- いったいなぁと呟いた声が漆黒の闇夜に吸い込まれていくのを感じながら佐助は大の字に広げていた右手を脇腹に宛てた。
ぬるりと指先に纏わり付くのは間違いなく己の血液だった。
城に忍び込んで来たどこぞの忍を始末するために逃げたそいつを追ってきた。
そこまでは良かったのだが、気が付いたら数人の忍に周りを囲まれていた。
さすがの佐助と言えど、多勢に無勢、全員を始末し終える頃には右脇腹と右肩に大きな傷を負っていた。
出血も酷く、そのまま城に戻る気にもなれずにこうして始末した忍達と一緒になって草の上に寝そべっている。
鴉を呼んでそろそろ城に戻らないと冗談抜きで死にそうだな、とは思うものの、指笛を鳴らす気にもなれない。
理由は翌日に控えた奥州の覇者の来訪だった。
政宗が単独で来る分にはさして問題ではないが、その来訪に伴って竜の右目が来ないわけがない。
佐助の問題はその右目だった。
「なーんで今日来たかなぁ……」
一人ごちてみるがその問いに答えるものはもうこの世には存在しない。
帰らなくてはあのやかましい主も黙ってはいないだろうし、と佐助は渋々血に濡れた右手の人差し指をその薄い唇に宛て、鴉を呼んだ。
主の指笛に呼ばれて姿を現した鴉の脚になんとか捕まって城に戻る頃にはすっかり夜が明けていた。
大怪我を負って帰還した佐助に、泣きそうな顔で駆け寄って来た幸村を軽くいなして佐助は信玄の元へと報告へ向かった。
対峙した信玄は佐助を見たときから眉間に刻んだシワをますます深くしながらうむ、と頷いた。
「たぶん、今日うちに竜の旦那が来ることがしれてたのかと。」
「そうか…主不在の内に奥州を叩くのではなく、武田と伊達を一緒に叩くつもりだったようじゃな。」
「でしょうね。何処の手の者かはわかりませんが、大方魔王さんとこの忍ってとこでしょ。」
ずくずくと疼く傷を思考の端に捉えながら佐助は報告を続けた。
よく磨かれた板の間に止まり切らない佐助の血液がじわじわと広がっていくのを見た信玄はほう、と小さく溜め息を吐くと先とは違う柔らかい視線を佐助に向け、後ろに控えていた幸村に鋭い視線を投げた。
「幸村!そういうことじゃ。何があっても伊達の独眼竜に手が及ばぬようにするのじゃ!!」
「はっ!心得ましてござる!!」
威勢のいい返事と共に立ち上がり、どたばたと部屋を出ていく幸村の足音が途中ですっ転ぶ音を聞きながら、大丈夫かねぇ…と朦朧とし始めた意識の片隅で考えた佐助に信玄が向き直る。
「して佐助。お主は早く手当をしてもらえ。城のことは幸村に任せてしっかり傷を癒すのじゃ!」
「はーい。じゃあ失礼しまーす。」
間延びした返事を残して立ち上がり、常は屋根裏に消えるところをずるずると血の跡を引き摺りながら湯殿へと向かう。
途中の廊下で庭木に向かって声を掛けるのも忘れない。
「ってことだから、夜は気をつけてね〜。俺様もう動けそうにないし、丸投げするから。あと、着替え湯殿まで持って来てくれると嬉しいな〜。」
誰もいないはずの庭木がかさりと小さな音を立て、そこにいた佐助の部下である忍が動いたことを教えた。
段々と重くなる身体をなんとか動かして湯殿に辿り着くと血で重くなった忍装束を脱ぎ捨てる。
きつく巻いていたさらしを外すとどば、と圧迫されていた脇腹の傷から血液が溢れる。
出血の割には浅かったんだな、と痛みさえも麻痺しはじめた傷口の周りを軽くなぞるとじわと痺れが広がった。
肩の傷は自分ではよく見えないが脇腹よりも深そうだな、と考えた。
傷口に直接かからないように湯を浴び、身体に付いた血を流してゆく。
伊達軍御一行が来る前にさっさと部屋に引き上げて眠ってしまおう。そうすれば件の右目と顔を合わせずに済む。
そう考えるが、痺れる右腕ではうまく洗えずに思いの外時間がかかってしまった。
