- 演習の終了に伴って官邸へと引き上げていく総帥の背中を敬礼で見送っていた毛利はその敬礼をとき、自分も執務室へと戻る一歩を踏み出そうとした。
数日前の雨のせいで粘土質が表面に沈殿していた演習場の砂埃が髪や肌に張り付いて、冷え切った指先と共に毛利の不快感を煽る。
熱いシャワーでも浴びてから執務に戻るかと考えた毛利だったが、隣で共に総帥を見送っていた伊達の黒い革手袋の指先が毛利の細い腕を掴んだ。
「毛利、このあと少し話がある」
「昼間から呼び出される謂れはないはずだが」
「すぐに終わる話だ」
「私用なら夜…」
聞く、と続けようとした毛利の耳元に伊達の形のいい唇が寄せられる。
ぞっとするほど楽しそうな、温度のない声だった。
あの銀髪とはどこまでヤッたんだ?
伊達の言葉にわずか瞠目した毛利はしかし平静を装った声で何のことだと勤めて冷静に聞き返した。
ちらりとよこされた視線の透徹した冷ややかさに伊達はわざとらしく肩を竦めて見せる。
「詳しい話は夜にするか、毛利准将。」
「…執務が終わり次第伺います」
あえて階級で呼ぶことで毛利の退路を絶った伊達は、吐き捨てるように応じた毛利の腰を抱き寄せてその唇に己のそれを重ねた。
一瞬で体ごと離れて行った伊達の黒い外套の背中を睨みつけた毛利は、手袋を外した右手で唇を拭った。
どこから漏れたのかと考えるが、心当たりがありすぎる。
この数日間、長曾我部が毛利の私室を訪れなかった日はない。
伊達が長曾我部をどうにかしようとする可能性を考えなかったわけではないが、毛利が長曾我部に話した内容など限りなくゼロに近い。それもあって伊達が無闇に手を出してくることはないだろうと思っていた。迂闊だった。
唇を拭った指先を拳に握りしめた毛利はシャワー室へと足を向ける。
伊達がなにを考えているのかがわからない今、これ以上迂闊に長曾我部と接触するのは避けなくては、と思い至った毛利は足早に進んでいた官舎の廊下でふと足を止めた。
なぜ自分はあの長曾我部という男をかばおうとしているのか。
庇おうとしている、と言うのは言い過ぎだとしても長曾我部を生け贄のように差し出せば、これ以上長曾我部に煩わされることはなくなるというのに、無関係を装うことで矛先を逸らそうとしている。
自分の触れられたくない闇にズカズカと土足で踏み込まれたことを、あんなにも嫌悪していたではないか。それをなぜ今更になって庇うのか。
廊下に立ち尽くす毛利に、何人かの兵士たちが敬礼を寄越しては横を通り過ぎていく。
何を話すつもりも、どうにかなるつもりもないあの男をなぜ伊達の恣意から遠ざけようとしているのかがわからない。
あの男と関わってしまったせいで面倒なことになったとは思わずに、無関係を装わなくてはと考えてしまった自分の思考が理解できない。
なぜが渦巻く思考の中で、ある一つの結論に考え至った毛利の、外套を羽織ったままの華奢な背中がぞわりと総毛立った。
もう誰も信じない、大切になどするものかと思い続けていたはずなのに、いつの間にかあの男に魅入られてしまっていた。
それどころか、あの男といるのが心地よいとさえ感じている自分にたった今気づいたのだ。
このままでは、また失ってしまう。
シャワー室へ向かっていたはずの踵を返し、毛利は足早に私室へと向かう。
多少執務が滞ったところで、毛利の処理能力を持ってすればどうということはない。
それよりも今はこの恐怖をどうにかしたかった。毛利が時折執務室から姿を消すのは部下たちもわかっていることなので何も言われないはずだ。急ぎの仕事もない。
混乱した思考の片隅にどうにか残った冷静な部分でそれだけを考えて毛利は部屋に入ると震える指で鍵をかけ、ぴったりとカーテンを閉めた。
