彼に可愛いと言ってもらいたくて履いてきたパンプスのヒールが邪魔で、空港の外なのも気にせずにハルはパンプスを脱ぎ捨てて走った。
3月になってからも日本の厳しい冬は続いている。つい先日も、去り行く冬を惜しむような断末魔の小雪が並盛にもちらついた。
積もることなく解けてしまった雪は、一度は立ち去ったと思った冬将軍を再び日本に呼び戻したようだった。寒い。
タイツを履いたハルのつま先がかじかんだ。地面が乾いたアスファルトなのがせめてもの救いだろうか。
(走っているおかげでコートを着た体自体は暖かいのだけど、つま先とパンプスを握る指先だけは凍ってしまったように冷たい。)
(それでも、彼を止めなくては。)
(いいえ、止めるつもりはないの。せめて、嘘吐きな彼に一言伝えなくては。)
事の始まりは、どうということはない。冬休みの課題も大方済ませてしまったハルは、愛しい彼とおいしいケーキを食べながらお茶でも飲もうと、お気に入りのケーキ店で、自分の好きなモンブランと、彼の分のショートケーキ、そして友達でもある彼の妹のためにいちごのタルトを買い、鼻歌混じりに彼の家を訪れたのだ。
事前に連絡をしなかったが、すぐ近所に住むふたりにはよくあることであったし、万が一彼が家を空けていても彼の妹と他愛のない話で彼の帰りを待てる。
そう、いたって通常どおりに彼の家を訪れたのだ。
しかし、ハルを出迎えた彼の妹は宛名のない一通の白い封筒を差し出した。この寒い中扉を開けたまま、ハルを迎え入れることをしない彼女のくるくるとした大きな目が切なげに目尻を下げている。
何か良くないことでもあったのだろうか、それも、彼に。
ケーキの入った白い箱を持つハルの指先が小さく震えた。
「あのね、ハルちゃん…これ、お兄ちゃんから預かったんだけど。」
「はひ?なんですか?」
差し出された封筒を受け取り、代わりにケーキの箱を彼女に渡した。ただ折って封をしただけのそれを開け、中身を広げる。
彼女はケーキの箱を抱えるようにしたまま溜め息を吐いた。
「……やっぱり、ハルちゃん聞いてないの?」
「何がですか?」
中身に目を落とす前に彼女が呟いた言葉を拾い上げたハルが問うと、彼女はさも言いにくいことを口にするかのような困った表情を浮かべて呟いた。
「お兄ちゃん、イタリアに行くって」
「…え?」
「午後のローマ行きの便で、獄寺君と…」
慌てて手にした便箋に目を落とす。
『ハルへ』から始まるその手紙の一番最初に、何も言わないでいたことへの許しを請う文章が綴られていた。その文章だけを読んで、封筒と一緒に便箋を京子に押し付けた。
「私、お兄さんに逢ってきます。」
つい先ほどのやり取りを思い出してじわりと目頭が熱くなったが、今は泣いている場合じゃないと唇を噛んだハルは走る。急がなくては搭乗時間に間に合わなくなってしまう。
なんとか空港の中に入ることができたが、どこへ行けばいいのかがわからない。人ごみをかき分けるようにして大きなスーツケースを持った人が流れる方向へ、取り敢えず走った。
こんなことなら、少し無理をしてでも一度くらい海外旅行へ行っておくべきだった。
なにが、イタリアの相撲協会だ。マフィアになるつもりなことくらいお見通しなのに、いまだにハルと京子には下手な嘘を吐く。
いっそ、綱吉のようにそうだと言ってくれればいいのに。
(綱吉は高校卒業と同時にイタリアの大学へ進学して、マフィアのボスと大学生の二足の草鞋を履いている。)
(もちろん、彼の恋人である京子はそれを知っているし、それでもなお彼を愛している。)
それが彼なりの不器用な優しさだとはわかっていても、今回ばかりは大人しくだまされてあげるわけにはいかない。
どうにか行き着いたロビーの電光掲示板でローマへ向かう便の搭乗口を確かめる。
手渡された手紙はを思い出し、悔しさに奥歯を噛み締めた。こめかみが痛む。
(一行目から謝罪するくらいなら相談の一つでもしてくれればいいのに。)
(男のプライドほど厄介なものはないです。)
パスポートを持たないハルはどこで見送ればいいのかがわからない。近くにいた職員を捕まえて見送りはどこに行けばいいのかと問いただす。
ハルの焦った様子に、女性職員は手早く、それでも優しく見送りの場所を教えてくれた。
教えられた通りに空港の中を走る。
途中で背の高い外国人にぶつかり、別れを惜しむ家族の間を走り、仲睦まじく海外旅行へ向かう恋人たちの横を通り過ぎたが、ハルはきちんとセットした髪が乱れるのも構わず全速力で走った。そろそろ搭乗が始まってしまう。
腰ほどの高さのフェンスの向こう、見覚えのある色素の薄い短髪が見えた。真新しい黒のスーツに身を包み、それとは不釣り合いな小汚いスポーツバッグを肩から提げている。
隣には、一緒にイタリアに発つはずの隼人の姿があった。
「お兄さ、ん…、ッ!!」
我慢し続けた嗚咽が邪魔して、思ったよりも小さな声しか出なかった。
フェンスから身を乗り出すようにして叫んだハルの声は、了平ではなくて隣にいた隼人に届いたようだった。
前へ進む列の中で、緩慢に振り返った隼人がハルの姿を認めた。了平の腕を掴み、ハルのほうへと顎をしゃくる。ゆっくりと振り返った了平は足をとめた。
