突然の出来事に片倉の脳が考えることをやめた。
部下の何人かを引き連れて、大きな契約の成立を祝うために呑んでいただけのはずだ。
二次会へ流れるという部下を残し、片倉は帰宅するために駅へと向かう道を歩いていたはずで、突然呼ばれた声に振り返っただけだった。
振り返った片倉の視界を一面に覆う鮮やかなオレンジ色。
ぶつかるように触れた唇の柔らかさが停止した片倉の思考を貪婪に呑み込もうとしている。

「片倉さーん?」

一瞬で離れていったはずのオレンジ色の持ち主が停止した片倉の目の前でひらりと手を振った。
随分長かったように思うのは片倉の思考が止まってしまったせいだろうか。
随分と夏らしい匂いを漂わせ始めた湿気た風がオレンジ色の髪をふわふわと揺らしている。
片倉の目前であれー?とへらへら笑っているのは片倉の部下のひとりである猿飛佐助だ。
今回の大口の契約を成立させるためにチームの中心となって動いてきた優秀なその部下が、飲み過ぎたアルコールに薄らと頬を染めておーいと手を振っている。

いま、コイツはなにをした?

ゆっくりと回り始めた片倉の頭が急加速で思考を紡ぎ、終電へと向かう人ごみの中で結論を導いた。
思わず自分の唇を武骨な男の指先で拭った片倉は、目の前で相も変わらず軽薄な笑みを浮かべている猿飛の色素の薄い双眸を睨みつけた。

「何のつもりだ」
「片倉さん、帰っちゃうみたいだったからもらうもんはもらっとこうと思って」

へへ、とだらしなく笑う男は本当に自分の部下なのだろうか。
片倉の思考が再び混乱する。
クールビズの風潮などどこ吹く風で、いつも見ているこちらが暑くなるほどにきっちりと着込まれているスーツも、今ばかりはだらしなくボタンを開けたワイシャツを残し、ジャケットは猿飛の腕にかかっている。
優秀を形にしたように斬り捨てるべき案を容赦なく斬り捨て、おそろしいほどの饒舌と小賢しく回る頭でいくつもの契約を成立させてきた男なのかと、片倉は目の前に立つ猿飛の頭のてっぺんからつま先までを眺めた。

「なんで俺がお前に俺の唇なんてやらなきゃいけないんだ」
「だって、今回の契約取るために俺めっちゃ頑張ったし、それくらいいいかなって」
「ほお、俺の唇は随分と安いんだな。」

しかもこんな道のど真ん中で、と猿飛を睨みつける片倉の硬質な視線が凄んでみせるが、当の猿飛はそれを気にした風でもなくニヤニヤと笑うばかりである。
日本独特の湿っぽい初夏の風が片倉の左頬に刻まれた物騒な傷痕をなまめかしく撫でていくのが目の前の猿飛の笑顔と重なって酷く不愉快だった。
じゃあ、と悪戯っぽく口角を上げた猿飛が続ける。

「人目がないところなら、良かったんですか?」

急に真面目腐った口調で片倉に挑むように見上げてくる視線の強さに片倉がたじろぐ。
いいともダメだとも答えることのできない片倉の手首を掴んだ猿飛は駅とは違う方向へと歩き始める。
止まることのない背中に少しの焦りが見えたような気がして、手首を掴む熱い指先を振りほどくことはできなかった。

「どこいくつもりだ?」
「俺んちですけど。すぐそこだし。」
「お前は何がしたいんだ…」

呆れたように溜め息を吐く片倉の手首を握る猿飛の掌がじわりと汗ばんでいく。
そう言えば猿飛が汗をかいているところなんて見たことがないな、と考えた片倉はこの真意の掴めない部下の気まぐれに少しぐらいなら付き合ってやってもいいかと思う。
5分ほど歩いた場所にあるアパートの階段を上がっていく猿飛は3階の部屋の前で立ち止まり、片倉の手首は離さないまま鞄から鍵を出そうとして苦戦する。
別に今更逃げたりしねぇよ。
そう言って溜め息をつけば、片倉を信じ切ったわけではない猿飛の視線がちらりと片倉を見たまま、部屋の鍵が開く。
勢い良く開いた扉の中に、半ば引き摺られるようにして体を滑り込ませた片倉はしかし、閉じた扉に背中を押し付ける格好のまま立ち尽くすしかなかった。
オレンジ色が視界を埋める。
次は目を閉じた。
遠慮なく口の中を暴れ回る二枚舌を捕まえて、二人の形勢が逆転する。
んう、と鼻から抜ける声が限界を告げ、片倉はその唇を解放した。
肩で大きく息をした猿飛は今更湧き上がってきた羞恥に視線を落とす。
そのオレンジ色の前髪を掴んで上を向かせた片倉が欲に煌めく唇を開いた。
その唇を見上げる猿飛の熱に浮かされて虚ろな瞳が僅か濡れているような気がした。

「これで満足したならとっとと理由話せ」
「満足なんてするわけない。」

再び片倉が猿飛の薄い唇に噛み付いた。
絡み付いてくる舌を吸い上げ、濡れた唇に犬歯を立てる。
暫く続いたそのキスが、埃っぽい猿飛の部屋の湿度を上げた。
粘着質な音を立てて離れた唇を、差し出した舌でぺろりと子犬のように舐めた猿飛は月の色を映した眸を三日月の形に歪めた。

「理由なんて、どーでもいいじゃない。アンタが欲しいだけだよ。」

充血した唇の紅と、月の光を透かしたオレンジ色だけが片倉の視界でひらりと舞った。


End

冬眠させていた欲が目を覚ます。

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