朝方になって幸村を帰した政宗は誰に連絡すべきかを少し考えた後、遠藤の番号を呼び出した。
自分がどうするべきかはまだわからない。
だが、一晩幸村と一緒に居たことで少しだけ冷静さは取り戻せたと思う。
成実の言う通り、いくら喚こうとも何も変わりはしないし、そんな無駄な労力を使うくらいなら成実を渡さずに済む方法を考えるのが一番だ。
『坊ちゃん。今どちらに?』
ワンコールで出た遠藤はきっと眠っていないのだろう。受話器の向こうの声が掠れていた。
「どことは言わねえがホテルだ。無事にやってる。暫く帰るつもりはねえよ。」
『無事なら文句は言いませんがね、もう決まったことを今更覆そうって言ったって無茶な話です。諦めて今日は帰ってください。』
「帰らねえって言っただろ。」
幸村が食べ残していったルームサービスのいちごを口に放り込みながら応える。
『坊ちゃん、強情はらんでください。』
「成実は俺が若頭にする男だ。いくら親父の意向だろうがアイツの身の振り方を考えるのは俺だ。親父なんかにくれてやってたまるかよ。だからどうすればいいか考える。親父にも叔父貴にもそう言っといてくれ。アイツ、いつ豊臣に行くんだ?」
『来週の頭にはって話ですがね。坊ちゃん、無理は通せんように世の中できてるんです。親父や若頭だってやりたくてやってるわけじゃない。それに、豊臣だって鬼じゃあない、成実坊ちゃんの身の振り方だってちゃんと考えてますよ。』
「死ななくてもそこにいねえのは死んでんのと 同じだろ。だから絶対ェ取り戻す。取り戻すくらいなら最初からくれてやる必要なんてねえんだよ。」
来週まで帰らねえからなと繰り返し、電話口で何事か続けようとした遠藤は無視して電話を切った。
どうすればどこもかしこもメンツが立つというのか。
食べ残しのフレンチトーストを頬張りながら届けられた新聞を広げる。
豊臣はどうして成実を欲しがるのか。
構成員でもない成実が組の内情を知っているかどうかもわからない。
それならば政宗の方が内情には明るいし、若頭に責任を取らせたいだけならば指を詰めれば済む話だ。
それに、それを拒むような若頭ではないはずだ。
それを拒んだ理由として考えられるのは組長の意向だ。
成実は確かに言った、一滴の血も流さずにここまで 漕ぎ着けたと。
誰にも傷をつけないかわりに、成実をよこせと言われたのならば、あの平和主義者の父のことだ頷かざるをえなかったかもしれない。
こうして冷静に考えてみると豊臣の手管の汚さが浮き彫りになるばかりだ。
じわじわと退路を断って、そうして身内を、それも血縁にある者を売った男というレッテルをふたりに貼ろうとしている。
信用だけで成り立つ極道において、身内を売るということは信頼関係、ひいては契約関係の崩壊を意味する。
信頼関係の崩壊した極道など、崩壊させるのは容易い。
疑心が疑心を呼び、内部から弱らせたところで間諜でも送り込めば伝統と権力のある組であったとしても簡単に潰れるだろう。
そこを飲み込めば最小限の犠牲でこの長い覇権争いに終止符を打つことができる。
豊臣会の会長が考えたシナリオなのか、それ以外の誰かが考えたシナリオなのか。それはわからなかったが考えた男は頭のいい男だと思った。
フレンチトーストの最後の一切れを口に放り込み、綺麗に磨かれたフォークの先を齧った。
このまま成実が豊臣会に引き渡されるようなことになれば、相手の思うつぼである。
父も若頭も、こちら側の人間は成実を犠牲にしてでも組や構成員を守ろうとしたということを免罪符に使いたいようだが、その免罪符の効力はどこまでも信用ならない。
なぜならそれは構成員と組長、そして若頭の間の信頼関係によるものだからである。
自分が思っているほど相手がこちらを信用しているとは限らない。
それも、数百もいる全ての構成員が、だ。
空になった皿に音を立ててフォークを落とした政宗は携帯で成実の番号を呼び出した。
