。
さよなら、ひゃくまんえん。
思いつきで悪戯に便器の中に向かって手を振ってから個室の扉を開けた。
案の定、そこにはこれ以上ないほどの渋面を作った小十郎がいて、寺院の門扉に飾られている仁王像よろしく腕を組んでいる。
店内よりも少しだけ明るいトイレの照明のおかげで彼が神々しく光っているように見えて笑いが込み上げたが、口を濯ぐために俯いたおかげで小十郎にはバレなかった。
これでもかと水を出してうがいのついでに顔も洗う。
ポケットの中に入っていたくしゃくしゃのハンカチで顔を拭いて鏡を見る。
相変わらず欲だけが浮いた不健康な顔。
少し顔色が悪いが致し方ない。
なんせ3回目の嘔吐だ。
病院ならすぐに医者がすっ飛んでくるだろう。
びしゃびしゃになってしまったハンカチをどうしようか考え、結局洗面台の上に放り投げる。
どうせ客からの貰い物だ、なくなったって困りやしない。
(誰から貰ったのかも忘れたし。)
振り返りながらへらへらと笑ってみせる。
酔っているのかそうではないのか、佐助自身よくわからない。
「100万円が惜しくてもう一回飲もうか考えてたら時間経ってましたー。すみませーん。」
「バカなこと言ってねぇで早く卓に戻れ、ヘルプが死ぬ。」
「ハイハイ。」
ナンバーの俺よりも締め日までお茶引いちゃったクソみたいに出来損ないのヘルプの心配?そんな思いを込めた半目は、彼の人でも殺しそうな鋭い目にあっさりと負ける。
悔しくて小十郎に貰った時計を睨みつける。
宝石の散った時計はラストの時刻が近いことを告げている。
もう一度彼を見る。
(まさか、この時間にもう一本なんて…まあ、彼なら言いかないけど。)
「わかってるならさっさとしろ。時間がねえんだ。」
佐助の視線から汲んだらしい小十郎は無表情に言った。
期待もなにもあったもんじゃない。
小十郎は佐助の返事は待たずに踵を返して、定位置であるカウンターに向かった。
そのあとを三歩開けて追いかける。
ちらりと小十郎の整ったスーツの背中を見てから、自分の指名卓を見る。
風俗嬢が苛立った様子でヘルプに瓶ごとシャンパンを飲ませている。
溺れそうになってる哀れなヘルプ。
お前も鼻からシャンパン吐けばいいんだ、クソ。
「たっだいまー!!」
一応ヘルプにもういいよの目配せ。
心の中ではヘルプを罵る佐助も、この店でのいい人の地位を失いたくはないのだ。
遅いよ、と半分据わった目で佐助を睨む彼女は、風俗で働きながらたまにAVに出ているらしい。
締め日にしか顔を出さないが、落として行く額が大きいので、佐助が大事にしている客の一人だ。
「決めた!私あの店やめる!」
「なに言ってんのさ。ンなこと言って彼氏がいるからーっていつも辞めないじゃん。」
明らかに酔った様子で声高に叫ぶ彼女を、またいつものが始まった、と嗤う。
「だってアイツ、色管理だしさー。めんどくさいからやめるわマジで。」
「色だって前から言ってたのになんで今更やめるのさ。」
「急にめんどくさくなることあるじゃん?」
「や、俺にはわかんねーけどさ(笑)」
だよねー!と笑う彼女のグラスにシャンパンを注ぎながら、佐助は頬の内側をかじった。
わかるような気がするから困る。
「まあ、今更昼職とか無理だし、新しい店決まったら連絡するね。」
「いつになく本気なんだけどこの子…」
「マジマジ。でも佐助のために金使いには来るから安心して(笑)」
彼女は結局、今日は退職祝い!などとわけのわからない理由で再び50万ほどのシャンパンを卸した。
金銭感覚のトチ狂った女ほど怖いものはない。
佐助にしてみれば願ったり叶ったりだったが、時間が経つにつれてますます悪くなる体調と、彼女の言葉に意識が朦朧とする。
もう帰りたいっていうか辞めたくなってきた。
(まさか狡猾なあの男がそんなこと、どちらも許すはずないけれど。)
(でも、約束のもう一本は果たしたし、売り上げ八桁も果たした。)


気がつけばとっくに営業は終わっていて、佐助は一番隅の卓のソファの上にころがっていた。
客を送り出したような気もするし、しなかったような気もする。
しかし、今日が終わったのは間違いなさそうだ。
体を起こしてぼんやりと掃除をしている新人たちを眺める。
テーブルの上には氷の入った水のグラスが汗をかいている。
その中身を一息に飲み干して、こみ上げた吐き気に、掃除中のトイレに駆け込んだ。
げえげえ吐いていたら、開けっ放しのドアから新人が大丈夫スか?と覗き込んでくる。
便器に頭を突っ込んだまま片手をあげて応えた。
辞めるどころか、帰れそうにもない。
ひとしきり吐いて、掃除中にごめんね、と新人に笑って見せた。
きっとひどい顔だろう。
どうでもいいけど。
結局元いたソファにもう一度ころがって、なんだかわからない涙をスーツの袖で拭った。
なにをしているんだろうと思ったら、悲しいような情けないようなよくわからない気持ちになったのだ。
(どうすれば代表は俺を愛してくれるんだろう)
(代表のばか代表のばか代表のばか、愛してる)
(どうして俺は男で、あの人の愛を金で買うことさえ出来ないんだろう。)
佐助が指一本動かすのも面倒くさいほどの倦怠感と絶望に見舞われている中、次々と他の従業員が帰って行く。
お疲れ様でしたの連鎖が途切れてほとんどの従業員が帰ったことを知る。
小十郎もこのまま佐助を忘れて帰ってしまえばいいのに、と思った。
また涙がでた。
しゃくりあげる気力もないし、ただ涙が流れるに任せてぼんやりと泣いていた。
(果たしてこの状況を泣いていると言っていいのかはよくわからないが)
このまま涙が流れたところから順番に溶けていって、そのまま蒸発でもすればいい。
非現実的な消滅の仕方を考えていたら少しは気が紛れた。
それでも涙は止まらない。