着替えと一緒に用意されていたさらしで手当をし、休めるようにと用意されていた萌黄の着流しに腕を通す頃には城門の方が騒がしくなっていた。
なるべく人目に付かないようにこっそりと部屋まで戻る。
その途中で幸村に怪我のことを口止めし忘れたと思い出したが後の祭り。
綺麗に敷かれた布団に入り、なんとかなるか、と重たくなる瞼を半分失神するように閉じた。
寝返りを打とうとして肩の傷が引き攣れる痛みに目を開ける。
障子の向こうはもう既にとっぷりと日が暮れている。
ぐっすりと眠ったせいでなくなった時間の感覚を取り戻そうと起き上がり、障子を開ける。
相変わらず脇腹の傷が疼くが、肩の傷の方が痛みを増していて右腕を動かすことすらままならない。
見上げた月は天頂に近い。もう夜中か、と着崩れた着流しのまま廊下に出る。
これだけの傷を負っているからか、ただ眠っただけなのに自分の身体じゃない様に体がふわつく。
キシ、と廊下を軋ませて庭に面した縁側まで歩く。
丸投げするから、と部下に宣言したものの、やっぱり気になるものは気になる。
部屋を出るときに咄嗟に掴んで来たクナイを着流しの帯に挟んで静まり返った城の中を見て回る。
どの部屋に政宗達が通されているのかは聞いていないが、常の通りであれば幸村の私室の隣のはずである。
そこまで行って主と客人の安全を確認してからもう一眠りしようと考えて、先までよりも慎重に気配を消して廊下を歩く。
所々で部下の気配を感じながら主の部屋の前へと辿り着いた。
が、庭に人影を見つけて咄嗟に帯に挟んだクナイに手を伸ばす。
しかし、闇に慣れた目を凝らすとその人影が闖入者ではないことに気付く。
広い背中と微かに見える頬の傷。
佐助が会わないようにしてきた小十郎だった。
着流しの腰にはしっかりと脇差しが下がっている。
なんで起きてんのよ、と小さく溜め息を吐いて、小十郎が起きてるなら問題ないか、と踵を返そうとした。
その時、気が緩んだのか一瞬現れた佐助の気配に、脇差しに手を掛けた小十郎が振り返った。
「誰だ…」
ドスの効いた低い声が静まり返った廊下に静かに響く。
最悪、と心の中で嘆息して左手を降参よろしく挙げて佐助は振り返った。
「俺様でした。」
「猿飛…?任務で出かけてたんじゃなかったのか?」
抜きかけていた脇差しを鞘に戻しながら問う小十郎の纏う空気が一瞬にして柔らかいものへと変わる。
小十郎の言葉に、意外と旦那も気が利くのね、と怪我が小十郎にばれていないことに胸を撫で下ろしながら縁側に上がってきた小十郎に歩み寄る。
「あー…さっき帰ってきたとこ。」
歯切れ悪く答える佐助から色濃く漂う鉄錆の匂いに、暗殺でもしてきたのかと小十郎は考えたが、それには触れないことにしてそうか、とだけ返して縁側に歩み寄る。
恋仲だとは言え、いつ敵同士になるかわからない関係。
互いの仕事の内容には触れないのがふたりの暗黙の了解だった。
立ちっ放しだった佐助も小十郎にならい、その向かいにに腰を下ろし足をぶらぶらと遊ばせた。
「いつまでこっちにいるつもり?」
「二、三日は居るつもりで来たが…、どうやら穏やかではないようだな。」
小十郎は苦笑を滲ませた声で返事を返す。
佐助の怪我の話をしていないなら昨日の一件は話していない可能性の方が高いが、これだけ城の至る所に忍が配置されていればわかるか、と佐助も苦笑する。
頼りない三日月の月明かりの中、小十郎は少し肌蹴た佐助の着流しから覗くさらしに気付いた。
普段からさらしを巻いているのを見たことはあるが、肩まで巻いているのは初めて見る。
よく見ると肩の辺りから胸にかけて色が変わっている。
「怪我、してんじゃねぇか。」
「え…?」
小十郎の言葉に視線の先を追うと着崩れた着物からはみ出したさらしに行き着く。
