五月の絶望
やめて、と叫ぶ女の声が耳の奥に響く。
兄上、と縋る指先が傷んだ板の間からゆらりと伸びて政宗の陣羽織の裾に絡み付く。
後退った背中に、ささくれた柱が当たり、政宗は頭を抱えてその場に叫び崩れ落ちた。
恐怖に本能から叫んだ声は、悲しい獣の咆哮に似た残響を残して廃寺の高い天井に霧散していった。


毒を飲んだせいでひりつく喉がぎゅうと収縮して政宗は瞬きを忘れた隻眼からだらしなく涙を流した。
城は今頃上を下への大騒ぎだろう。
伊達家の当主である政宗が実の母に毒を盛られ、その粛正として弟の小次郎を殺したのだから。
そう考えて政宗は唇を笑みに歪めた。





母への粛正?

違う。

右目があるというだけで無条件に母に愛された小次郎への醜い嫉妬だ。
母に拒絶されたあの日からずっと、殺してやりたいと思っていた。
そうすれば母に愛されるかも知れないなどと倒錯した幻想を抱きながら。

現実はいつだって政宗には厳しく、そして残酷だった。

盲目となった右目を抉り、若くして伊達の家督を継ぎ、愛する父を己の命で殺し、文武に秀でる奥州の覇者として名を馳せようとも、母に愛されることはなかった。
この右目さえなければ、母に愛されたのに。
何度そう思っただろう。
幸せな現在があったはずなのに。
ただ、優しく『藤次郎』と呼ばれたかっただけなのに。
そう考え、政宗は右目にかけた眼帯を引きちぎった。
ぶつりと厭に大きな音を立ててちぎれた眼帯を見つめる視界の端に鏡が映る。
広い本堂の入り口近くにしつらえられたその鏡に、右目のないぼろぼろの男がいた。
。 ずる、と衣擦れの音を響かせながら鏡に近づいた政宗は鏡の中の男に手を伸ばす。
右目に大きな刀傷を携え、憔悴しきった左頬に涙の跡が痛々しく残るその男は力なく政宗を見つめている。


「なぁ、どうすりゃよかったんだ?」


男に問うてみるが、男は虚ろな瞳で政宗を見つめたまま答えない。
誰でもいいから、明確な答えを教えてほしかった。
いつも、一国を統べる者としての覚悟と死んでしまえば全てが終わるのにという終焉への渇望が政宗の中でせめぎあい、その均衡を壊さぬ様にと思えば思うほど葛藤が政宗を苛んだ。


「なあ、アンタならどうした?…なぁ、答えろよ…」

「どうすれば良かったんだよ!なぁ!」

「教えてくれよ、…。何とか言えよ!」


力任せに振り下ろした拳は煤けた鏡を割った。
がしゃん、と湿気の籠もる本堂に硝子の割れる乾いた音が響いた。

乾いたはずの涙が頬を伝う。
もういっそ死んでしまおうか。
政宗の脳裏にそんな考えがよぎる。
それを許さない腹心はここにはいない。
ごくりと喉を鳴らして唾を呑み込み、足元に散らばった大きめの破片を手に取る。
割れた鏡には咎める男はもう映らなかった。










「オイタはいけませんねぇ…独眼竜」


握り締めた破片を首筋に押し付けた政宗の隻眼が突然の来訪者に見開かれる。
霧雨に煙る入り口で、一際輝く銀色の長髪をゆらして楽しそうに笑うその男はふらりと政宗との距離を詰めた。


「なんで、お前が…」
「フフ…私は貴男をいつだって見ているんですよ、独眼竜」


じりじりと詰まる距離に、政宗の膝が震え、知らず知らずのうちに後退る。
独眼竜とは名ばかりの、追い詰められた草食動物の様な政宗を光秀の捕食者の色をした瞳が見つめる。


「彼の独眼竜が帯刀もせずにこんなところを散歩とは…フフ…挙げ句自害ごっこですか…面白いものが見れましたねぇ…」

ククッと楽しそうに喉で笑った光秀はそれまでの緩慢な動作など嘘のように俊敏な動きで政宗を壁に押し付けた。
突然のことに瞠目した政宗の躰ががたがたと震えるのを認めて、光秀は不気味な笑顔を浮かべたまま政宗の鼻先に顔を近付ける。





「そんなに死にたいのなら、私が殺して差し上げますよ…フフフ」

硝子を握った儘の政宗の右手に、ひやりとした光秀の手が重なる。
手をきつく握られ、政宗の細い手首を鮮血が伝う。
肘からその血が床に落ちる音が鮮明に政宗の耳へ届き、背中を震えが走った。
少し肌蹴た着物の襟元に硝子が押し宛てられる。
鎖骨の中心に硝子が刺さり、ぷつりと紅の珠が浮かび上がるのを見た光秀は満足そうに目を細めた。
対する政宗は力なく壁に背を預け、光秀の白すぎる首筋を見ていた。



「この程度ではまだ死ねそうにありませんが…まだ死にたいですか?独眼竜」


突然銀色の細い瞳に見つめられ、政宗の肩が強ばる。
それを感じ取った光秀は硝子を押し宛てる手に力を込め、政宗の腕を伝う血液に舌を這わせた。
蛇のように厭に赤い舌がチラチラと闇に浮かび上がるのを政宗はぼんやりと眺めるだけで光秀の問いに答えなかった。


「さあ!死にたいのなら懇願して見せてください!」

アハハ、と高い声を上げて笑った光秀は、押し付けていた硝子を外し、グ、と首筋に押し宛てた。
硝子を伝った血液が政宗の手を濡らす。
滑るその感触に政宗は安堵を感じていた。
小次郎を斬った時には嫌悪さえ感じたそれに今感じる安堵の正体を考えるほどの余裕は政宗にはなかった。


「貴男を殺してあげられるのは、私だけですよ…さあ!縋りなさい、独眼竜。」

耳元で悪魔のような光秀の声が甘く囁く。
考えることを辞めた政宗は力なく降ろしていた左手で光秀の着物を握った。


「殺して、くれ…頼む……もう、アンタしか…」


縋る政宗を満足そうに眺めた光秀は高笑いの声を響かせ、政宗の肩に硝子を突き立てた。
肉を切る鈍い感触が政宗の掌に伝わり、先までとは比べものにならない程の痛みが政宗を襲う。
床に崩折れながら、なんとか繋ぎ止めた意識の片隅で光秀が笑っていた。






「貴男にはもう少し、楽しませて頂きますよ、独眼竜。私が厭きたらその時は一思いに殺して差し上げますから……それまではもう暫らく苦しんでください…フフフ、アハハ…」


気を失った政宗を冷たい瞳で見下ろし、そう告げて色をなくした唇を一方的に貪った光秀はその場を去った。



End

病み宗と変態習作。
変態難しい…

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