『政宗ぇ。帰ってこいよ。マジで暇。』
「帰らねえけどひとりでここまで来い。」
『いやマジ無理な相談。今日は俺綱元と新婚さんごっこしてるんだ。』
ね、ダーリンと甘ったるい声で傍にいるらしい綱元に呼びかける成実は昨日のことなどなかった素振りだ。
頼むから部屋でヤるのだけは勘弁してくれよと思いながら政宗は話を続けた。
「お前にひとつだけ確認しておきたいことがある。はいかいいえで応えろ。」
『いきなりなんだよ。いいから帰ってこいって。成実くんとラブラブ同棲生活できるのも来週の月曜日までだぞ?このままじゃ俺のダーリンポジション、綱元に奪われちゃうぞ。』
「お前、本気で豊臣会に行ってもいいと思ってんのか?」
バカの見本のように騒いでいた成実が一気に静かになり、時折混ざるノイズだけが耳に届く。
「答えろ。」
『俺は親父もおじさんも、お前も大事だよ。俺ひとりでどうにかなるなら俺はどうなってもいい。綱元も、遠藤さんも原田さんも俺は大好きだし大事だよ。』
「はいかいいえだ。建前なんて聞きたくねえ。お前はどうしたいんだ?」
『行きたくねえに決まってんだろ。それでも行くしかねえから行くって言ってんだ。頼むからそんなこともう聞くな。俺に楽しい思い出だけ持っていかせろよ。だから早く帰ってきて仲良し兄弟ごっこしようぜ。お父さん役は綱元がやってくれるから。』
「俺はお前が豊臣会に行かなくて済む方法を思いつくまで帰らない。綱元と新婚さんごっこでもしてろ。そのかわり部屋ではヤるなよ。」
じゃあなと言って電話を切る。
成実は確かに行きたくないと言った。
それはそうだ。どんな生活が待っているかわかったものではないし、いずれ龍正会と内通したとか適当な理由を付けて始末されるに決まっている。
最初から内通が目的だとしたら政宗にはまだしも成実本人には言うだろう。
そんな素振りも一切ないところをみると、本当に父も若頭も目先の利害に目がくらんでいると思える。
それだけ成実が大切だということなのだろうが、それが全ての構成員に理解されるとは限らない。
政宗や成実と面識のある構成員ならまだしも、二次、三次の組になればそれはわからなくなってくる。
相手を 喜ばせない方法でこちらが責任を取ればいい。
でもその責任の取り方がわからない。
結局一行たりとも読まなかった新聞を放り出して政宗はソファに寝そべった。
今ばかりは一構成員という自分の肩書きが面倒に思える。
せめて幹部の肩書きがあればもう少しやりたいようにできるのに、と奥歯を噛み締めた。


政宗がホテル暮らしをはじめて二日がたった。
まだ妙案は思いつかない。
父と若頭と、そして数多の修羅場を経験してきたであろう組長クラスの人間が考えて思いつかなかったことを、たった二日でヤクザ見習いの政宗が思いつくはずもない。
あの手この手を考え、その全てが手詰まりだった。
残る選択肢は自分が跡目の権利を放棄することくらいだったが、それを組が許すかと言われれば許さないことは明白だった。
そして、自分には果たさなくてはならない約束がある。
幸村との契約だった。
組を離れた自分が、どれだけ幸村の力となれるかがわからない。
迷惑はかけないと約束した。
幸村があの話をどこまで本気にしているかはわからないが、政宗は本気だった。
それは成実の言うように幸村を好きだからかもしれないし、ただ一度手を出したことに対して意地になっているだけかもしれない。
それでも、見捨てていい相手ではないことは間違いなかった。
うろうろと部屋の中を歩き回る政宗の耳に携帯が着信を告げた。
散らかしたテーブルの上から探し出した携帯のディスプレイには事務所の番号が表示されている。
成実が豊臣に行くにはまだ早いが、この状況である。
何か状況が変わったのかと電話をとった。
『政宗さん!大変です!!若頭と親父が…!』
電話口で喚いたのはよく留守番をしている若い男だった。
