部下のミスで大幅に遅れた帰宅時間に、神経質そうな細い眉を歪めながら元就は自宅の鍵を開けた。
玄関には見慣れた自分のものより大きな革靴が律儀にこちらを向いて揃えてあった。
普段は雑把で頓着ない行動を取ることの多いあの男だが、ふとした瞬間の律儀さや礼儀正しさが、いかにも良家の嫡子であることを匂わせる。
下駄箱の上に鎮座する時計は既に真夜中を指し、それを目に留めた元就はどっと押し寄せた疲れを溜息に乗せた。



静かにリビングの扉を開けるとソファーにだらしなく体を投げ出す男の姿があった。
すっかり氷が溶けきり、汗をかいたグラスを片手に一人で座るには些か広いソファーの上に両手を広げて背を預ける姿は疲労と憔悴を混ぜた空気を纏う。
背凭れに後頭部を預け、目を閉じた男は元就の帰宅に気付いた様子はない。
反らされて無防備に晒される筋張った逞しい首筋が醸す一片の艶めかしさが元より少ない元就の劣情を煽った。
二人で食事を摂るには少々広すぎるガラステーブルとその周囲の床に散乱する酒の空き瓶を避けて男の脇に立つ。
男の顔に元就の影が落ち、薄らと静脈の透ける眼帯に覆われない右の薄い目蓋が億劫そうに開き、元就を捕える。
ちらりと元就を一瞥し、すぐに閉じられた水底を思わせる澄んだ色の瞳に、一瞬どきりと胸が強く打ったのは微かに沸き上がった劣情を見透かされたように感じたからか。
目を閉じてぴくりとも動かない男の高く筋の通った鼻梁を暫く見つめてから元就は着替えの為にその場を立ち去ろうと振り返った。
が、背後から掛けられた細い声に足を止める。


「もとなり、」


酒のせいか掠れた低音は紛れもなく大人の男の声であるというのに、頼りなく僅かばかり舌足らずなその発音はまるで不安げに母を呼ぶ子供のような。
振り返った元就の涼やかな狐目が男の小さな唇を見つめる。
今、あの唇に噛み付けば残ったアルコールが思考を犯して、男の首筋に躊躇なく噛み付かせてくれるだろうか。
そんな取り留めのない思考に気を取られ、力強く腰を引く腕から滑り落ちたグラスは受け取り損ねた。
ごとりとフローリングの床に落下したグラスはかろうじて割れなかったが、中に残っていた酒だか水だかわからない液体がぶち撒けられて広がる。
いつの間にか男の正面に棒立ちになった元就の腹に、男の派手ではあるが嫌味ではない銀髪が蹲っている。
脱力した雰囲気に反して軋むほどに強くまわされた腕が可笑しくて元就は短く息を吐いた。
冷房に冷えた銀髪に指を絡める。
見掛けよりも柔らかで細いその髪の感触を楽しむように襟足を梳く。



なあ、と腹のあたりからくぐもった声が上がる。
視線を下に向ければ元就を見上げる隻眼と目が合った。
絡まった視線の温度差が元就の羞恥を掻き立てる。
目を伏せようとして失敗した視線は依然として隻眼に絡めとられたまま。



「セックスしたい。」
「一人でしておれ、酔っぱらいが。」



なるべく冷めた声で吐き捨てる。
この男がこうなるまで飲んだ理由は粗方想像できていた。
どうせ実家から結婚はまだか、子供はまだかとせっつかれたのであろう。
それは元就とて同じであったが、元就はのらりくらりと躱しているのだった。



「それじゃオナニーだろ。」
「下衆が。」



なあ、と引き寄せられて冷たい床に押し倒される。
ソファーと机、そして男に囲まれた体は逃げ場を失い、腰に確かにわだかまる緩い熱量も逃れ様がなく温度を上げた。
ぶつけた後頭部が痛み、スーツの裾が零れた液体で濡れる。
いくら拒んだところで、自らそれを望んでいる限りは逃れることなどできない。
喩え望んでいなかったとしても、温もりと安堵を探すこの男の手を振り払うことができるほど元就はこの男が嫌いなわけではない。
どのみち、この冷たいフローリングの上で孕めもしないこの体を差し出し、男に一時の安息を与えることになるのだ。



実を結ばない愛情などただの執着だと思うのに、唇に重なる酒臭い吐息を拒めない自分がいる。
そんな自分を嫌悪し、この男の憂鬱に侵されてしまう前にと、元就はスーツを着たままの細い腕を男の首にまわした。



End

執着でも構わない。一生はなれないって誓え。

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