慌てて袷を掻き寄せて隠すがもう遅い。
「ちょっと、しくじってさ。多勢に無勢って言うの?さすがの俺様でも囲まれちゃあ無傷って訳にもいかなくてさぁ。あはは!あ、でも掠り傷だから全っ然平気。明日には……ッ!!」
急に饒舌になった佐助の右の二の腕を小十郎が掴む。
佐助は痛みに息を詰めてその形の良い眉を歪めた。
佐助が饒舌になるのは何かを隠したい証拠なのを小十郎は知っている。
よくよく見れば闇に浮かび上がる忍化粧のない端正な白い顔に薄らと脂汗が滲んでいる上に唇の色も悪い。
二の腕を解放すると大きく息を吐いた佐助が背を丸めて肩の傷を押さえる。
「アンタねえ!怪我してるってわかってるならそーゆうことしないでよ…」
ホント痛い、と佐助は呟いて小十郎を睨み付けるように顔を上げた。
その恨めしそうな視線を苦笑で受け止め、小十郎は溜め息を吐く。
「何処が掠り傷だ。大怪我じゃねぇか、馬鹿野郎。」
俺に嘘が通用すると思ってんのか?と低い声で言われて佐助はふう、と息を吐いた。
「だってさ〜恰好悪いじゃん。アンタに心配かけるってわかってるし、…だからあんまり言いたくなかったの!わかる?」
「テメェの都合なんざ知るか。俺の前で強がるんじゃねぇって何回言やぁ覚えるんだ。」
俺にくらい頼れ、と優しい声で言うと佐助の橙色の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
佐助は照れ隠しに俯いてみたが、忍化粧のない頬は夜目にもわかるほど紅潮している。
そんな佐助を愛おしそうに眺めていた小十郎は草履を脱いで縁側に上がると佐助の左手を取り、立ち上がらせた。
「で?怪我は肩だけか?」
全て見透かす様な小十郎の視線が言外に嘘は通用しないと告げているのを感じ取った佐助は拗ねたよう唇を尖らせて俯いた。
「脇腹…右の。でも肩よりは軽傷だから、」
「そんな重傷の怪我人がこんな夜中に何やってんだ…」
大丈夫、と言いかけた佐助の声を遮って呆れたように言う小十郎は佐助の左腕を軽く引いてその華奢な体を自分の腕の中に納めた。
傷を庇うようにふわりと抱き込まれ、佐助はじわりと暖かいものが胸を満たしていくのを感じていた。
恰好が付かないとか、心配かけたくないから会いたくないというのは嘘ではなかったが、少しくらい顔が見たいと思ったからここまで来たのも否定できない事実だった。
佐助の鮮やかな橙色の髪に小十郎の唇が落ちる。
「良かった、」
「へ?」
「お前が生きて戻ってくれて、本当によかった。」
城に戻ったときに幸村に言われたのと同じ言葉を心底安心したとでも言うような声で告げる小十郎の背中に、自由の利く左手を回して生きてるよ、と篭った声で応える。
幸村に言われたときには感じなかった生きているという実感が佐助の心を掴んで揺さぶる。
普段、死んでも良いとすら思っている佐助が心から生きていて良かったと思える場所がこの腕の中にはあった。
暫く抱き合っていたが、小十郎が静かに体を離す。
物足りないとでも言いたげな視線を向ける佐助を宥めるように軽く唇を合わせ、小十郎は佐助の手を引いて佐助が来た方へと歩いて行く。
「どこ行くのつもり?」
「お前が居たとこだ。こんな怪我してんだから今日くらいは部屋で寝かせて貰ってんじゃねぇのか?」
普通、忍は部屋を持たない。だが、佐助は幸村の配慮(と言うか弁丸の我が儘だが)でこの城に来てからずっとあの部屋を使っている。
「いや、俺様自分の部屋あるし。ってゆーか、いいの?」
手を引かれながら佐助はその広い背中にふと湧いた疑問を投げる。
小十郎は解っていないのか、何がだとでも言いたげな視線を肩越しに寄越した。
佐助はやれやれと小さく溜め息を吐いて言葉を継いだ。
「竜の旦那だって。見張りしてたんじゃないの?」