大変なんですと喚くばかりの男を怒鳴りつけ、事情がわかるように説明しろと言ったが、相当混乱しているらしい男からは何も聞くことが出来なかった。
ふたりの身に何か起こったらしいと言うことだけ理解した政宗は電話を切り、もう少し事情を説明できそうな男を考える。
若頭の身に何かあったのならば、原田は間違いなく忙しいし、父に何かあったのだとしたら遠藤が忙しい。
綱元かと考えてリダイヤルから綱元の番号を呼び出した。
ややあって電話に出た綱元も動転していたが、さっきの男ほどではない。
「何があった。」
『若頭が撃たれました。親父も。』
「な、」
『成実さんも一緒でしたが、若頭が庇ったおかげで成実さんに怪我はありません。親父は一発ですが、若頭は何発か食らってます。とりあえず政宗さんも病院に、』
説明する綱元の声が遠くなり、視界が黒く染まる。
成実を差し出せばそれで丸く収まる話ではなかったのか。
耳栓でも詰めたように音が消え、強く名を呼ばれて現実へ引きずり戻される。
『政宗さん!落ち着いてください。とにかくあなたは明日にでも組長にならなくてはいけないかもしれないんです。残酷かと思いますが、覚悟だけはして来てください。車を回しますから、ホテルの場所を。一人では絶対に出歩かないでください。いいですね?』
綱元にホテルの場所を告げ、床にへたり込む。
豊臣会は政宗が思うほど優しくはなかった。
最後に見た父は困ったように俯いていたように思うが、それも定かではない。
それよりも、目の前で父親を撃たれた成実を思うと心臓を握りつぶされるように胸が痛い。
せめて全員命だけは助かってくれと普段は信じもしない神に祈る。
頭の中をいろいろなことが駆け巡って頭が痛い。
フロントからの電話で正気を取り戻した政宗は脱ぎ捨ててあったスーツのジャケットに代紋のバッジをつけて部屋を出た。
チェックアウトを済ませ、車に乗り込んだ瞬間に現実が果てしない重力で政宗にのしかかる。
運転手として寄越されたのは年嵩の男だった。
政宗の幼い頃も、成実のそれも知っている男は荒い運転で病院の前に車を止め、開かれたドアから降りる政宗に、お気を確かにと声をかけて深々と頭を下げた。
そんなひどい顔だったろうかと一瞬思ったが、車から離れた今、それを確かめる術はない。
救急入口から建物に入り、すぐの場所にいた綱元の肩を叩く。
青い顔をした綱元が弾かれたように顔をあげた。
「親父は…?」
「親父と若頭はまだ手術中です。会えるのは成実さんだけです。」
「あいつも怪我したのか?」
「倒れこんだ時に擦りむいたくらいなんですが、なんせ目の前で若頭が撃たれたので…」
そう言って綱元は目を伏せて唇を噛んだ。
「アンタは怪我してねえのか?」
「俺は大丈夫です。今原田さんと遠藤さんが警察で事情聴取されてますが、相手は豊臣でほぼ間違いないのですぐに釈放されるかと。」
「そうか。成実どこにいる?」
「向こうの処置室で点滴受けてます。」
行ってくると言い残して政宗は処置室の扉を開けた。
いくつか並ぶベッドの一番奥のカーテンだけが締め切られている。
そのカーテンを少しだけ開けて中を覗き込んだ。
ベッドの上には病衣を着せられた成実がぼんやりと天井を眺めていた。
「成実。」
呼びかけた政宗の声に緩慢な仕草で振り返った成実は何も言わずに視線を天井に戻した。
「…おやじ、は?」
掠れてぼんやりとした声で成実が問う。
焦点の合わない瞳と頬に貼られた絆創膏が痛々しい。
「まだ手術中だ。お前だけでも無事でよかった。」
「よく、ねえよ。…人間って、あんなに血、出るんだな。あのクソ親父、死ぬなよとか言いやがって…テメェだよ、みてえな…めっちゃ血ィ出てんだぜ?…俺、マジ、死ぬほど怖くて、声も出せねえの。手とか足とか、…情けないくらい震えんの。もう、笑えるくらい…親父、さ、どんどん赤くなって、…っおれ、」
シーツの下で震える成実の手を握る。
「もういい。大丈夫だ。親父も、叔父貴も死なねえよ。」
