- ※『六月の幸福』から続きます。
政宗は蝋燭の火がゆらりと揺れる自室で幸村からの文を眺めていた。決してうまいとは言えない文字が並ぶその紙には所々滲んだ跡があって、この文を泣きながら書く幸村の様子が安易に想像できた。
信玄からの文には同盟破棄の文字が踊っていた。
幸村との戦いを避けたいのなら、武田の臣下に下り、今まで通り仲間として戦う道もある。けれど、それは己の武将としてのプライドと家臣や民たちが許さなかった。
同盟破棄を飲めば明日からは敵同士。何処かで出会えばそのときはお互いを殺し合うことになる。
幸村の文には、どうか『伊達政宗』としてではなく『独眼竜』としてのご決断を、としたためられていた。
はあ、と溜め息を吐いて政宗は机の上に幸村からの手紙を放り投げた。奥州を治める一国の主としての返事は当然「刺し違えてでも天下を獲る」に決まっている。それを見越してのこの幸村の文でもある。
しかし、その決断を鈍らせるただの男としての気持ちもまた、同じところでせめぎあっているのも事実だった。
(その気持ちのせいにして天下獲りを諦めるつもりはさらさらないのだけど、武田軍と戦うとき、自分は幸村と本気で戦えるのだろうか。)
武田を攻めるだけの決断を下せない自分に苛立ちを隠せずに舌打ちをして政宗はひやりとした畳に寝そべった。
今になって佐助の言った『決めなきゃいけない覚悟』の意味を理解して、どこにもぶつけようのない苛立ちを佐助のせいにしようとして天井を睨みつける。
幸村の深紅の瞳が過ぎる。柔らかな明るい鳶色の髪も、見かけより筋肉質な骨の細い躯も。全てが愛おしかった。
小十郎とは違う、真っ直ぐな愛情が嬉しくて、それを受け止められる幸せが政宗を満たしていた。惜しみない愛情を注ぐ喜びは何物にも代えがたく、それが容易に手に入れられるものではないことも解っていた。
だからこそ、手放すことが出来なかった。ずっとこのまま自分の腕に捕らえておきたいと願っていた。
そう考えて、政宗は目を閉じた。
そのとき月明かりが透かした障子に人影が映る。それとほぼ同時に外から声がかかる。
「政宗様。」
案の定それは、口うるさい自分の右目のもので、政宗はふと首を傾げる。何をしに来たのか。褥は既に用意されているし、武田とのことについては明日の朝から話すと言ってさっき別れたばかりである。
まさか、まだ同盟を破棄していないこの状況で真田の忍や武田の手の者が政宗を暗殺しにくるとは思えない。
(だいたい、武田はそんな手を使う程堕ちてねーしな)
考えてもしかたないか、と政宗は小さく溜め息を吐いた。
「入れよ。」
外で控えている小十郎に声をかけると静かに障子が開いた。小十郎は徳利が載った盆を持って部屋に入ってくると、そのまま障子を開け放した。
いつもの右目としての顔ではなく、政宗が幼い頃から知っている人好きする笑顔を向けて盆の上の猪口を政宗に差し出した小十郎に、政宗はあきれたように声を上げる。
「Ha!こんな時に酒盛りしようってか?」
「ええ、今だからできる小十郎の話でも肴に、一献いかがですか?」
それでも差し出された猪口を断るでもなく、受け取った猪口に日本酒を注がれる政宗の顔は先ほどとは違って柔らかい表情に変わる。
もう十年近く自分に仕える右目の気遣いを無碍にすることはしない。だが、小十郎の言葉に少し引っかかりを覚えて政宗は小十郎に問う。
「今だからできる話?」
「ええ、今まで誰にも話さなかったことです。主である、あなたにも。」
小十郎は自分の分の猪口を盆から取ると手酌でその中を日本酒で満たしていく。いつもの小十郎とは少し違う雰囲気に眉を顰めながら政宗は注がれた日本酒をなめる。
