そろそろ眠ろうかとベッドの中でうつらうつらしていたところに、ドアノブをひねる音がした。
当然かかっていた鍵のせいで、大きな金属音が鳴っただけで、玄関の外の何者かが室内へと足を踏み入れることは叶わなかった。
殺し屋の類いであれば、こんな真夜中に、こんなにもあからさまな音を立てることはしないだろう。
しかしもう夜も夜中である。こんな時間に恭弥の部屋を訪れる者の心当たりはもうなかった。
これまでだって、心当たりのあるような人物は一人しかいなかった。
サイドテーブルに置いた武器はそのままに、恭弥はベッドを降りた。
足音を殺して玄関のドアスコープを覗くと、ドアに凭れている金色の後頭部が視界に広がった。
その髪色と視界の端に映る茶色いファーからドアの向こうにいる相手が、心当たりの人物だと知って恭弥は視線を落とした。
裸足のつま先が見えるだけで、この後どうすればいいのかは分からない。
ベッドを出る前に確認した時刻は午前2時。
こんな時間にいったい何の用か、と出るのすらも躊躇うような時間で、相手はつい最近別れた元恋人だ。
別れの原因は恭弥には何もない。
ただドアの向こうの男の家庭の事情と言うやつで、今更弁解の余地もなければ、弁解してもらう必要もない。
懺悔がしたいのならば扉の向こうで勝手に悔い改めればいいし、そもそも来る場所を間違えている。
(散々人から奪ってきた彼は、なんの冗談なのかクリスチャンであった。)
そう考えて、残酷な気持ちになった恭弥は再び足音を殺して寝室へと引き返すために踵を返した。
が、控え目にインターフォンが押される。
きっと、扉の向こうの男に起きていることを悟られたのだろう。
認めたくはないが恭弥を鍛えたのは扉の向こうの男だった。その彼にとって、恭弥が殺したはずの気配を悟ることなど容易いことだ。
何度か鳴らされるそれを真っ暗な玄関に立ち尽くしたままで恭弥は聞いている。
静かにため息を吐き出しながら、またつま先を見つめたが、どうするべきかの答えをつま先は教えてはくれなかった。
鍵を開けるために一度は持ち上げた手を下ろし、もう一度持ち上げる。
暫く躊躇った恭弥は大きく息を吸い、目を閉じて一息に鍵を開けた。
闘っている時でさえ震えることのない指先がみっともなく震えているのを、拳を握ってやり過ごした恭弥は、鍵が開いてもなお鳴らされたインターフォンに、開いてるよと吐き捨てるように応えてリビングへと足を向けた。
遠くで響いた扉を開ける音に、真夜中の訪問者が部屋へと足を踏み入れたことを確認して、リビングの電気を点ける。
キッチンの電気も点けて、いつも彼が来た時にそうしていたように、コーヒーを淹れようとしている自分に少しだけ嫌悪感を覚えたので、コーヒーを淹れるのはやめた。
なぜなら、あの男と恭弥の間には、今となっては関係と呼べるほどのものは何もないからだ。
ビジネスの相手ではあるのかもしれないが、あの男の様子では、そんな割り切った話ではなさそうだし、ビジネスの話をするには少々時間が遅すぎる。
そう考えた恭弥は二つしかないダイニングの椅子の片方を引いて、倒れこむようにその上に座った。
しかし訪問者はいつまでたってもその姿を現さなかった。
時計の針が進む音だけが響いて、玄関にいるはずの男が動く音がしない。
一体彼は僕に何を求めてこんな時間にこの部屋を訪れたのか、そう思って苛立つ。
ごく自然に発生した疑問と、ふつふつと湧き上がる苛立ちを解消するために恭弥は椅子から立ち上がった。
向かった先には、俯いたまま靴も脱がずに立ち尽くすディーノの姿。
母親の手を離してしまった幼子のようにじっと俯くその顔にどの種類の表情があるのか、恭弥には知る由もない。
知りたいとも思わない恭弥はディーノとの間に距離を保ったまま腕を組んだ。
泣く子も黙る跳ね馬が何やってんだか。
そんな呆れにも似た同情と、当てつけがましい態度に対する苛立ちがないまぜになって恭弥の胸は苦しくなった。
(抱きしめたいなんて、思ってやるものか。)
握りしめた拳の震えはもう収まっていた。
「こんな時間に、…何の用?」
喉の奥が砂漠のように干涸びて、掠れた声しか出なかった。
その声を聞いてもディーノは顔を上げることはしなかった。
「……ごめん。」
俯いたままのディーノの唇からようやくこぼれ落ちた言葉は、恭弥の求めていた返答ではなかった。
「謝るくらいなら最初から来なければいい。」
「…ごめん」
「僕の睡眠の邪魔だよ。」
「……ごめんな。」
繰り返される謝罪が夜中に訪れたことに対するものではないと気付いて、恭弥は唇を噛む。
睨みつけるようにして見た、俯いたままのディーノの肩が僅かに震えていることに気付く。
もしかしたら泣いているのかもしれないと思って、込み上げた不快感と哀しみの間の感情に気づかない振りをしてディーノから目を背けた。