明度の落ちた室内で、寒さではなく小さく震える痩躯が床に崩れ落ちる。
全ての感情を痛みで上書きすることしか知らない毛利の指先が無意識に刃物を探した。
這うようにしてベッドサイドのチェストの引き出しを漁り、小さなナイフを引っ張り出す。元は護身用に身につけていたはずのそれは、もっぱら感情を沈めるための道具に成り下がっている。
それを咎めるものは誰一人としていない。いや、あの厚かましい大佐を除けばの話だ。
直接的に咎められることはなくとも、傷の減らない毛利の腕を見ていつも悲しい顔をするあの男が、それを快く思っていないことはわかる。
捲り上げた袖から覗く綺麗に巻かれた包帯が毛利の心の柔らかいところを抉ったが、もう引き返す道もない。
震える指先でその包帯を乱暴にほどいて治り切らない傷の上から鈍色に輝く刃を引いた。
腕の丸みに沿って流れる血液に、毛利の呼吸が引きつる。
涙は流さないとあの日決めた。それでもじわりと視界が滲んでいく。
どうしてなにもかも奪われていくのだ。
どうせ奪うならこの命を奪ってくれればいいのに。こんなもの、いくらでも差し出してやるのに。
整わない呼吸を誤魔化すように何度も刃を滑らせる。
それでも整わない呼吸に、とうとうナイフが手から滑り落ちた。
ひゅうひゅうと喘鳴する気管に無理やり空気を送り込みながら、毛利は堪え難い痛みの妄想に落ちていく。
助けを求めた銀色の光には手が届かなかった。
不意に目覚めたときにはすでに冬の短い日は落ち、夜の帳が降りていた。
過呼吸で意識を飛ばしたのか、と思い至った毛利は鉛のように重たい体をゆっくりと動かしてみる。
左手に流れた血液が乾いて不愉快だったが、そんなことを言っている場合ではない。とにもかくにも伊達のところへ言って伊達の考えていることのしっぽだけでも掴まなくてはいけないのだ。
失いたくないのならば失わずに済む策を嵩じるまでまでだ。
流した血液の分だけ冷静さを取り戻した毛利は重たい頭を二度三度振って立ち上がる。
部屋の照明を点け、時間を確認する。時刻は19時を少し回ったところだ。
日勤から夜勤へと切り替わるこの時間ならばシャワーを浴びて血まみれの軍服をクリーニングに出してからでも伊達の部屋を訪れるには十分な時間だ。
今日は演習があったせいで伊達も日勤に違いない。連続しての終日勤であればまた変わっては来るがとりあえず私室へ行けばいいだろう。
貧血か酸欠か、ふらつく体を叱咤してシャワーを浴び、血だらけになった軍服とシーツをクリーニングに出した。部屋の中は相変わらずの惨状だが、それは今夜も来るであろうあの男が来る前に片付けてしまえば問題ない。
昼間の取り乱した姿など嘘のように、毛利は凛と背を伸ばして廊下を歩く。
勤務交代の為に敬礼もそこそこに通りすぎてゆく兵の中に伊達の部下のひとりを見つけた毛利はその男を呼び止めた。
「伊達少将に呼ばれている。少将は今どちらに?」
「はっ!伊達少将閣下は本日終日勤でありますので執務室におられると思われます!」
「そうか。手間をとらせた。」
「いえ!失礼いたします!」
敬礼を残して立ち去っていく兵を振り返ることもせずに毛利は伊達の執務室へと足を向ける。
長曾我部との関係は嘘偽りなく答えたとしても何の問題もないだろう。あとは長曾我部への対応だが、今になって来るなと言い含めたところでこの件が絡んでいると言っているようなものだ。それではマズい。
(そもそも来るなと言って来なくなるような男ではない。)
来なくなったところでそれでは長曾我部が弱点ですと伊達に言っているようなものだ。
