- 人間が守れるものなんてせいぜい一つくらいで、それを選ぶ基準は所詮自分への利害関係でしかないな、と忍は武器を片付けながら思った。
腕に擦った傷がそれを否定するようにピリピリと痛む。
具足が踏む畳がぐにゃりと歪む。
ぴしゃりと小さな水音を立てて忍は足元に広がる血の海に片膝をついた。
目の前に折り重なるように横たわる二つの躰の首筋にそっと触れる。
滑る血の感触が指先から伝わるだけで、時間を刻む拍動は感じられない。
二人が完全に息絶えたことを知り、忍は喉奥に込み上げる吐き気を深呼吸で紛らわせた。
いつでも終わる覚悟だけは忘れずにいた。
甘受する情に、与えられる心地よい快感にほだされ、流されそうになろうとも、いつ訪れるか知れない終焉への覚悟だけが忍を忍たらしめ続けた。
何が正しく、何が間違いかなど誰にもわからない。
ただ、忍はこうすることでしか主を守れなかったというだけで。
愛した人を斬る痛みなどあの無垢な瞳は知らなくていい。
未来永劫降り止むことのない痛みは己がすべて引き受けると、そう遠い過去に誓ったから。
(俺様はアンタを選べなかった。)
痛みは疼く傷となり、腐敗し、蛆を飼うだろう。
だから、生涯蛆が食む痛みに不様に身を捩るのは己だけでいいと。
そう決めて今日、この城に忍び込んだ。
信長亡き今、いつまでも同盟をくんでいる意味などないとの声は日に日に武田の内部で大きくなっていた。
このままでは同盟破棄、さらには伊達との戦は避けられない事態と成るだろう。
そうなったとき、己の主は決断を迫られ、結果痛みに身を晒し全ての憎しみ哀しみを受ける矢面に立つことになるだろうと言うのが忍の予想だった。
そうなる前に武田の仕業と知れないように主の情人である独眼竜を始末し、互いの軍に波風を立てぬように全ての痛みを自分が引き受ければいいのだと。
ただ思ったのだ。
そう、この暗殺は決して武田の意思ではない。
主を守ると決めた己が見せることのできる精一杯の忠誠なのだ。
(その忠誠は主に伝わることもなければ、誰かに知れることもないのだろうけれど)
(これが俺様の仕業だと知るものは、俺様以外には、もう、いない。)
右目への愛がなかったわけではない。
ただ、どちらかを選ばなくてはならず、考えたときに生涯を共にできるのは主であったというだけの話で。
己に被る現実的な被害はこうすることで最小限に抑えられると、そう思っただけだった。
想いなどと目に見えない何かの価値を計ることができる程、忍は知的でなく、夢見がちに生きて来たわけでもなかった。
計れぬものは切り捨てるまでと、想いを断ち切るように二人に刃を向け、己に課した任務をただ遂行することだけに集中し、そして、二人の暗殺に成功したという、ただそれだけで。
二人が憎かったわけでも、誰かに強要されたわけでもない。
それだけを繰り返し胸中に呟く。
これは己の決断。
痛む胸や、襲い来る後悔や無気力も全て、己のせい。
「ごめんね。俺様は、俺様が一番可愛いんだ。」
「飼い犬に手を噛まれたと思って、暫くそっちで地団駄踏んでなよ。」
「俺様がそっちに逝ったら、何度だって殺されてあげるから。」
「それまで、俺様のこと、待っててよ。」
こうすると決めたのは己であったと言うのに、まだ未練がましくこの男に待てなどと縋るとは、そう考えて忍は酷薄に笑う。
自嘲と寂寥がただ胸を駆けるのを感じながら、開け放たれた障子から吹き込む風が桜の花びらを血の海に浮かべるのを冷えた目で見つめていた。
「さよなら。また、ね。」
小さな呟きだけを残し、忍は桜の花びらに紛れて掻き消えた。
End
佐助は幸村を、こじゅは政宗を選ぶだろうという予想。
/20100730 加筆修正
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