ああ、と納得したように小十郎は声を上げると、いいんだと続けた。
「お前のことが気になって眠れなかったからあそこに居ただけた。」
隣は真田の部屋だろう?と何でもないことの様にさらりと言う小十郎に言われた佐助の方が照れてしまう。
押し黙った佐助に、戻ったら一番に様子を見に来るのは真田のところだと思ってな、と小十郎は続けた。
「それ、…反則でしょ…。」
小十郎には届かない小声で佐助は呟く。
当の小十郎は廊下の分岐で立ち止まりどっちだ?と佐助を振り返る。
左、とだけ答えた佐助は恥ずかしいやら嬉しいやらで俯けた顔を上げられずに、問われる度に右、左、と答えるだけだった。
小十郎に手を引かれながら城の奥まったところにある自室に辿り着くと、抜け出したままにしてあったはずの褥は綺麗に整えられており、枕元には新しい着流しとさらしが用意されていた。
出来た部下を持ったもんだ、と感嘆の溜め息を漏らすと、同じことを考えていたらしい小十郎がそれを言葉にした。
「ま、俺様の教育の賜物なんだけど。…なーんちゃって。」
本当はもう倒れ込んでしまいたいところだが、この居心地のいい空気を壊したくなくて軽口を叩くと、障子を閉めた小十郎が眉を顰める。
「顔が笑えてねぇんだよ…さらし代えてやるから脱げ。」
「自分でやるから大丈夫だってば」
心配性な小十郎に傷を見せたくない。そう思って拒否の言葉を口にするが、小十郎は褥の脇に突っ立ったままの佐助ににじり寄るとその細い手首を掴む。
左利きの小十郎がわざわざ右手を出してくる辺り、既に気を使わせているのだなと思うと心臓がずくりと痛んだ。
「右手動かすのも辛いんだろ?」
いいから脱げ、と言う静かな声と共に帯に小十郎の男らしい骨張った指がかかる。
なんでもお見通しってわけか、と胸の内で呟いて佐助は解放された左手で腰の辺りに忍ばせてあったクナイを取り出す。
それを見た小十郎は眉間のシワを深くして溜め息わ吐いた。
「テメェはそんな躯でまだ戦う気だったのかよ…」
「当ったり前でしょ?俺様これでも忍よ?」
例え刺し違えてもこの城と主は守らなきゃ。
何言ってんのさ、とでも言うように小十郎を見上げる瞳には先までの甘えた色はなく、静かな闇を湛えた忍の目に戻ってしまっていた。
左手のクナイをギリ、と握り絞める指が白さを増すのを視界の端に捉え、それを少し苛立たしく思いながら小十郎は佐助の帯を解いていく。
床に落ちていく帯の上にクナイを放り投げて、佐助は大人しく小十郎にされるがままになっている。
帯が床に落ち、佐助の着流しの袷が肌蹴る。
何度見てもその艶かしさに目を奪われる白く透き通った肌が現れる。
その女子のような華奢な躯に残る白く引き攣れた傷痕が辛うじて佐助が忍で在ることを主張する。
腹部と右肩に巻かれたさらしは赤黒く色を変え、先までよりも濃厚な血の匂いが鼻先を掠める。
少し乱れたそのさらしを解いていくと程なくしてぱかりと赤い肉を覗かせる傷が現れた。
その白と赤のコントラストにしばし目を奪われ、傷の深さを目の当たりにして、どちらに起因したのかはよくわからないまま息を呑む。
脇腹の傷もあらわにすると、痛々しさが増して小十郎は己が痛い訳でもないのにその眉尻を下げる。
それを認めた佐助は、だから嫌だったんだよね、と胸中で漏らし顔を俯けた。
小十郎は大きく裂けた肩の傷に指を伸ばし、その肌と傷の境目をなぞる。
痛み以外の感覚まで麻痺しているそこが、触れられる度に小さな痺れを伝え、熱を持ったそこがずくりと疼くのを感じて佐助は息を詰める。
「痛いか?」
それを痛みに堪えるためととった小十郎が心配そうな声で問うのに佐助は首を横に振ることで応える。
じくじくと痺れるような感覚の中に鈍い痛みが混ざり、それが熱となって佐助の背中を降下する。