(あの男の性格は褒められたものではないが洞察力と、こと聡明さにおいては毛利さえをも凌ぐかもしれない。)
そんなことを考えているうちに毛利の足は通いなれた自分の執務室の前で一瞬止まる。
意識を飛ばしていた間の職務の進捗が気にならないと言えば嘘になるが、今はそれどころではないというのも毛利の本音だ。
それに、毛利から見て使いものになると判断された者しかいないここで、毛利の決裁を待つばかりの書類がうずたかく積み上げられている可能性はあっても、部下たちだけではどうしようもないことが起こるとは思えない。
しかし、このあと何が起こりどうなるのか、毛利でさえも全く予想がつかないのだ。
進捗くらいは聞いておくべきかと扉を開け、有能な秘書官に聞けば急ぎの物はないしそれほど業務も滞ってはいないというありがたい返事が返ってきた。
(しかしこの状況ではありがたいのかありがたくないのかも判断しがたいな、とも毛利は思った。)
可能ならば後でもう一度顔を出すと告げ、毛利は伊達のいる部屋を目指す。
扉の前で数秒目を閉じ、重たい扉を叩いた。
「来たか。」
「話とはなんだ。早めに終わらせてもらわねばこちらも困る。」
「まぁ、来いよ。」
開いた扉の正面に鎮座する机で書類に決裁のサインをしていたらしい伊達はおもむろに立ち上がって隣にある責任者用の執務室へと続く扉を開けた。
誰も近づけんなよ、と秘書官である猿飛に伊達が告げると、感情のない眸がしっかりと頷いた。厄介だ。
総帥が立ち会う軍議の開かれる部屋に入る時よりも緊張しているかもしれない。掌に変な汗をかいている。
そうは思ったがそんなことはおくびにも出さずに毛利は伊達の後について室内に足を踏み入れた。
後ろ手に扉を閉めると同時に神経質に一番上まで締めたネクタイを掴まれて分厚い扉に背中から叩き付けられる。ドアノブに腰を強かにぶつけて小さく呻き、背を丸めた毛利を見下ろす伊達の表情はおそろしいほどに無だ。
俯いた毛利の乱れた前髪を掴み、そのまま毛利を引き摺るようにして応接用のソファに投げ出した伊達は毛利の痩躯にのしかかりながら自分のネクタイを外した。
「なんの、真似ぞ…、」
「あぁ!?デキの悪ぃ部下にお仕置きだよ。」
「何の咎だ。我の身に覚えはないぞ。」
毛利の眸の透徹した冷ややかさに幾らか頭の冷えたらしい伊達は、それでも解いた自分のネクタイで毛利の細い両手首を縛り上げ、はだけさせた毛利の胸元に残る自分がつけた情痕に噛み付いた。
ぶつりと皮膚の裂ける感触に毛利のしなやかな背が跳ねた。
「さっきも言っただろ?あの銀髪とはどこまでヤッたんだ?」
「どこまでもなにも、何もないわ。」
「あんなに毎晩アンタの部屋に通ってるのにか?」
「たまたま貴様と致した後、乱れた姿で戻るところを見られてな。毎晩しつこく我の部屋に来ては何かを聞き出そうと必死だ。」
哀れな男ぞ、と冷笑を浮かべた毛利の眸の奥に真偽を確かめようと伊達の隻眼がただならぬ色を纏って毛利の顔を覗き込む。
こんなことくらいで剥がれる仮面など持ち合わせておらぬわ、と胸中に吐き捨てた毛利は慌てた様子も見せずに言葉を継いだ。
何かを話していないと切れ長の隻眼の奥にちらつく闇に呑み込まれて全てを吐露してしまいそうだった。
「自分たちがいずれ殺される人質とも知らずに…な。」
「Ha!!一応そこは理解してるみてぇだな。」
「我を誰だと思っておる。」
さすが毛利准将様だ、と唇を歪めた伊達の眸の奥に宿った勝ち誇った色は一体なんなのだろう。嫌悪が毛利を苛んだ。
途端にいつもの優しさを取り戻した伊達の指先が毛利の華奢な体をまさぐり出した。
さっき部下に戻ると告げた手前、ここでことに及ばれては面倒臭い。何より扉一枚隔てた向こうには数人の兵が黙々と職務をこなしているのだ。