「ほらよ。」
カツン、と佐助の頭の横にあるガラスのテーブルが硬質な音を立てた。
腕で目元を覆ったまま、そちらを一瞥する。
約束のライターだった。
「…いらない、です。」
「約束だろ。それ持ってとっとと帰れ。」
店が閉められない、とどうでもいいことのように言った小十郎は踵を返す。
それを悟った佐助の頭のなかで何かが弾けた。
「いりません。今日で辞めるんで、アンタのもんなんて俺には必要ない。」
勢いよく起き上がったせいでめまいが酷いし、無駄に大声を出したせいで息が切れた。
「もう、辞めさせてください。」
「何をだ?」
「っ、…店に決まってんだろ!」
シンとした暗いフロアに言い訳のような佐助の金切り声が響いた。喉が痛い。
小十郎は緩慢な仕草で振り返ると、やれやれとでも言うように腰に手を当てた。
「酔った勢いの辞めさせてくれは受け取らねえことにしてる。わかったらさっさとそれ持って帰れ。」
「あんだけ吐いたら酔いも醒めるし、俺は至って本気だ。」
「青い顔して泣きながら辞めるなんて言われても勢いだとしか思えねえよ。」
どうしてこの男はこう図星ばかり指すのだろう。
涙が止まらない目で睨みつけてみたが、なんの効果もなかった。
重たい指先でテーブルの上のライターを掴み、小十郎に向かって投げた。
しかし、それは飛距離が足りずに床に落下した。
疵がついたかもしれない。
「もうアンタにはうんざりだ!俺が何したって言うんだよ…俺はただアンタが好きで、言われた通り仕事して、自分でも買えるそんなライターに釣られて、いつまでも苦しくてしんどくてめんどくさいだけで。アンタは、アンタのことを好きな俺の気持ちを利用して仕事させてるだけじゃないか!はぐらかすだけはぐらかしておきながら、変なところで甘やかして、部屋の鍵渡してみたり、俺が突然行ったって拒みもしない。だけど一線だけは越えさせないって何なんだよ?好きじゃないなら好きじゃないって言えばいいだろ?いつまでも宙ぶらりんで、…俺、もう…つかれた。」
小十郎は何も言わず、ライターを拾い上げることもしない。
ただ、感情の読めない冷たい眸が佐助を刺すように見つめるだけだ。
ぼたぼたと涙が落ちる。
泣きすぎたせいなのか、風邪のせいなのかわからないが、とにかく頭が痛くて相変わらず気分も悪い。
佐助はそのままソファに倒れ込んだ。
何もかもが限界だと思った。
小十郎は何も言わないままその場を去った。
捨てられた、と思った。
(別に拾われた覚えもないけれど。)
ハハ、と掠れた声で笑ったら、また涙がでた。
やっぱりこの涙に溶けて、蒸発してしまえばいい。


暫くして、帰り支度をした小十郎が現れた。
さっきと同じようにテーブルに何かを置く。
鍵だった。
「好きなだけそうしてりゃいいが、戸締りだけはして帰れ。表は俺が閉めたから裏だけでいい。鍵は明日中に俺のところにもってこい。」
「………。」
「それが嫌なら今すぐ俺とタクシー相乗りだ。次の出勤日まで泊めてやる。」
どちらも嫌だったが、佐助に選択肢は与えられないようだった。
今はまだ自分はヤケクソになっていて、理性も何もないが、明日になって理性が戻ってからこのことを小十郎にほじくり返されてしまってはますます佐助の立場は悪くなるだろう。
そんな打算を言い訳に、ノロノロと立ち上がりロッカールームへ向かう。
荷物の中から財布だけを引っ張り出し、そのまま裏口へ向かった。
結局、一緒にいられる数日間に釣られて、佐助はまた来月もせかせかと金を稼ぐのだ。
裏口の前にはすでにタクシーが一台待っていて、小十郎もそこにいた。
佐助はまたノロノロとタクシーに乗り込み、ぐったりと窓に頭を預けた。
小十郎はその派手なオレンジ色の頭を掴み、自分の肩に載せると柔らかい髪を撫でた。
そして思い出したように佐助の細い指に、床から拾ってきたライターを握らせた。
ライターにはやはり疵がついていた。

End

2000万プレイヤー相手に色恋なんて、バカにもほどがある。

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