六月の幸福
武田軍からの密書を携えて、佐助は米沢城の門扉を叩いた。出迎えてくれる伊達の従者たちはにこやかに自分を迎え入れてくれる。
それに幾許か胸が痛むような気がするのはこの密書の内容を自分が知っているせいだろうか。
それとも、もっと個人的なモノが自分の押し込めた気持ちを揺さぶるからだろうか。
通された政宗の部屋の畳に膝を付きながら、佐助は考えた。
「真田幸村のとこの忍じゃねーか。どうしたんだ?」
「大将からの密書を預かって来た。」
「武田のおっさんから?」
「…ああ。真田の旦那からのもだ。」
懐から二通の手紙を出して畳に並べる。政宗は佐助の畏まった様子に少し面食らっているようだった。
後ろに控えていた小十郎が畳の上の手紙を政宗に手渡す。封を切ろうとする政宗の指先を見ながら、自分が居る間は開けないでほしいと少しだけ願ってしまう自分が居て、佐助は小さく小さく溜め息を吐いた。
(此処で死ぬ覚悟もして来たってのに……俺様ってば何ビビっちゃってんの。)
信玄からの手紙に目を通した政宗の切れ長な隻眼が見開かれて、紙を掴むその指が小さく震えた。その後ろで小十郎が睨みつけるように佐助を見ている。
(竜の旦那がそんな顔をするのは俺様のせいじゃないってのに、)
ぎり、と政宗はその薄い唇をかんだ。
「返事は明後日の夕刻、俺様が直接聞きにくるよ。…竜の旦那も、色々と決めなきゃいけない覚悟が、あるだろうからね。」
じゃあね、と言って佐助は開け放されていた障子から飛び降りた。


真田忍隊の隊長である佐助も、当然あの密書の内容は知っている。織田信長討伐にあたって結んだ同盟の破棄だ。
皆が天下獲りに必死なこのご時に、いつまでも同盟を結んでいる理由はない。だから同盟を破棄するのだということも十分に理解はしている。けれど、あまりに残酷だ、と佐助は思った。ちょうど足が付いた枝の上に座り込む。
密書を読んだ政宗の反応も、信玄から同盟破棄を言い渡されたときの幸村の顔も見ているこちらが辛くなるようなものだった。
幸村と政宗が恋仲であることなど周知の事実であったし、それはもちろん信玄の耳にも入っていたはずだ。それでも同盟破棄を決めた信玄の心中は如何程であったのだろう。
息子のように可愛がっている幸村の恋情を引き裂くことになってしまった自分を、どう思っているのだろう。そう考えると、佐助も否とは言えなかった。
(まっ、一介の忍である俺様が口を出せるような問題でもないんだけどねー。)
米沢に発つ前に呼ばれた幸村の部屋で、神妙な顔をしながら幸村が差し出したあの手紙には何が書かれていたのだろう。あの忠義に篤い幸村のことだから、必死の思いで書いた絶縁状でも入っていたのかな、と考えながら青すぎる空を見上げた。
(みーんな、幸せになりたいだけだってのに、この世界はどうしてこんなにも不器用なんだろうね。)
(ま、俺様は真田の旦那の忍だから、旦那の決めたことに従うしかないんだけどさ。)
見上げた空が眩しかったので、佐助は立ち上がってまた上田城を目指した。