無責任だとわかりながら、ガタガタと震える成実の手をシーツの上から強く握る。
「まだ残ってんの…親父の血の感触。おじさんもぶっ倒れて、原田さんがガンガン撃ってて…でも、親父だけ…動かねえの。俺のこと、あんなにぶん殴ってた親父だけ…、おやじだけ、」
成実の呼吸が引き攣れて、浅い呼吸に喘ぎ出す。
全身を震わせながら丸くなって咳き込む成実の背中をさすってやりながらナースコールを押した。
その間も成実は焦点の合わない視界の向こうに血に染まる父親を見ている。
目を逸らしたくなるほどの悲痛に喘ぐ成実が喘ぎながら涙は流すまいと必死に奥歯をかみしめているのが痛々しい。
慌てて駆け込んできた看護婦にあとを任せて処置室を出る。
戻ったベンチでは綱元が膝の上に拳を握って泣いていた。
「綱元…」
「政宗さ、」
政宗に気付いて立ち上がろうとした綱元の肩を押さえて再びベンチに座らせた。
「若頭が、…亡くなりました。警察へは病院から連絡が行くそうです。遺体は、地下に…」
俯いたまま声の震えを必死に止めようとして吐き出された一言が、恐ろしいほどの重さで以って政宗にのしかかる。
今目の前で藻掻いていた成実に、何と言えばいいのだろうか。
目の前で殺意を持って父親を殺された成実にかけるべき言葉を、政宗は知らない。
「そう、か…。お前は事務所に知らせて、一回帰って成実の着替え持って来い。あいつもしばらく入院だろ。」
「成実さんに、何かあったんですか?」
頬に伝っていた涙を乱暴に拭った綱元が弾かれたように顔をあげるのに軽く首を振った政宗がため息混じりに答えた。
「叔父貴のこと、話しながら過呼吸になった。ショックがデカすぎるんだろ。あれじゃ日常生活に差し支える。だから暫く叔父貴のことは伏せとけ。飛び降りてもおかしくねえよ。」
「わかりました。親父が出てくるまで、ここで待たせてください。せめて、それくらいは…」
綱元は綱元なりに責任を感じているのだろう。
いつもは感情の読み取れない冷たい瞳が今日ばかりは疲労に憔悴している。
「…わかった。ウチで撃ったのは原田さんだけか?」
「…はい。原田さんが抜くな、と。」
「わかった。なら遠藤の叔父貴はもう釈放されてるだろ。ちょっと連絡いれて、叔父貴に手合わせてくるから、ここで親父待っててくれ。」
そう言って政宗は外に出た。
独特の匂いがする病院の中は息が詰まりそうだった。
成実も父も気になるが、今動けるのは政宗だけだ。
自分がどうにかしなくてはと言う恐ろしいほどの責任感だけが政宗を動かしていた。
本当のところ、泣き出したくもあり叫び出したくもある。
脳の片隅は機能していないのではないかと思うくらい頭が回らないが、状況がそれを許さない。
これが背負うと言うことなのかもしれないとぼんやり考えながら遠藤の携帯を鳴らした。
数回のコールで出た遠藤の声も恐ろしく疲弊していた。
「叔父貴がさっき亡くなった。」
思ったよりも冷静な声が出て、政宗自身驚いた。
電話の向こうでは遠藤が黙り込んでいる。
「成実はショックでわけわかんねえことになってるけどとりあえず無事だ。親父はまだ手術室から出てこねえ。今は綱元が親父を待ってる。事務所と成実にはまだ知らせてねえ。」
『そうですか…。』
悲痛な声を絞り出すように言って、遠藤は再び押し黙った。
泣いているのかもしれないと思った。
「もう釈放されたか?」
『はい。原田は撃ったもんで暫く出れそうにありませんが、私が今からそちらに向かいます。』
「わかった。疲れてるのに悪いな。」
『いえ、私らが不甲斐なかったせいですから。』
静かに言った遠藤は電話を切った。
口の中がカラカラに乾いて、煙草を吸う気にもなれない。
よく晴れた空から差す光が白いコンクリートに反射して眩しい。
建物の中に戻り、俯いたままの綱元には声を掛けずにその前を通り過ぎる。
綱元は政宗に気付かなかった。
誰もが傷付き、そして疲れていた。
