- 「またか…。」
出勤前、早朝の静謐な空気の中でカラスが鳴いている。鳴き声を振り返った政宗は開いたままになっているゴミ捨て場のドアの中を覗いた。
ここ最近、ゴミ収集日の前になると必ずと言っていいほど扉が開けっ放しになっている。政宗でも重たいと感じるその引き戸を、いくら頭のいい鳥類の筆頭であるカラスでも自力で開けられるものではない。ゴミを出した住人が単に閉め忘れただけなのか、とはじめは思っていたが、こうも続くとマナーの悪さが目に付く。管理人に話をするべきかもしれないな、と小さくため息をついてカラスを追い払うために中を覗いた。
そこには、いくつかのゴミ袋と明らかに人為的に封を開けられた袋が一つ。
その中からカラスが引っ張り出したらしい煙草の箱に、政宗は一つしかない目を見開いた。
政宗が吸っているのと同じ銘柄の箱がくしゃりと握りつぶされたそれ。周りに散らばっているゴミのいくつかには見覚えのある入浴剤の袋や、インスタントコーヒーの袋。極めつけにシュレッダーにかけられた政宗が勤める会社のロゴが入った封筒。
後ろから頭でも殴られたかのように強い眩暈が政宗を襲い、立ち尽くしたゴミ捨て場の入り口で、開いたままの扉に手をついた。
誰かにゴミを漁られているのかもしれない。
込み上げた気持ち悪さを嚥下しきれず、力任せにゴミ捨て場の扉を閉めて、逃げ込るよう足早にその場を離れた。
もつれそうな足を必死に動かし、いつもよりかなり早く駅にたどり着いて初めて、自分が一部上場の商社に勤めていることを思い出した。あのマンションの住人の誰かが、政宗の勤める会社と取引のある会社にいてもおかしくない。自宅にシュレッダーを置いているのもサラリーマンなら珍しい話ではないし、政宗が吸っている煙草は政宗の世代ではポピュラーな方だ。同じような好みの人間が住んでいて、その住人の勤める会社が、政宗の会社と取引があっても何ら不思議なことではない。
まだ、自分だと決まった訳ではない。
政宗は定期を改札に通しながら自分に言い聞かせた。
しかし、異変はその後も留まることを知らず、ゴミ収集日の度にカラスが群れるゴミ捨て場を横目で見ながら、背筋を寒くする日々を送っていた。
それでも、それ以外の何かがあるわけでもなく日々が過ぎていく。政宗はらしくない安堵に胸を撫で下ろし、さりとて消えることのない胸のしこりを抱え続けることになっていた。
会社の女子社員、いまだに交流のある学生時代の女友達、疑い始めればきりがない。猜疑心と、ターゲットは自分ではないと否定する気持ちがゆらゆらとせめぎ合う。
持ち上がる小さな疑いを否定の上塗りで鎮めては淀んだ澱として蓄積する生活はそれなりに疲れもするが、確固たる証拠を確かめる気には到底なれそうにない。自分の中の何かが壊れてしまうような気がしたのだ。それは社会人としての挟持や、潤滑な社会生活と言った政宗の生活の大部分を壊死させる膿んだ傷にさえなりうるような気がして、ずっと漁られ続けている袋の持ち主が誰なのかを調べることはしなかった。
次の異変はそれから1ヶ月ほどがたったある日、唐突に訪れた。認めようとしなかった政宗を嘲笑うように。
仕事帰りに小十郎と飲んで帰った日のことだった。その日は大口の契約が纏まり、幼なじみ兼先輩というややこしい関係の小十郎が、それをねぎらうと言った趣旨のささやかな祝宴だった。
その日ばかりはマンションのごみ捨て場で起こっている不快な出来事も、政宗の脳裏に蘇ることはなかった。
徹夜で作った企画書はどうだった?担当者がなかなかやり手だった。そう言えば総務の女の子が寿退職で、営業二課の担当が変わるらしい。小十郎は猿飛とどうなったんだ?相変わらずだ。そう言うお前はどうなんだ?こっちも相変わらずだ。