「失礼します、お館様」
「おお、佐助か。」
障子を開けて信玄の前に膝を付く。
「ただ今戻りました。」
「うむ、ご苦労であったな。して、独眼竜はなんと?」
「わかりません。ただ、…少なからず戸惑ってはいるようでした」
「そうか…それも仕方あるまい。今日はもう休むがいい、と言ってやりたいところだが」
軽く報告を終えたところで、信玄が難しい顔をして足下を見つめた。
「お館様?」
「ちぃとばかし幸村の元気がなくてのう」
「そりゃ、」
そうですよ、と言いかけて佐助は視線を床に伏せた。
幸村が落ち込んでいるように、今頃政宗も荒れているのだろうな、と思ったら眉間の皺を深くした小十郎が簡単に想像できる。
自分が二人のようにならなくて済むのは自分が忍だからなんだろうか、とその場にはそぐわないことを考えている佐助に信玄が声をかける。
「大方、独眼竜とのことだとは思うが…佐助よ、」
「はい?」
「幸村は儂を憎むだろうか」
ふと遠い目をして信玄が呟く。
「旦那は、わかっていると思いますよ。あれでも、武田の将なんですから」
そう、自分が真田の忍であることを理由に、全てを諦めているのと同じで。
(いつか、こんな日が来るってわかってた。それでも、彼にこの想いを委ねてしまった俺の落ち度なんだから、落ち込むなんておこがましいとさえ思う。)
「儂はな、佐助。別に幸村が謀反を考えても良いと思うのだ。…決して幸村を信用していない訳ではない。だが、幸村がそう決めたのなら、あやつは儂の首を取って独眼竜の臣下に下れば良い、そう思っておる。」
「…お館様」
「うまく回らぬものよのう」
そう呟いた信玄の目には憂いが溢れていた。二人を引き裂くことになった自分への憂いなのか、うまく回らぬ世の中への憂いなのかは佐助には判断できなかった。
しかし、信玄もまた、この状況に心を痛めている一人に変わりないということだけはわかった。
「団子でも作ってご機嫌取りしておきますから、お館様はもうお休みになってください。」
「うむ、そうするかの。」
そう言って立ち上がった信玄は障子を開けて、自分の背中を見送る佐助を振り返った。
「何があっても、幸村を頼むぞ、佐助。」
「…御意に」
呟いて天井裏へ上がる。なんだか心の柔らかい部分を鷲掴みにされたような気分だった。
それがなんという感情なのか、佐助にはわからなかったが、少なくとも誰にも伝えることをしなかった己の人間の部分が痛んでいることだけはわかる。
最後の言葉はきっと、暗に幸村が謀反を考えたときは付いてゆけということを伝えていたからかもしれない。



信玄、政宗、幸村のそれぞれに想いがあるように、佐助にも当然それはあった。
誰にも知られることなく慕い続けていた人が、佐助にもいた。竜の右目と名高い伊達の知将・片倉小十郎影綱その人だ。
夜中に忍んで逢いにいったことも、主の目を盗んで抱擁を交わしたこともある。そんな人を敵に回さなくてはならなくなってしまった。
今日来るか、明日来るかと思い続け不安に苛まれる日がとうとう終わりを告げたのだと思えば悲しみより安堵の方が大きかった。
それに、こうなってしまっては仕方がない、と言う諦めもあった。
先ほどの信玄の言葉のように、幸村が謀反を企てることはまずないだろう。それならば、
(俺様が、小十郎さんを仕留めるまで、だよ)
(刺し違えたとしても、きっと俺は幸せ、だから。)
落ち込む幸村を見ていると、自分は所詮忍なのだな、と思う。
自分も幸村達のように悲しみや悔しさをあらわにすることができればもう少し可愛いげがあるんだろうけれど、長年に渡って押し殺してきた感情たちはそう簡単に表面に現れることはなかった。
小十郎と恋仲になってから、人間に戻っていく自分に恐れを抱いていたが、こうなった今の自分を見ていると、所詮、自分は忍なのだと思う。
悲しくも、苦しくもない。
そんな感情はとうの昔に捨て去って来た。
(それは佐助自身が気付くことのない心の奥深くにあるだけで、なくなってしまったわけではないことに佐助は気付かない。)
それでも、胸の奥に蟠る靄が晴れることはなかったのだけれど。















約束の日、佐助は米沢城の政宗の部屋に居た。
あの日と同じように佐助と向き合う政宗の後ろに小十郎が控えている。
「さあ、どうするんだい?竜の旦那。」
「天下は俺のもんだ、望むところだと伝えておけ。」
「りょーかい。じゃあ俺様は甲斐に戻るよ」
政宗はいつもより覇気のない声で返事を告げる。
それを、やっぱりこの運命は避けることができなかったか、と佐助は畳の目を見つめながら聞いた。顔を上げて小十郎の顔を見る勇気は出なかった。
「ちょっと待てよ、真田の忍。」
「なに?」
立ち上がろうとした佐助を政宗が呼び止めた。
政宗は困ったような目で佐助を見ながら言葉を継いだ。