タイミング良く処置室から出てきた看護婦に成実の様子を聞くと、薬で眠っていると言う。
入院になりそうかと問うと、その方がいいかもしれませんねと長い睫毛を伏せた。
ついでに遺体の場所を聞くと、安置所に案内してくれた。
寒々しい廊下に、革靴がリノリウムを踏む音が響く。
なぜか今ここで本当に彼は死んだんだなと思った。
でなければこんなにさみしい場所で彼に面会することはなかっただろうと思う。
こちらですと言った看護婦が開けた扉の向こうに、テレビで見るのと同じように遺体が寝かされていた。
顔にかけられた布を剥がし、思ったよりも綺麗な死に顔に安堵した。
「叔父貴…成実は、生きてる。」
看護婦がそっと出て行く気配がした。
「俺が、もうちょっと賢かったら…アンタは死なずに済んだよな。成実、壊れちまったみたいでさ…俺のせいだ。綱元が、泣いてたよ。アイツでも、泣くんだな…」
ぽたりと涙が溢れた。
一粒溢れたそれは、堰を切ったように流れ出す。
喉がぎりぎりと締め付けられ、膝が震えた。
「親父は、助かるかな…酷いよな、アンタを失った成実の前で、親父には死んで欲しくないと思ってる。何も出来なかった…子供みたいに駄々捏ねてるだけで、苦しんでる成実や、綱元に…っ、月並みの言葉さえ、かけてやれない…アンタも親父も、すげえよ。こんな重たいもん、ずっと背負って…俺には、…っ、無理だ。」
助けてくれよと呟いて、冷たい床の上に座り込む。
子供のように声をあげて泣いた。
兄弟のように育った成実の父親は、政宗にとっても父親のようなものだった。
実の父親よりも、父親らしかったかもしれないとさえ思う。
成実とふたり、よくげんこつをくらって泣いた。
忙しい父に代わってよく遊びに連れ出してくれた。
説教もされた、酒に酔ったオヤジの長話にも付き合わされた。
組に入ってからは、彼が慕われていることを知った。
成実との親子ゲンカは、事務所の名物みたいになっていたし、よく喋りよく動くいい男だった。
みんなが彼に憧れた。
その彼が、もう動くことも話すこともないのだと思うと涙が止まらない。
父の前では背伸びをして見せても、彼の前では年相応のわがままが言えた。
そんな男だった。


どれくらいそうしていたかはわからないが、泣き腫らした目蓋が重たく熱っぽくなった頃に我に返った。
まだ、やらなくてはならないことが残っている。
「叔父貴、俺、…行くわ。」
そう言って白い布を元通りに戻して部屋を出た。
遠藤が着いている頃だが、綱元はともかく、遠藤に泣き顔を見られるのは今更だ。
階段を駆け上がった先に遠藤の背中を見つけて、心底ほっとした。
「叔父貴。」
政宗が鼻声で呼んだ男は政宗を振り返り、その顔をみて少し表情を緩めた。
「遅くなりました。」
「綱元は?」
「煙草吸いに出てます。成実坊ちゃんはやっぱり入院になるそうです。さっき病棟の方に。」
「親父はまだか。」
「腰のあたりに貰ってたんで、も少しかかるかもしれませんね。」
そうかと頷いてベンチに座る遠藤の隣に腰を降ろした。
その政宗にポケットから出したハンカチを差し出した遠藤が困ったように笑った。
「泣けたんですね。」
「ああ、叔父貴の前で思いっきり泣いた。」
「電話の声があんまりにも冷静だったんで、少し心配してたんですが、若頭の前では坊ちゃんも子供だってことですかな。」
「さあな。一人になったらびっくりするくらい泣けたんだよ。叔父貴、会いにいかなくていいのか?」
目頭に溜まった涙を受け取ったハンカチで押さえて、それを遠藤に渡す。
遠藤は手術室のステンレスの扉を見つめて、私はいいんですと答えた。
「若頭には謝らなきゃならんので、時間がかかって仕方が無い。今は親父の無事を確認しないと若頭にどやされそうですからね。」
「ハハ、間違いねえな。」
政宗が乾いた笑いを零したところで綱元が戻ってきた。
遠藤が来たことで少し緊張がほぐれたのか、さっきよりも顔色がましになっている。
