親 愛 な る 君 に 告 ぐ 、

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病に臥せっていると言うのは聞いていたし、見舞いにも何度か行った。
行くたびに弱っていく骨と皮と僅かばかりの肉のついた青白い身体が長くないこともよく理解していた。と言うのはたぶん思い込みだったのだ。少しでも自分の受ける傷を軽くするための。
無様な保身だった。
それを誰も咎めなかったし、あの元就を見た彼を大切に思う人間はみんなそうだったから、元親を咎めることなんてできなかった。
そもそも、誰があの凛と背を伸ばす安芸中国の当主が病に倒れてしまうことを予想できただろう。
真正面からあの死を受け入れたのは元就だけだったろうと今なら元親は理解できた。
そして、利己的で過去ばかり抱き締めて愛でてきた自分の醜悪で脆弱なところは四国の鬼と渾名される今でも姫若子と揶揄されたあの頃となんら変わりないのだと考えて恐ろしい程に穏やかな自嘲の笑みをその隻眼に刻む。
ざわざわとさんざめく命の音が今日ほど煩わしく思えたことがあっただろうかと考えて、元親は愚問だ、と一笑に付す。
生来陸よりも海に生きることを好む元親が、この広く深く、そして暖かな海を拒んだことなど一度もない。
しかし、最愛の命を喪った元親の耳に届くその穏やかな水音は、いま、もう二度と対峙することのない男の細く白い面を思い出させる物でしかなかった。思えばいつも二人のいる場所には波の音があった。


刃を向けあった厳島の社を洗う静かな内海の小波。抱き合って眠った天守に届く嵐の外海の砕波。ざわざと騒ぐ波の音に背を押されて歩いた海岸。
何もかもが元就に繋がっているような気がした。
拳を握る手のひらに汗がじわりと染み渡り、初めて好いた女を抱いた時の様に心臓が高鳴る。
砂浜に足跡を残し、元親は白く崩れた波に足を浸した。このまま空と水の境目まで行けば、元就は馬鹿者、と呟くのだろうか。
それでもいい。もう一度元就に会えるのならばそれで。
踏み出した足はとどまることを知らずに不快な波音をかき消すようにわざと音を立てて水平線へ向かう。
船を操る元親が、あの潔癖に交わることを拒む空と海の境目がどこまで行っても手の届かない場所だと言うことを知らないはずはない。それでも、今はそこにいかなくてはならない気がしていた。
一度、向き合う事をやめた哀しい男のあの薄い肩をもう一度抱く為には、そうするしかないのだと、半ば強迫観念の様に塩辛い水の塊をかき分けていく。
はじめは足首ほどだった水がふくらはぎを濡らし、膝の高さを超え、足だけでは飽き足らずに腰まで届く高さになっても、元親は足を止めなかった。
まるで、何かに誘われるように焦点の合わない視線を虚ろに水平線へと投げながら。

一心に水を掻き分けて進む元親の背中に、彼をうつつへと繋がんとする男の声が投げられた。
息子の信親だった。
鮮やかな紫の着流しが濡れるのも構わずに元親の後を追ってくる。元親よりも幾らか上背のある信親は簡単に元親に追いつき、その肩をぎり、と掴んだ。

「何やってんですか」
「のぶ、俺ァ…」
「アンタ、元就公のことになるとバカだバカだと思ってましたけど、ほんとに馬鹿だったんですか」

押し殺した信親の声には殺気さえ滲み、言葉以上に元親を責めた。
きりりと釣り上がった目尻は元親が正室として娶ったおなごに瓜二つだった。
見ないようにしてきた心の奥が鈍く痛む。

「死んでしまえば、父上はいいかもしれない。でも、俺や、母上や、四国の民はどうなるんです?遺される者の痛みを知りながら、俺たちにまでそれを背負えっていうんですか!?」

うねる水面が体にぶつかり、全身をしとどに濡らしていく。
濡れた着物が、現実のように重たい。
肩を掴む信親の指先が怒りに震えている。何があっても離さないと、その指先が告げていた。

「遺された隆元殿は、右も左も分からないまま、あの広大な安芸と、名家の名を守っていかなくてはならないんです。それでも彼は、アンタみたいに死のうとなんてしてない!隣国の、しかも同盟国の主として恥ずかしくないんですか!」

強い海風にも掻き消されない信親の悲痛な叫びが元親の脳髄を揺さぶった。

俺は、許しません。

こぼれ落ちるように信親の口をついた言葉はしかし、先の言葉と同じ音量で元親の鼓膜を揺らした。



「父上には、まだ為すべきことが、おありのはずです。」
「のぶ、」
「嫌です、父上が、死ぬなど…俺は…っ!俺に、毛利を恨ませないでください……っ!!」
「信親。」

幼児のようにいやいやと首を振る信親の指先が元親の肩を滑り落ちる。
握りしめたその指先で、こいつは一体何を掴むんだろうか。元就の忘れ形見のような毛利の当主が、それとも。
元親は俯いたままの自分譲りの銀色の頭をぼんと撫でて岸へと向かう。
顔をあげた信親は、そこに確かに四国の王たる男の背中を見た。

End

悪い、しばらくそっちで待っててくれ。

2011.06.14



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