「そりゃあ、興味深いねえ。」
「たいした話ではありませんよ。」
そう笑って、小十郎は期待は禁物、と空に浮かぶ月を見上げた。
「Ha、焦らすんじゃねえよ。聞いてやるから早く話せ。」
そうですね、と言って小十郎も日本酒に口を付けた。
「実は、小十郎にも恋仲の者が居るのです。」
「Ha!そりゃ確かに初耳だ。で、相手はどこの誰だ?遊郭の女だとか言うなよ?」
政宗はちゃかすように言って小十郎を見たが、小十郎はそれにのることもなく、ただ眉間に深く皺を寄せて闇色の空を見ていた。憂いを滲ませるその横顔に、こりゃなんだか真剣な話だな、と悟った政宗はちゃかすことをやめて小十郎が見ている空に視線を向けた。
「相手は、…猿飛です。」
「っな…!」
酒に口を付けようとしていた政宗は思わず吹き出しそうになって、小十郎を振り返る。当の小十郎は慌てた様子もなく先と同じ体勢で酒を口へ運ぶ。
「そんなの、全然気付かなかったぜ…」
「そうでしょうな。やつは忍。ばれぬように細工するなど容易いことですから。」
小十郎はからからと笑ってまた酒を舐めた。
「で、その話を今俺にしてどうしようって言うんだ?武田との同盟を継続させろってか?」
ハン、と鼻で笑って政宗は猪口に残っていた酒を一気に煽った。
「そうではありません。小十郎は、何があろうとも政宗様のお背中をお守りいたします、とお伝えしたかったのです。」
「それは、…あの真田の忍を殺すことになってもか?」
「もちろんです。その覚悟は、向こうにもあるでしょうからな。」
先の佐助の眼を見ればわかります、と告げる小十郎は、政宗の知らない小十郎だった。
普段は猿飛、と呼ぶその名を愛おしそうに佐助と呼び、諦めたような悲しい色を瞳に秘めた小十郎を、政宗は知らなかった。
「政宗様は、真田幸村を踏み台にしてまで天下を獲りたくないとお考えか?」
「…その気持ちが、ないと言えば嘘になる。」
でもな、と続けて政宗は手酌で酒を注ぐ。
「きっと、幸村もお前や猿と同じように覚悟を決めちまってると思う。」
そう言って政宗は先ほど放り出した幸村からの文を小十郎に手渡した。視線だけで読めと告げて、煌々と庭を照らす月を見上げた。
小十郎は失礼いたす、と言って文を開いた。
『拝啓 伊達政宗殿
この文とともに届けられたお館様からの文はもう既に見られた後と思う。
某は政宗殿を敵として首を取ろうなどと考えたことはなかった。
しかし、某は武田の将でござる。
今まで世話になったお館様への恩を徒で返す訳にもいかぬ。
某は武田の将として、政宗殿と刃を交えたいと思う。
政宗殿から賜った睦言も、愛情も決して徒にできる物ではないとわかってはいるが、これは互いに武士として生まれたときから持ったさだめ。
お館様の為なれば、某は貴殿にも刃を向けようと思うでござる。
某との関係はなかったことにしてくださっても構わぬ。
なにとぞ政宗殿としてではなく、奥羽を統べる独眼竜としてのご決断を賜りたい。
某は、政宗殿に愛されて幸せだったでござる。
政宗殿を愛することができて幸せだったでござる。
本当は、もう一度恋仲の二人のまま逢いたかったがそれもかなわぬこと。
次は戦場で相見え、刃を交えましょうぞ。
この真田幸村、たとえ政宗殿とて容赦はいたしませぬ。
刺し違えたとてその御首頂戴致す。
真田幸村』
所々滲んでいるのは涙のせいか。それが幸村の物なのか、自分の主の物なのかは小十郎にはわからなかった。
小十郎は最後まで読むとその文を元通りに畳んで政宗に返した。