緩やかに脳を浸す優しいアルコールに心地よく身を任せながら、今度は4人で飲みに行こうと気心の知れた者にありがちな口約束を交わして小十郎と別れた政宗は、酔いに任せて恋人に電話をしてデートの約束でも取り付けよう、とエントランスのロックを解除した。
政宗の恋人、と言うのは取引先の担当者である真田幸村だ。元を正せば高校時代の同級生なのだが、当時から幸村に好意を寄せていた政宗が、社会人になって再会した折りにごり押しして付き合うことになったのだ。それももう3年以上前の話だ。
はじめは何かと頑なに拒んでいた幸村だったが、これだけ時間が経てばそれなりに恋人らしくもなってくる。結婚という縛りのない男同士だからこそ、これだけ続けばお互いにある程度は本気なのだということが見て取れる。政宗はそれが嬉しかった。
付き合う付き合わないのごたごたの時に世話になった小十郎と佐助に比べればまだまだ浅い付き合いではあるが、今はふたりに相談を持ちかけることも少なくなった。
そんな過去のなつかしい思い出に浸りつつ、部屋の鍵を開ける。
まずはシャワーを浴びて、外回りと契約でかいた汗を流し、布団に入ってから電話をかけよう。
政宗のそんな思惑は部屋に入った途端に鳴り出した電話によって妨げられる。なんていいタイミングだと褒めるべきか、時間を考えろと怒るべきか迷いながら政宗は受話器を取った。
「はい」
『…………………』
政宗が玄関から電話が置いてあるリビングに移動するまでの間、執拗に鳴り続けていた電話の向こうは無言だった。
何か用事があったからかけてきたのではないのかと、政宗の酒に酔った頭に僅かに血が登る。
イライラしながら、もう一度返事をしたが、いくら耳を澄ましてみても受話器の向こうは雑音一つ聞こえない。
「誰だ?……小十郎か?」
『………………』
不審に思って聞き返してみても相手は何も答えなかった。
生活音どころか息遣いの一つも聞こえないその電話の向こうの様子を政宗がうかがい知る事はできない。
暫くの間、政宗と無言の応酬を続けた電話の主はしかし、突然通話を終了した。
何だったんだと思いながら、着ていたスーツのジャケットをソファーの上に投げる。その時、次はスラックスのポケットの中で携帯が震えた。
電波が悪くてこっちに掛け直してきたのかもしれない。そう思って改めたディスプレイには『番号非通知』の文字が踊っている。
ゴミ捨て場にむらがるカラスの群が瞼の裏に蘇って、気持ち悪さに携帯を投げ出した。
鳴り止まない着信音だけが静かな部屋に響く。
暫く鳴り続けた携帯は、政宗の意志には関係なく非通知の電話を留守番電話に転送し、録音時間いっぱいの無言の静寂を受け取っていた。
交互に切れては着信を告げる家の電話と携帯。あまりの気持ち悪さに、さっきまで回っていた酔いもすっかり醒めてしまった。
あの日以来見ないようにしていたあのゴミ袋の主は、政宗の予想を裏切らずに政宗だったのだ。
それならそれで、どこから住所や電話番号が漏れたんだ、と政宗は冷静さを完全に欠いた頭で考えた。
住んでいる場所は政宗をつければすぐにわかるとしても、電話番号はそう簡単には解らないだろう。郵便物はもちろん、宅配便の送り状さえシュレッダーにかけて捨てている政宗だ。万が一ゴミの中から何かを見つけたとしても電話番号がわかるはずはないのだ。
もし、ゴミの中から拾った紙の切れ端をつなげて得た情報だと言うなら、相手は間違いなくまともじゃない。
(いや、ゴミを漁り、無言電話をかけてくる時点でまともだとは言い難いのだが。)
鳴り続ける電話が途切れる一瞬の間に受話器を上げ、携帯の電源を切る。込み上げた吐き気は少々飲み過ぎた酒のせいなのか、それとも鳴り続ける電話と漁られたゴミのせいだったのか。