「綱元、叔父貴下で待ってるから行ってこい。言いてえことあるだろ。」
「…はい。」
頷いた綱元が階段に消えて行くのを見送り、気を紛らわせるように遠藤とくだらないことを話す。
そうしていれば少しは気持ちが軽くなった。
死んだ若頭のこと、手術室から出てこない父のこと、そして壊れたように震えていた成実のこと、豊臣会とのことも。
考えなくてはならないことはたくさんあるが、もう疲れてしまった。
やはり自分にはメンツや覚悟や建前の価値がわからない。
極道には向いていないようだと自己分析が済んだところで父が手術室から出てきた。
医師の話では一命はとりとめたが、下半身に麻痺が残るかもしれないと言うことだった。
集中治療室に運ばれて行く眠ったままの父を見送り、泣き腫らした顔で戻ってきた綱元に父の無事を告げる。
綱元はため息のようによかったと言って、成実の着替えを取りに戻った。
騒ぎになっているであろう事務所に遠藤を向かわせて、政宗は成実の病室を覗いた。
まだ眠っているらしい成実の枕元に椅子を引きずっていき、相変わらず顔色の優れない寝顔を覗き込む。
ゆっくりと上下する薄い胸が時折痙攣するのをハラハラと見つめながら、さっきまで考える事を放棄していたそれらを考える。
若頭が死んだ事で、すべてはチャラになったはずだ。
向こうにけが人がいようが知った事ではない。
九代目は半身不随、若頭は死んだ。
どうかんがえてもこちらがこうむった被害の方が大きい。
結果として成実は豊臣に渡さなくて済みそうだが、唯一無傷だった成実がこれではこの先どうなるかわかったものではない。
これが豊臣のやり方かと考えて唇の内側の柔らかいところを噛んだ。
どう始末をつけさせようかと考える政宗のジャケットのポケットで携帯が震えた。
個室だからと窓際に移動して電話をとった。
「もしもし。」
『あ、政宗殿…』
「真田…どうした?」
『ニュースで、伊達という名前をみかけたもので、心配になって…つい。』
昼間の繁華街のど真ん中で起きた発砲事件がニュースにならないはずがないかと考えて、苦笑をため息にのせた。
「ああ、わざわざ悪いな。」
『お怪我は?』
「俺は無事だ。親父と従兄弟が入院した。亡くなったのは叔父だ。」
言葉にして初めてきちんと状況を理解できたような気がした。
一瞬の沈黙のあと、幸村が静かに話し始める。
『撃たれたのは、若頭と組長だと…政宗殿は、』
「俺は、龍正会の次期組長だ。だから、アンタに愛人契約を持ちかけられた。暫くゴタゴタしそうだが、アンタとの約束は必ず守る。」
『俺の事より今は…』
幸村が困ったような声を上げる。
そう言えば、幸村は家族を失う痛みを知っているのだと今更のように思い出した。
「大丈夫だ。俺が何とかする。全部だ。」
『政宗殿…、もし、苦しくなったら、いつでも連絡してくだされ。』
「ありがとう。まだ病院だから切るぞ。」
『あ、忙しい時に申し訳ない。』
政宗の返事を待たずに切られた電話を暫く見つめ、そして胸のポケットに片付ける。
暮れ始めた空の色を映して、少しだけ血色が良くなったように見える成実の髪をさらりと撫でて、政宗は病室を出た。
そろそろ綱元が戻る頃だ。
綱元に成実を任せて、自分は事務所に戻らなくてはと思う。
通りかかった集中治療室の外から父のいるそこを眺め、名代は俺がやるからと心の中で呟いた。
手探りだがそれは仕方がない。
遠藤も綱元もいる。父も助かった。
若頭が命を賭けて守った成実を、どうしても守らなくてはならないと思う。
それこそが若頭への弔いだ。
案の定待合のロビーにいた綱元を捕まえ、自分は事務所に戻る旨を伝えて成実を頼んだ。
病院の前を吹き抜ける風は冬の匂いがした。

End

過去との訣別、明日への憧憬

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