三月の水葬
元就は花緑青の着流しを風に翻しながら一人砂浜に佇んでいた。
つい先程大坂へと帰っていった豊臣の使者は『豊臣に下るか、安芸に散るか』となんの感情も籠らない冷たい声で告げた。
今の毛利の全兵力を以てしても豊臣の勢力、兵力に打ち勝つ事が出来るとは到底思えない。
元就の綿密で隙のない布陣や、相手の何手も先を読んで裏を掻く戦略を駆使したとてその結論には変わりない。
何しろ、向こうにも戦国随一と歌われる智将、竹中半兵衛がいるのだ。
知略でなら戦いを挑んだところで負ける気はしない。
しかし、扱える駒の数が圧倒的に違う。
それは展開できる布陣の数、戦略の数の差に直接的に影響する。
日本一と名高い毛利水軍と己に忠実な手駒たちを以てもその差を埋め、相手より優位に立つことは難しいだろう。
それは即ち、この戦は負け戦であり、己が愛して止まない美しき安芸の地を護るには豊臣に下るしかないということである。
天下を獲るという馬鹿げた野望はないにしろ、安芸の地を我が手で平定し、安穏の地としたいと願う元就にとってそれは、守り続けた衿持を捨てることに他ならない。
そして、そうなれば今まで同盟と言う枷で均衡を保っていた四国の長曾我部氏とも敵対することになる。
その同盟の為に己は勿論、数多の民が血の涙を流し、幾百と言う兵の命が散っていった。
その全てを無駄にすることが出来るほど元就は冷酷ではない。
今までに払った犠牲を想い、元就は細く折れそうなその指先を齧った。
ガリ、とこめかみを伝ってその振動が脳を揺らす。


豊臣に下る事によって失うのは何も武将としての衿持と今までの犠牲だけではない。
長曾我部との同盟によって育まれた長曾我部家当主との愛情も同盟の破棄に伴って失われるだろう。
元就にとって、一番失いたくないものの一つであるそれを、どうして諦められようか。
もう一度噛んだ短い爪が悲鳴を上げ鉄錆の薫りが鼻孔に纏わり着く。
痛むのは指先か、冷えきった心か。
もう一層、豊臣との負け戦に興じて、安芸の地に殉じてしまいたいとすら思う。
しかし、自分はこの安芸の地を、民を、毛利の家を背負う毛利の当主。
己の願望だけで豊臣との負け戦に興じるなど許されない。
あの男が、凍てついたこの心を溶かさなければ…
厳島から見る海の色をそのまま映したような花浅葱の隻眼を思い出した元就の心が切なく疼く。
徒党を組むことを嫌い、情を厭い、他人を寄せ付けずに生きてきた元就にとって元親は唯一人の人間であった。
疑うことしか識らなかった元就に、己以外にも信じるに値するものがあることを教え、惜しみない愛情に己を曝け出す心地好さを与えた元親を裏切ることになってしまうのが苦しかった。
毛利が豊臣に下ったからと言って、長曾我部が豊臣に下るとは思えない。
それどころか、元親なら豊臣に戦を仕掛け、元就を取り戻そうなどと無謀な策に出かねない。
そうなる前に別れを告げ、自分を諦めさせなくては己のせいで元親を無駄死にさせることになる。
今まで幾度となく吐き出した拒絶の言葉が、こんなにも重たく胸に滞ることなど、後にも先にもこれきりだろう。


足元に迫る波に足を踏み出すと裸足の足を引いていく波が洗う。
足首に感じる引力でこの瀬戸内の海の向こうの元親の処まで連れていってほしいと思ってしまう。
腰を折って、まだ少し冷たさの残る海水に指先を浸して潮の薫りに止めどない哀しみを散らす元就の切れ長の目に小さな海が浮かぶ。
ぽたりと睫毛から落ちたそれは、波間に紛れて海へと還っていった。





暫くそうしていたが、後ろから父上、と控えめな声を掛けられて元就の華奢な背が揺れる。
長男の隆元の声だった。何時までも戻らない元就を心配して様子を見に来たのだろう。
顔は俯けたまま背を伸ばし、なんだと返す。
「皆が心配しております。そろそろ戻りませんと…」
言いにくそうに隆元が哀惜を滲ませる元就の背中に告げる。
寄せる波の向こうに浮かび上がる四国を睨み付けるように見つめて『もう戻る。』と短く答え、隆元を振り返った元就の目は既に渇き、いつもの凛とした光が戻っていた。
静かに波から足を引き、砂を巻き上げて引いていく波に捨て切れぬ想いを全て乗せて元就は乾いた砂を踏む。
この想いは四国まで届いてはいけない。
向こう岸に届く前に海へと還ればいい。
あの男が愛するこの広くて優しい、あの男のようなこの海に。
濡れた足や裾に、砂が諦めきれない気持ちのように纏わり着くが、乾けば勝手に剥がれ落ちていく。
この未練もまた、心が乾けば剥がれ落ちるのだろうか。
そんなことを考えて己の馬鹿さ加減に嘲笑を漏らす。
振り返った水平線が空と交わるのを見て、いつかあの空と海のように交われることを切に願った。


End

ぐだぐだもいいとこだな、オイ。


※ 花緑青(はなろくしょう) / 花浅葱(はなあさぎ)

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