よくわからないままにトイレに駆け込み、少しだけ吐いて倒れるように眠った。今まで蓄積させてきた澱が、猛毒の不安となって体を冒していくのを掠れる意識の片隅に感じた。
翌朝、けたたましく鳴るインターホンの音で目が覚めた。
枕元に置いてある時計は出社時間を一時間と半分も回ったところだった。
慌てて布団を跳ね退けてばたばたと玄関を開けると、そこには心底ほっとしたとでも言いたげな小十郎がいた。
「悪りぃ、今起きた。すぐ準備して出社する。」
「寝坊ならいいんだが…。」
「は…?」
小十郎の言っている意味が分からずに素っ頓狂な声をあげた政宗は、とりあえず小十郎を部屋にあげる。シャワーはこの際諦めるとして、顔くらいは洗いたい。
後ろから着いてくる小十郎を気にせずに洗面所のドアを開けた。
「いきなり営業部の若いのから内線で伊達さんと連絡が取れないって喚かれたら心配もするだろう。」
「あぁ…悪かった。携帯は充電切れで、家のは…鳴ってるのに気づかなかったんだ。」
「今まで遅刻の一回もしなかったやつが突然そんな事になったから焦ったんだろう。出社したら謝ってやれ。」
「あぁ、そうする。」
洗面台の前で顔を洗って剃刀をあてる政宗の背中に小十郎がここへきた経緯を説明した。
政宗にはじめに連絡したのが会社の後輩だとすれば、家の電話が話し中になっていた事を小十郎は知らないだろう。そう考えてした言い訳が、昨夜の奇怪な現象を政宗に思い出させて、一瞬のうちに憂鬱な気分が覆いかぶさってくる。
クリーニングから戻ってきたばかりのスーツに腕を通しながら、昨日は酔っていたから記憶が曖昧で、小十郎に告げた事は事実なんだと自分に言い聞かせる。
遅刻して連絡がつかなかっただけでここまで気を回してくれた後輩にも、仕事中にわざわざ様子をみにきてくれた小十郎にも、これ以上の心配や迷惑をかける訳にはいかない。
そう考えた政宗は憂鬱に曇る表情を仕事用のそれに切り替えて小十郎と一緒に家を出た。
まずは上司に謝り、後輩にも心配をかけて悪かったと頭を下げる。上司は以後気をつけるようにと一言咎めただけだったが、後輩は今にも泣きそうな顔で心配しました、と寄ってきたので、お詫びに社食で昼食を奢ってやった。
しかし、その日から毎日のように、政宗の帰宅を見計らったように無言電話がかかってくるようになった。
だいたいは仕事の帰りの時間を見計らってだった。帰宅する頃を見計らったかのように家の電話が鳴り、続いて携帯がなる。
それだけならば、相手にとってもただのルーチンワークだと思えたのだが、政宗が残業をしようとも、取引先からの直帰であっても変わらず見計らったように電話がなるのだ。
どこからか見られているのかと思うと、気味が悪くてカーテンを開けることもはばかられる。
滅入っているといえば滅入っているが、それを表に出したり、誰かに打ち明けることはできればしたくなかった。そうすることで相手が諦めてくれることを淡く期待していたのだ。
犯人に心当たりがない以上、警察沙汰にもしがたい。なにより、こうすることで政宗の日常が崩壊してしまうのが恐ろしかった。
その後しばらくは、先日の契約の件で休日返上で働かなくてはならず、それもまた政宗から危機感や極度の緊張を遠ざけてくれていた。家にいれば嫌でも意識せざるをえないストーカーの存在も、出社してしまえば忙しさに忘れることができる。
そうして、ようやく、実に二週間ぶりとなるまともな休日がやってきた。
本当ならば幸村とどこかへ出かけたい気持ちもなくはない。しかしながら、疲れには抗えず、政宗はその日の昼頃までだらだらと惰眠を貪っていた。