小十郎は一歩佐助との距離を詰め、その肩口に刻まれた傷に舌を這わせた。
ぴり、と鋭い痛みが佐助の首筋を走り、佐助の肌が粟立つ。
「こ、じゅうろ、…さん、」
自由の利く左手で目の前に立つ男の着流しを掴む。
痛みなのか悦楽なのかわからない何かが体中を巡って佐助の膝ががくがくと震える。
傷を庇うように左脇に差し込まれた小十郎の腕が力の抜けはじめた佐助の躯をしっかりと支える。
ぴりぴりした痛みが明確な疼きに変わり、佐助の口からは艶を含んだ吐息が漏れた。
それに気付いた小十郎は意地悪く唇の端を吊り上げ、佐助の耳元で低い声を出した。
「痛い方が好きだったか…?」
後を引く吐息が佐助の耳朶を擽り、佐助はぴくりと肩を竦ませながらその鮮やかな髪をぱさぱさと躍らせながら首を横に振った。
小十郎は左手は佐助を支えたまま右手でその細い顎を掬い、その唇を貪った。
躯を強張らせ、きつく目を閉じて口付けを甘受する佐助をこのまま押し倒して目茶苦茶にしてやりたい衝動が腹の内で頭を擡げるのを押し殺し、名残惜し気な音を響かせて唇を離す。
さっきまでよりもいくらか血色の良くなった佐助の頬を撫で、愛おしさを隠さない瞳で息を整える佐助を映す。
無理をさせたか、と苦笑を零すと少し潤んだ瞳がキッと小十郎を睨み付ける。
「あのねぇ…俺様、怪我人なんですけど!」
抗議の声を上げる佐助の頭を宥めるようにぽんぽんと撫でて、小十郎は自分に体重を預けている佐助を傷に響かないようにそっと床に座らせて、さらしと一緒に置かれている軟膏に手を伸ばす。
軟膏を指に取り、脇腹の傷に容赦なく塗り込んだ。
「イッ…、た…っ!」
「この傷だ、痛ェに決まってんだろ。ちょっと我慢しろ。」
思わず声を上げた佐助をちらりと一瞥して小十郎はにべもなく我慢を強いる。
佐助は鬼畜、と呟いて声を上げてしまわないように奥歯を噛み締めた。
ギリ、と歯軋りの音が静か過ぎる部屋に響く。
脇腹の次は肩、と小十郎はなるべく早く痛みが去るように手際よく薬を塗っていく。
佐助もそれを察して、固く目を閉じて、握った左の掌に爪を立てる。
「……ッは、」
漸く薬を塗り終わり、佐助が荒い呼吸を吐き出す。
床に落としたままになっていたさらしで薬の付いた指を拭うと、小十郎は佐助の額にかかる髪を退けてその額に浮いた脂汗を優しく拭う。
未だ鋭さを残す痛みの波に佐助は短くせわしない呼吸を続けている。
閉じたままの薄い瞼を撫で、そのまま背中を摩ってやると徐々に長い呼吸へと変わっていった。
「落ち着いたか?」
「まぁ、それなりには。」
そう応える佐助の頭を撫でて、小十郎はさらしを取る。
立てるか?と佐助を振り返ればよろよろと畳に手を突いて佐助は壁際まで四つん這いで移動し、壁に左肩を凭させるようにして立ち上がった。
佐助と向かい合う様にして立ち、腰から上に向かってからしを巻いていく。
「少しきつめに巻くぞ」
「え…」
小十郎の言葉に訪れるであろう痛みを想像した佐助の表情が強張る。
それを見ないようにしながら小十郎は続けた。
「傷痕が残ったら困るだろうが。」
「いや、俺様は別に構わないんですけどー」
ってか、どっちにしろこれは残るでしょ、と思うがどうせ我慢しろとか言われるんだろうしと考えて佐助は観念した。
「テメェはよくても、俺が、構うんだ、よっ!」
ぎゅ、ぎゅと巻かれていくさらしに締め付けられて傷が痛んだが、小十郎の言葉に思わず上がりそうになった悲鳴も引っ込んでしまった。
「テメェは俺のもんだ。他のやつにこれ以上傷付けさせんじゃねぇ」
「以後気をつけます。って、それはアンタもだからね。」
さらしを巻き終えて佐助に着流しを羽織らせながら小十郎が言うと、佐助は面食らったような顔をしたがすぐに相好を崩した。