「今日は同盟最後の日だ。武田の代表としてもてなされて帰れよ。」


想像もしなかった政宗の言葉に佐助は顔を上げる。後ろに控えている小十郎の目が、行くなと言っていた。
どういうことかわからない、と言うように政宗と小十郎の顔を交互に見る佐助を見て、政宗はぷっと吹き出した。
「お前と小十郎のことは昨日聞いた。俺と幸村は互いを惜しむ間もねえ。だから、せめてお前らは…悔いのねぇようにな。」
そう言った政宗の隻眼が優しく佐助を見る。
その目の奥に宿る悲しみから佐助は目を逸らせなかった。





もてなし、と言っても夕餉を小十郎と共にし、一晩泊まっていくだけだった。けれど、これが最高のもてなしだと政宗はわかっていたのだろう。
今生の別れになるかもしれない二人への、ささやかな餞だった。本当は、自分だって幸村とそうしたかっただろうに、そう思うとまた心の奥がじん、と痛くなった。


「どうして、」
「ん?」
小十郎の着流しが肌蹴た胸元に背中を預けて月を眺めながら佐助は言った。
「どうして竜の旦那に言っちゃったの?」
せっかく隠してたのに。そう呟いて唇を尖らせた佐助の橙の髪を撫でながら小十郎はふっと笑った。
「これじゃあ、政宗様だけがお辛いことになってしまうからな」
「小十郎さんは、辛くない訳?」
「そうじゃねぇよ。俺だってお前を敵に回すなんてしたくねぇ…だけどな」
生温い風に佐助の髪が靡く。
「誰かと、分かち合える方が辛さはましになる」
そう言う小十郎の声には色濃い悲しみが滲んだ。
体温の低い佐助白い手がゆらりと伸びて、小十郎の頬の傷を撫でた。その手を掴んで、小十郎は寂しそうに笑った。
「ほんとは、全部お前と分かち合いたいと、そう思っていたんだがな」
苦笑しながら月を見上げて言う小十郎の手に力が篭る。
主の前では絶対に見せない悲しみに暮れた顔を見れる事が嬉しいと佐助は思った。
でも、その悲しみを自分が取り除けない事が酷くもどかしかった。
しなだれかかっていた佐助が体を起こして膝立ちになって小十郎と向き合う。
「そんな顔しないでよ、小十郎さん」
へら、と何でもないことのように笑う。忍ではなくなった佐助のこの笑顔が小十郎は好きだった。小十郎はその細い腰を掴んで抱き寄せた。
薄い胸板に鼻先を埋めて、キツくキツく抱きしめる。
そんな小十郎の髪を梳きながら、佐助は天井を見上げた。
(俺に今出来ることは、あなたをその悲しみごと包み込んであげるくらいだから)



「俺はね、こうやって小十郎さんに抱きしめられて、触ってもらえて、言葉を交わしてもらえて。それだけで幸せなんだから」
「竜の旦那のせいでも、大将のせいでもない。俺たちはこうなるさだめだったんだよ。それでも俺は、幸せだった。」


言いながら、佐助は目頭が熱くなるのを感じていた。その涙が何故流れるものなのか、佐助自身良くわからなかった。
ゆっくりと言葉を紡ぐ佐助の細い手首を引いて、小十郎はその自分より小さな躰を抱きしめた。
佐助の背中が震えていることには気付かないフリをして、ただ抱きしめていた。
二人の間に言葉はなかったが、痛い程の静寂が悲しいさだめに翻弄される悲しい二人を優しく包んでいた。


「幸せだなんて言うな。辛いなら、辛いって言やあいい」
「そんな悲しい声で、幸せだなんて言うんじゃねぇよ」


小十郎の言葉に佐助の細い肩が揺れる。肌蹴た胸元を佐助の涙が鵐に濡らしていくのを感じながら、小十郎は呻くように言った。





「離したくねぇよ、佐助」






言葉もなくただ抱き合って日が昇る前に佐助は米沢城を発った。
引き止める小十郎に、『これ以上小十郎さんと一緒に居たら俺はもう忍に戻れなくなる』と告げて。



「次に逢うときは、敵同士だね。」
「ああ、容赦はしねえ」
「俺様も。」


赤い目元でそう不敵に笑って暗闇に解けていく忍を小十郎はずっと見送っていた。




END

こじゅさすっていうか、ほとんどが佐助視点のダテサナになったっていう。。
変態難しい…

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