昼を過ぎ、三度寝からぼんやりと意識が覚醒し始めた政宗の耳にインターホンの音が届く。うつらうつらとその音を聞いていた政宗だったが、ハッとして飛び起きた。
今日は誰かが訪ねてくる予定はない。
まさか、と思い足音を立てないようにおもむろにベッドを降りた政宗は、自宅だというのに泥棒のような足取りで玄関へと向かった。
もう一度、インターホンが鳴る。
そっと冷たいドアに手をつき、ドアスコープの小さな穴を覗き込む。政宗はほっと胸を撫で下ろすと、笑みを浮かべながら鍵を開けた。
「急に来るなんて珍しいじゃねえか。」
「電話をかけたのに、出なかったのは政宗殿でござる。」
さも不服そうに唇を尖らせて半目で睨んでくる幸村を部屋に上げながら、寝てたんだよと笑う。
途端に起こしてしまったことで、しゅんとした幸村の頭をくしゃりとかき混ぜて気にするなと、服の上からではわからない意外とたくましい体を抱き込んだ。
素直に背中に腕を回す幸村も、ここ暫くの空白の時間がさみしかったのだろうか。そんな些細なことに目元を綻ばせながら狭い額に唇を寄せた。
「政宗殿、少し痩せたのでは?」
「ああ、…忙しかったからじゃねえのか?出勤しなくていい休日なんて久しぶりだ。」
「それならゆっくり休まれた方が…」
「もちろんだ。あんたと一緒にな。」
幸村の肩を抱きながらリビングへ移動する。ここ暫くろくに掃除もできなかったせいで部屋が埃っぽい。
窓を開けようとして閉め切ったままのカーテンにかけた手を止めた。
そのまま暫く考え込んだ政宗を見て、幸村が訝しげにその名を呼ぶ。あぁ、と生返事を返した政宗は、カーテンを開けてソファーにおさまっている幸村の隣に座った。
「アンタに少し話しておかなきゃならねぇことがある。」
突然、堅い口調で切り出した政宗に、幸村の表情が凍り付く。あからさまに体を強張らせた幸村に、政宗は小さく息を吐き出した。
幸村の硬い短髪を安心させるように撫で、政宗は笑ってみせると話を切り出した。
ストーカーらしい誰かにごみを漁られ、監視されているかもしれないこと、無言の非通知の電話がかかってくること。政宗が話している間、幸村は沈痛な面持ちで黙って聞いていた。
「これがストーカーならアンタにも危害が及ぶかもしれない。」
「某のことより、政宗殿でござる。」
真顔で呟く幸村の色素の薄い栗色の眸が揺れている。そっと伸ばされた指先が壊れ物にでも触れるように政宗の頬を撫でた。
何も知らずに、と呻く幸村の眸の奥で、心配と後悔がゆらりと揺れている。
政宗は苦く笑って大丈夫だから、と告げた。
「相手に心当たりは?」
「疑い始めたらキリがねぇからな。今のところ害はないからほったらかしにしてある。それより、アンタも気を付けてもらわねぇと。」
「某は大丈夫でござる!いざとなればお館様もおられる!!」
「俺も大丈夫だ。いざとなったら身を守れるくらいの力はある。それに、アンタに何かあった方が俺にとっては一大事だ。」
でも、とまだ何か言いた気な幸村をソファに押し倒す。
一房伸ばされた襟足がソファの端から零れた。
「それより、今日は抱き枕になってくれるんだろ?」
「それで政宗殿が眠れるなら、いくらでも。」
明日も仕事があるから、と告げて政宗の部屋を出た幸村は、後ろ手にドアを閉めながら込み上げる笑いを噛み殺した。
そうだ、もっと苦しめばいい。
自分以外に頼るところなどないのだと思うくらい。
ポケットから携帯を出した幸村は非通知設定のまま、リダイヤルを押して歩き始める。
「政宗殿は、誰にも渡さない。」
一筋、凛となびいた襟足がマンションの廊下の闇に溶けて行った。
End
誰にも渡さない、愛しいあなた。
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