突き放そうとしても突き放しきれない幸村の優しさが滲んだ文章だった。
いまの小十郎には、この幸村の気持ちが痛いほどにわかった。
愛するものをこの手に掛けなくてはいけない事実と、愛するものだからこそ穏やかに添い遂げたいと心底願ってしまう己の欲求が狂おしいほどに攻めぎ合う心中が。その攻めぎ合いの結果、終わらせるなら自らの手で終わらせたいという己の傲慢にも近い悲痛な願いが。
目の前に静かに座す独眼竜の背中を守るという使命よりも、佐助を、愛するものを自分の手で終わらせるということの方が遥かに大きな目的となっているのを小十郎は感じていたが、それは敢えて口には出さない。
政宗は返されたそれを畳の上において小十郎を振り返った。
「この決意を踏みにじることもできない。でも、この気持ちをなかったことにもできない。」
「政宗様…」
畳に猪口を置いて膝を抱えた政宗は酷く子供っぽくて、小十郎は自然にその鳶色の髪を撫でた。
もうどうすりゃいいかわかんねーよ、と膝に鼻先を埋める姿は、まだ彼が梵天丸と呼ばれていたときと何ら変わらなくて小十郎はふっと息だけで笑った。
「戦場で、幸村を前にして刃を向けられる自信がねぇ。もう何かを失うなんて、ごめんだ。」
政宗は自分の両の手を見詰めて呻くように言った。
今まで幾百という人間を殺めてきたこの汚れた手で、名前も知らない誰かと同じ様に幸村に最期を与えることができるのか。何より、目の前で幸村が最期を迎えるのを見ていられるのだろうか。
自分が死ぬことなんてとうの昔、まだ元服もせぬ頃から覚悟は出来ている。でも、今何よりも失いたくないものの最期を看取るだけの、自分がその最期を与えるというだけの覚悟が、政宗にはまだできなかった。
かといって負け戦に興じるほど政宗とて馬鹿でもなければ武士としての矜持がないわけでもない。
小十郎はそんな政宗の気持ちにも気付いていた。
政宗には、他の三人にはない決定権がある。言い換えればそれは逃げることが出来るということだった。
逃げ道を自分で用意することのできない三人はただ、悔しさも切なさも悲しみも、その愛情出さえも押し殺して覚悟を決める以外に成す術がなかったから、(政宗に比べて)あっさりと覚悟を決めただけという話で。
小十郎は全ての覚悟を無駄にしないためにも残酷だと知りながら政宗の退路を断った。
「それなら、真田幸村の言うように独眼竜としてお決めになれば良いのです。独眼竜に迷いなどありますまい。」
「…それもそうだな」
政宗はしばらく考えた後、笑って床に置いた猪口を手に取り、小十郎に差し出した。小十郎は静かに笑うと徳利に残っていた酒をその猪口へと注いだ。
その酒を一息に飲み干して、政宗は立ち上がった。
「小十郎!武田と戦だ!!」
その瞳にはもうさっきまでの迷いはなくいつもの鋭い眼光が天高く昇っている月を射抜いていた。
「上等だ、真田幸村。その首俺が掻ッ切ってやるぜ。」
呟いたその隻眼に、小十郎と同じ悲しみの色が秘められていたことには誰も気付かなかった。
『拝啓 真田幸村
お前からの果たし状、確かに受け取った。
この奥州筆頭伊達政宗、そう易々と天下を武田には渡さねえ。
独眼竜はダテじゃねえんだ。
お前とのあの時間をなかったことにはしない。
俺は確かにお前を愛し、お前に愛された。
戦場で逢ったときには俺がお前を殺してやる。
だから、生きて俺のところまでこい。
伊達政宗』
短く文をしたため、政宗は佐助にそれを手渡した。
その文を受け取った幸村が泣くのは、また別の話。
End
なんてゆうか、これってこじゅたんののろけだよね。