親 愛 な る 君 に 告 ぐ 、

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その日、片倉小十郎は遣る瀬無さに押しつぶされんばかりの無力感を胸に燻らせていた。
屋上の目立たない一番端に、申し訳程度に置かれている灰皿に短くなった二本目の吸い殻をねじ込み、柵に凭れてため息を吐いた。

ここはとある総合病院の屋上である。
面会時間もすぎた今、片倉以外にこの場所に留まる人影はない。
片倉はこの病院で救急の医師をしている。万年人手不足の救急科には、それでも毎日スタッフの数をはるかに上回る患者が運び込まれてくる。
正義感の強い片倉は、一つでも多くの命をすくい上げるためにここで昼夜を問わずにその身を粉にして働いている。
それでも救えない命もままある。今日、運び込まれてきた子供の命のように。
交通事故だと聞いた。後頭部の挫傷と、肋骨の骨折、肝臓も損傷していたその子供がここに運び込まれた時には既に虫の息だった。それでも片倉は懸命に救命措置を行い、諦める事なく尽くせる手は全て尽くした。
しかし、助からなかった。 駆けつけた母親は、子供の死を告げた片倉に泣き腫らしてぐちゃぐちゃの顔で丁寧に頭を下げ、冷たくなり始めた子供によく頑張ったね、ごめんね、と声をかけていた。
やるせなかった。所詮自分は人間で、いくら努力しようとも救えない命があるのだと思うと、あまりの悔しさに目眩がした。
いっそやめてしまおうかとも思う。 特に、子供を死なせるとそのやるせなさは更に増幅する。救えていたら、あの子供はどんな大人になったのだろうか。自己欺瞞のセンチメンタリズムだ。
救急で鍛えた腕があれば、外科でもやっていけるだろう。患者の状態もよく、助かる確率の高い手術ならこのような無念さに取り憑かれてしまうことも少ないかもしれない。
片倉はよれたシャツのポケットからくしゃくしゃになったたばこを出し、再び火をつけた。白い煙が夜空に流れて行く。
今日で3日目の泊まりだ。明日こそは帰れるだろうか。

「あれ、片倉先生じゃん。」
「…なんだ、そろそろ消灯だろう。何してやがる。」
「ん?俺様もたばこ吸いに来たんだよね。」

癖のある声に振り返れば、つい一週間ほど前に運ばれて来た患者が、パジャマ姿で松葉杖をついて立っていた。
猿飛佐助。マル暴の刑事だという。
暴力団事務所を摘発した際に発砲され、ふくらはぎと脇腹に2発の銃弾を受けて運ばれて来た。片倉が担当し、今は外科の病棟に移ったはずである。
救急病棟に入院していた1週間の間に随分と懐かれてしまったのだ。それもこれも堅気とは言い難い顔の傷のせいかもしれない。

「怪我人がタバコなんて吸ってんじゃねぇ。」
「細かいことは気にしないの。」

俺は医者だぞ、とため息を吐いて見せるが、猿飛は鼻歌でも歌い出しそうな様子でベンチに座って火を点けている。メンソールの匂いがした。
やっぱり風呂上がりはこれだよねぇ、などとあまりに幸せそうに煙を吐き出すものだから、最初は取り上げてやろうと思っていたそれに手を出すのはやめた。街の喧噪が強い風にあおられて届く。

「元気ないね、片倉センセ。」
「色々とあるんだよ、こういう仕事してると。」
「あー、あるよねー。イロイロ。」

器用に煙で輪を作りながら空を仰ぐ猿飛は、死線に近い場所で働いているだけのことはある。どうやら片倉に起こったことをぼんやりながら理解したようだった。

「あの日さぁ。」
「いつだ。」
「俺様がここへ来た日。」
「あぁ。」

じり、と猿飛のくわえているたばこの火種が赤くなり、一拍間を置いた猿飛がダメだったらしいんだよね、と呟きながら煙を吐き出した。
あの日、救急車から運び出されたストレッチャーの上にいた猿飛を見た片倉は、助けられる自信などなかった。そもそも銃創の手当など実際にしたことはなかったし、脇腹の傷の中には弾が残ったままだった。
いくつかの内蔵を傷つけた弾は肝臓で止まっていた。それを出すために緊急手術をしたのだ。一週間と数日でよくもたばこを吸う気になれるものだ。
なにが、と視線で問う。猿飛が発砲されている以上、現行犯で逮捕できたはずだ。無意識にそう思っていた。