口元が、どうして、と動いた(ように見えた)。
しかし、すぐにハルから視線をそらして俯いた了平は再び搭乗口へと歩き始めた。
遠ざかる了平の背中とフェンスに遮られてそれ以上距離を詰められないハルの間で、隼人がハルを見たまま了平の腕を掴み、すかずかと戻ってくる。
焦ったようになにごとか話す了平を振り返ることなく、半ば引き摺るようにしてフェンス越しに了平をハルの前まで連れてきた隼人は『飛行機の一本ぐらい見送ったっていいから、ちゃんと話つけろ』と了平に言うと、人の列から外れた通路の隅の灰皿の方へと歩いて行った。
安心感や怒りや焦りや、なんだかよくわからないぐちゃぐちゃになってしまった感情が溢れるように、ハルの目から一筋の涙が流れる。
目の前に立つ了平は、どうしていいかわからずに視線をハルの後ろへと泳がせた。
ぎり、と奥歯をかみしめてから、ハルは了平の頬を平手で叩いた。突然のことで避けることも受け止めることもできなかった了平が、見開いた両目でハルを見つめる。
ハルは了平を叩いた右手を胸の前で抱き、大きく息を吐いてから話し始めた。
「イタリアに、行くんですね。」
「あ、…ああ。」
「どうして、…どうしてハルに何も教えてくれなかったんですか!?」
「そ、それは!……お前を困らせるだけだから、と思ってだな、」
「ハルが、行っちゃヤダって…言うとでも思ったんですか?」
「………、」
図星を指された了平が俯いて押し黙る。所在なさげに首の後ろを掻いた。
一足先にイタリアに発った綱吉から連絡があったのは、了平が大学を卒業後に就職した会社の年末の忙しさに卒倒しかけている時だった。
珍しく京子宛てではなく了平宛てに届いたエアメールにはイタリアでのあれこれが綴られていた。ボンゴレボスの座を継承したはいいが、実力が伴わずになかなか苦労していること、そして何より守護者が隼人とまだ年若いランボしか近くにいないことでボンゴレ自体に危機が迫ることが幾度かあったこと。
そして最後に、どうかイタリア行きを考えてほしいという言葉が書かれていた。いずれは義兄弟となるであろう年下の綱吉を、ボスという意味だけでなくひとりの青年として可愛がっていた了平はさすがに悩んだ。
イタリアに行くということはつまり、マフィアになるということである。それは、了平の大事な人を巻き込むことにはならないか?
妹である京子は、綱吉がマフィアのボスになるということを知ってもなお、彼との交際を続ける覚悟をしたし、何より沢田綱吉という男は命に代えてでも京子を守るだろう。
京子を守る、と言う意味でもイタリアに行くべきだと思ったし、今の自分が綱吉と京子の幸せのためにできることはしてやりたいと思う。
しかし、それは今のところマフィアとは無関係なハルを巻き込むことにはならないだろうか。巻き込むことになってしまったとして、自分は彼女を守れるのだろうか?
正直なところ、自信が無かった。幾度かのマフィアの争いの中で、了平は自分がまだまだ弱いということを自覚していたし、何よりもハルを傷付けてしまうのが怖かった。
結局、言い出すことができないままこの日を迎えてしまったというだけで、決して隠すつもりは無かった、と言うのが了平のいい分であった。
何より海外出張だと言っておけと伝えたはずの妹が、洗いざらい話してしまったのが全ての間違いの始まりだとも思った。
「お兄さんは、ずるいです。いつも、なんでも自分ひとりで背負って、自分ひとりで決めて、…」
「ハル…、た、ただの海外出張だと…」
「もう嘘はつかないでください!」
出発時間が近いのだろう。先程まで小さな人だかりになっていた周囲も、今では人もまばらである。止まらない涙を拭いもせずに了平を見つめるハルに、了平はポケットから出したハンカチを手渡す。
そのハンカチを握りしめて、とうとうハルは声をあげて泣き始めた。苦笑いを浮かべた了平はフェンス越しにハルを抱き寄せると背中をなでた。
「イ、イタリアの相撲協会に就職するだけだ。…またすぐ、」
「相撲協会、なんて…嘘ばっかり」
「何を?!ほんとだぞ!!」
「マフィアに、なるんじゃないんですか?」
「なっ…!!」
ハルの肩を掴んだまま硬直した了平に、ハルはやっと笑顔を向けた。
了平のヘタクソな嘘とそれが通用しないと悟った慌てぶりにくすくすと笑い始める。
「ハルが、何も知らないと思ったら大間違いです!」
「だ、だれがそれを!!さては京子だな!アイツめ、そんなくだらん嘘を…」
「ハルはお兄さんのことならなんでもお見通しなんです。」
「ち、違うぞハル!騙されるな!!」
「もう…。」
いつまでも認めようとしない了平の腕の中でハルは小さく溜め息をつき、了平の首に腕を回した。
少しだけ背伸びをして了平の耳に唇を寄せる。
「ハルはマフィアになっても了平さんが好きです。だから、早くハルをマフィアの妻にしてくださいね。」
ハルの言葉に、了平は思わずハルの顔をまじまじと見つめる。
本当に、いいのか?と問う了平に、ハルはもちろんです、と笑った。
ハルは、獄寺の方を振り返って笑うと、ありがとう!と手を振る。
たばこを吸っていた獄寺は複雑そうな表情で、右手を挙げた。
End
Ti voglio bene!!