それを見て、小十郎はほっと胸を撫で下ろした。
「それはどうだかな。」
「うわ、俺様は駄目で自分はいいなんて不公平!」
「わーったから熱出る前にさっさと寝ろ。」
不満げに唇を尖らせてぶーたれる佐助に肩を貸し、褥にそっと寝かせる。
布団がわりの桂を被せて額に唇を落とせば佐助は黙った。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き交ぜて、部屋に戻ろうとする小十郎の着流しの裾を咄嗟に掴んだ佐助はバツが悪そうに視線を伏せた。
「なんだ?」
「別に…ありがとうって、言おうとしただけ。」
その割には解放されない裾に、小十郎の鋭い双眸が柔らかな弧を描く。
その場にすとんと座れば佐助の手が遠慮がちに小十郎の指先を握る。
白い褥に広がる髪を眺めながら、小十郎はわざとらしく溜め息を吐き、己の指先を握る薄い掌を搦め捕る。
「お前は俺を寝かせねぇつもりか?」
「一緒に寝ればいいでしょー?」
苦笑を浮かべながらも腰に提げたままだった脇差しを畳の上に並べる小十郎に佐助の表情が甘い色を帯びる。
それとも竜の旦那の方が大事ってこと?佐助が冗談交じりに揶揄すると小十郎は違ぇよと声を上げ、困ったように眉を顰めた。
今まで小十郎は佐助が寝ているところを見たことがなかった。
気を失うほど激しく抱いてやっても気が付くと必ず起きていて、たいてい小十郎の寝顔を覗き込んでいる。
その理由が佐助が忍で在るが故に人の気配に敏感で落ち着いて眠れないからだと言うことくらい解っていた。
それが少し寂しいと思うこともあったが、眠ることを強制したところで己が虚しくなるだけだと言うことも小十郎は理解していた。
「俺が居て眠れんのかよ?」
「へ…?あー……」
佐助は天井に視線を泳がせ、うーんと唸る。
やっぱりな、と小十郎が立ち上がろうとすると、佐助が絡ませた指に力を入れた。
「眠れるとか眠れないとかはどうでもいいのよ、正直。ただ、小十郎さんに居てほしいだけなんだけどさ。」
だめかな?そう問い掛ける佐助は不安と媚びが入り交じった視線を小十郎に向ける。
「…………。」
「ちゃんと寝る努力は一応するから…だから、」
段々と泣き出しそうに歪む表情に、小十郎ははあ、とわざとらしい溜め息を吐いて畳に寝そべった。
「居てやるからさっさと寝ろ。」
小十郎の言葉に佐助の表情が明るくなる。
「ありがとう。」
そう一言満面の笑みと共に返すと、佐助はおやすみなさい、と言って先の言葉通りに目を閉じた。
小十郎はいつもより冷たいその頬を撫でておやすみと呟いた。
暫く気配を消すように息を潜めていた小十郎の耳に佐助の深い呼吸音が届いた。
少し体を起こして佐助を覗き込んでみるが、本当に眠っているらしくぴくりとも動かない。
あれだけの怪我をおして動き回っていたのだから当然と言えば当然か、と考えて小十郎はほっと溜め息を吐く。
初めて見る佐助の寝顔は年相応にあどけなく、いつもより幼く見えた。
安堵とも苦笑とも取れる表情を浮かべた小十郎は音を立てないようにもう一度畳に寝そべって暗い天井を見上げる。
佐助を守りたいと言えば、佐助は悲しそうに笑うのだろうけれど、せめて自分の隣に居るときくらいは安らげる場所であってやりたい。
無茶ばかりする死にたがりの佐助が繋ぎ止められている理由が自分であればいいと思う。
いつか必ず敵対するときがくるだろう。
傷付き、疲れ果てても主のために戦うことを辞めないであろう佐助が容易に想像できて小十郎はいたたまれない気分になる。
もし本当にそんな日が来たら、戦場の隅々まで探し回ってでもその運命から解き放ってやろうと心に決めて、ゆらゆらと取り留めもなく彷う思考を手放した。
End
朝、幸村と政宗に見つかってからかわれればいいんじゃないかな!