「俺様が怪我したばたばたで、幹部連中には逃げられたんだってさ。」
「そうか、」

自分の不甲斐なさを悔やんでいるのだろうか。
猿飛はくわえたばこのままで星のひとつも見えないスモッグに覆われた夜空を眺めている。

「俺があの日撃たれてなくて、幹部連中もぜーんぶ逮捕できてたら、何人救われたんだろうって思ったらやるせなくもなるよ。」
「それならとっとと治して現場復帰することだな。」
「アンタもでしょ。自分が死んだみたいな顔してそんなとこいたら、次はアンタが病院にお世話になるんじゃないかって心配にもなるよ。」

振り向いた猿飛の白い貌に苦笑が張り付いている。飛び降りないでよ、後味悪いから。そう言って再び空を見上げた。
そんなことするかよ、と返しながら灰皿に吸い殻をねじ込む。そんなに酷い顔をしているのだろうか。自覚がないだけに言い返すこともできなかった。

「…子供を、死なせた。」
「そう。」
「交通事故で、ここに来た時にはもう虫の息だった。」
「うん。」
「母親は、俺を責めることもなかった。」
「アンタが手を尽くしたことを知ってたからだろ。」
「でも、死なせたことに変わりはねぇよ。」

こつ、と音がして猿飛が片倉の隣で柵に凭れた。松葉杖はその華奢な体の向こう側に立てかけられている。

「疲れてんだよ、アンタも俺も。だから、普段できることができなかった。」
「そうかも知れねぇな。」
「アンタは俺を助けた。俺はアンタに感謝してる。アンタのおかげで俺はまた現場に戻れる。それでいいよ、俺にとっては。」
「そうか…」

猿飛は柵の下の街を無感情な瞳で見下ろしている。ビル風に煽られるオレンジ色の髪が闇に同化して見えた。

「次も怪我したら、ここに運んでもらおう。」
「近場の病院に運んでもらえ。」
「アンタなら次も俺を助けてくれるだろ?」
「状況によるが…善処はする。」
「じゃあ俺様の命はアンタに預けるわ。」

へら、と笑う。
慰めなのか、本気なのかよくわからない眼だった。
片倉の白衣がばたばたと音を立てる。

「ほら、そろそろお客さんが到着するんじゃないの?」

遠くを見ていた猿飛が言ったのとほとんど同時に、片倉の院内用の携帯が鳴った。
急患が来るので戻って来いという連絡だった。遠くに救急車の赤色灯でも見つけたのかもしれない。

「じゃ、俺様も寝に帰ろうかなー。そろそろ看護婦さんに怒られちまう。」
「安静にしてろ。まだ治ったわけじゃねぇんだからな。」
「そうするよ。あ、それとさ。」

猿飛は片倉の横で松葉杖をついたまま器用にポケットから警察手帳を出した。なんでそんなもの持っているんだと言いた気な片倉の視線を感じ取ったらしい猿飛は、ないと落ち着かないんだよね、と苦く笑った。
その中から一枚の名刺を引っ張り出すと、それを片倉の白衣の胸ポケットに押し込んだ。

「それ俺様の名刺だから、退院したら復帰祝いにメシでもどう?おごるし。」
「…そう言うのは受け取ってねぇ。」
「やだなぁ、これはタダのナンパ。アンタへのお礼は口実。それくらいわかってよね。」
「男にナンパされる趣味はねぇつもりだが…」
「オトモダチからおねがいしまーす。」
「だいたい、いつになるかわからねぇぞ。」
「そりゃお互い様でしょーよ。いつでもいいから連絡してよ。」

急ぐ片倉の気配を感じ取った猿飛が手を振る。片倉は何も答えずに医局へと向かうために踵を返した。
待ってるからねー、という暢気な猿飛の声を背中に聞きながら、片倉はやつれていた顔を仕事用のそれへと切り替える。
医局へ戻ったら、まずは胸の名刺を机の中に片付けようと心に決めて。

End

何か違う…


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