誰も近づけるなと申し付けてあるとはいえ、先程の扉に叩き付けられた音のせいで中で何が起きているのかを伺われていては准将としての沽券に関わる。
明らかな意志を持って動く指先を縛られた両腕でやんわりと拒絶すると、我も今日は終日勤だ、と毛利はうそぶいた。
構うか、と子供のように唇を尖らせて拗ねる伊達の眸に先程までの激情は見られない。
「今日は演習もあって職務が溜まっておるのだ。貴様の遊びに付き合っている暇はない。」
「アンタなら明日中に片付くんじゃねぇのか?」
「明日の職務にも響くからやめろと言っているのだ。」
痴れ者が。
吐き捨てた毛利に口付けた伊達は仕方ないとでも言うように体を起こして毛利の手首に巻いたネクタイを外した。
治り切らない傷口から血が出てワイシャツの袖を汚していたが、幸いにも今は冬である。上衣で隠せば問題もないだろう。
ただ、終日勤だと言ってしまったせいで嘘を真実に変えるしかなくなってしまった。
夕方の騒動のせいで体は限界を訴えていたが、おめおめと部屋に戻ってまた長曾我部が来るところを誰かに見られでもしたら全てが台無しだ。
外れたボタンとネクタイを直し、身だしなみを整えた毛利はもう用は済んだのだな、とふてくされて執務机に腰掛けて鞭をいじる伊達を振り返った。
暫く何事か考え込んでいた伊達は唐突に肩を奮わせて笑い始め、残虐に満ちた笑みに唇を裂いて毛利を見た。
「なぁ、どうせならあの銀髪と一発くらいやらかしとけよ。」
「戯れ言を。なぜ我が斯様な男と関係を持たねばならぬのだ。」
「時が来たらアンタにアイツを始末させてやる。」
毛利の秀麗な眉の片側だけが神経質にぴくりと持ち上がる。
それをいつもの嫌悪の現れととった伊達はさも楽しそうにくつくつと嗤い続けている。
入れ込んだ相手に殺されるってなったら、アイツ、どんな顔すんだろうなァ…。
焦点の合わない眸で下卑た笑みを浮かべる伊達の横顔を見ていた毛利は、またかと目の前がくらくなっていく錯覚に両の目頭を細い指先で揉んだ。
まただ。失うだけじゃない。また、自らの手で葬らねばならないのだ。
立ちくらみさえ起こしそうな絶望の中で、毛利は悪趣味だな、とだけ言葉を残して残虐に陶酔する伊達を置いて執務室を出た。
猿飛の視線が背中を追っていることはわかっていたが、振り返らずに部屋の扉を開けた。
このまま執務へ向かわなくては、と考えて、血だらけの惨状を放置してきた自室のことを思い出す。
鍵は閉めた。マスターキーはしっかりとポケットに入っている。スペアは総務に一本、総帥の官邸に一本あるがそれが使われる時は常時ではない。
あぁ、職務が終わったらアレを片付けてシーツも新しい物に替えなくてはいけない。
そうだ、クリーニングに出した軍服を明日の朝引き取りにいくのも忘れないようにしなくては。
想像しただけでどっと疲れの波が押し寄せる。
薄れたはずの恐怖と疲労が毛利の細い足をその場に縫い付けてしまいそうだったが、ここで足を止めるわけにはいかない。気を抜けが崩れしまいそうな膝に意図的に力を入れて高く軍靴の音を響かせて部屋を出た。
勤務交代の時間を外れた廊下に人影はない。これ幸いと閉じた扉に凭れてずるずると座り込んだ。
両肘をついた膝ががくがくと震えている。抱えた頭の奥でさっきまで顔を合わせていた男の眼帯が外れ、何もない眼窩から暗闇が毛利に手を伸ばす。
それに絡めとられた毛利は身動きも取れずに、されるがままに闇に引きずり込まれていく。
毛利はその闇の名を知っている。
逃れる術などないことも。
End
他には何もいらない。だからそこへだけは連れて行かないで。