丁度一週間前の事だった。
ディーノから結婚と言う言葉が出たのは。
もちろん、相手は恭弥ではない。
キャバッローネファミリーの十代目たるディーノがいずれ子を成さなくてはならないのは自明の理だった。
そのために適当な相手と結婚すると、彼は言った。
恭弥自身、そのことを知らないわけでも気付いていないわけでもなかった。
それでもディーノとの関係を続けていたこと自体が恭弥の我儘だったのかもしれないと、今では思う。
「あなた、こんな時間になにしに来たわけ?」
「…その、謝りたくて」
チャラチャラした見た目とは裏腹な硬派なところが好きだった。
いつでも恭弥を甘やかすことに余念がなくて、つっけんどんな態度の恭弥を抱きしめたがる。
そんな彼に甘やかされることに慣れすぎていたのかもしれない。
「謝ったからって何になるの?僕が女になるわけでも、あなた子供が産めるようになるわけでもないでしょ。」
「……」
嫌がる素振りで受け止めるディーノの唇の熱に浮かされていただけなのかもしれない。
壊れ物のように自分に触れるディーノの繊細な指先に寄りかかりすぎていただけなのだ。
公然と不貞が出来る程俺は残酷になれないと、吐き出すように言ったディーノの琥珀色の瞳は確かに恭弥だけを映していたのに。
彼の言う不貞が、近い将来に彼の妻となる女へ向けられた言葉ではないことも、痛い程にわかっている。
「別に、僕が一人に戻るだけだ。…今更、傷つきもしないよ」
だから、このバカな男を突き放してやらなくてはならないのだ。
バカがつく程正直で、バカがつく程優しいこの男の優柔不断を断ち切ってやれるのは恭弥だけなのだと、そう思うのに唇が震えていた。
音にして初めて、自分が一人であることに恭弥は気づく。
「僕があなたに縋り付くとでも思って来たの?」
ばかじゃないの、と呟いてできるだけの冷徹を刷いた顔で笑ってみせた。
「思い上がりも程々にしないと、いつか足下掬われる日が来る。あなたのそばにいる誰もがあなたを必要としていて、あなたを絶対的に信頼しているなんて、思い上がりでしかない。」
「あなたは、あなたを本当に必要としている人のためだけに生きていけばいい。僕は所詮僕のためにしか生きられない。」
「あなたなんて、僕には必要ない。」
短く切りそろえられた恭弥の親指の爪が柔らかい二の腕を抉る。
その痛みにわずか喘いだ恭弥にディーノは気付かない。
そんな余裕もないくらいにディーノを傷つけて、今すぐここから追い返さなくてはならない。
そうしなければ、二人はさらに深い傷を負い、いつかその重みに動けなくなるのだ。
ごめん、と呻くように呟いたディーノを、できるだけ冷たい瞳で見つめた。
「もう眠たいから早く帰って。二度とここには来ないで。」
「…、恭弥ッ」
「これ以上ここでくだらないことで落ち込むなら、いっそ僕が今すぐ咬み殺してあげる。」
「くだらなねえことじゃ、…」
「僕にとってはくだらないことだよ。ここであなたがいくら懺悔したって、僕が惨めったらしく泣いたって、僕は男で、あなたのこどもを産めるようにはならない。」
「そういうことじゃねえだろ…」
もうこれ以上ディーノの相手をしたくなかった。
惨めったらしく泣いて縋ってしまいそうだった。
公然の不貞だなんて思うはずがない。いつだってこの男の最優先は恭弥だった。
抱きしめる腕の強さ、愛の言葉、優しさも慈しみも、絡ませあう四肢のぬくもりも全てが恭弥のためだけに存在していたような、そんなこの男にすがりついて捨てないでくれと泣き叫んでしまいそうだった。
「じゃあどういうことなの?もう僕たちにどうにか出来るような問題じゃない。受け入れる以外のどこに逃げ場があるの?これ以上僕を惨めにしないで。」
早く出て行って、そう言って恭弥は玄関のディーノに背を向けた。
指先の届かぬ距離にいたことを少しだけ後悔した。
もし、あと一歩前にいれば、ディーノが捕まえてくれたかもしれない。
もしそうなれば、もう少し素直に別れを受け入れられたかもしれないのに。別れない道を探すことが出来たかもしれないのに。
ディーノは、来た時とは正反対の静かさで部屋を出て行った。
ダイニングのテーブルに腰掛けてディーノが出て行くのを待っていた恭弥は、ドアがしまる音を俯いたまま聞いていた。
出て行くのを待っていたのか、もう一度愛する赦しを待っていたのかはもう恭弥にはわからなかった。
もう愛することはやめるのだと冷静な自分が言った。
震える手をいくら握りしめても、唇を噛み締めても、その震えと涙が止まることはなくて。
(さよなら僕の愛した人)
(僕はあなたに誓うよ)
(もうあなたのことは愛さない)
End
DH:愛さない約束と愛の花束。