- 片倉の隊の横で演習に励んでいた真田の隊は、片倉の隊からは少し遅れて解散となった。
気の抜けた背中で官舎へと戻って行く部下たちをぼんやりと見送っていた真田は、隣で檄を飛ばしていた片倉の男臭い横顔を思い出していた。
真田が軍に入ってすぐに直属の上官となったのが、当時はまだ少佐だった片倉だった。初めて部隊を預かった新米のぺーぺーだった片倉はしかし、片倉の上官にも負けない厳しさで自分の部隊を精鋭として育てるべく檄を飛ばしていた。
真田の今の地位や軍人としての要素の多くが片倉によって構成されたものだと言っても過言ではない。
遠縁にあたる信玄に感化されて軍人としての道を選んだが、それとはまた違う、軍人としての理想を片倉の背に重ねていたと言えるかもしれない。
いつか片倉のような軍人に、と日々懸命に職務に励む真田を、片倉はもちろん可愛がった。中佐昇進の折りには人事部に掛け合って真田を自分の秘書官にしたというのはまことしやかな噂として軍部で囁かれているが、それは事実だ。
そんな片倉に、真田は返しきれないほどの恩や感謝を感じていた。そして軍人として、また人間としても尊敬していた。
迷わずに進めと言った片倉の精悍な面に落ちた深い決意の影を思い出した真田はひとりはにかんだように薄く笑った。
片倉に認められたようで嬉しかったのだ。それが社交辞令的な上辺の言葉ではないことを誰よりも真田が理解している。片倉はそんなことを易く口にする男ではない。
笑みをかたどった厚い唇を真一文字に引き結んだ真田は曇りのない鳶色の眸で雲ひとつない清廉の空を見上げた。
「この間はご苦労だったな。真田少佐。」
背後から突然響いた声に真田の長い襟足が跳ねた。振り返った先には秘書官らしい若い男を連れている伊達がいた。艶やかなオレンジ色の髪の毛が演習場の土の色に溶けていくようだ。
色白の整然とした面は先日の合同演習の時に見かけた顔だった。
「こちらこそお世話になり申した。」
深々と頭を下げた真田のピンと伸びた背中に恐怖にも似たある種の警戒を認めた伊達は小さく喉を鳴らして笑った。
秘書官はそんな伊達の様子にも動じた素振りも見せずに彫像のように動かない。風が強い。
「なにか吹っ切れたように見えたが…何か心境の変化でも?」
わざとらしいほどの慇懃な口調で問う伊達の口元に浮かぶ穏やかな笑みさえも汚らわしいもののように思うのは、真田の行き過ぎた感情のせいだろう。
真田はその纏わりつく嫌悪感を払拭するように婉然と笑った。
「えぇ。某には尊敬できる上官がおりますので。」
「それはそれは。後学のためにもぜひともお話を伺いたいものだな。」
真田の表情に一瞬ではあるが驚きの表情を見せた伊達は、すぐにその表情をいつもの余裕を漂わせたそれへと戻した。
伊達の半歩ほど後ろ、いつでもその痩躯を真田と伊達の間に滑り込ませることができる場所で、秘書官である猿飛は露骨にその表情を歪めた。
真田の言う上官というのは、頬に傷のある男か、それとも隻眼の男か。そのどちらも、という可能性もある。それが頑なに伊達以外の人間との接触を良しとしない猿飛の癇に障った。
相手が誰でも信用だの尊敬だのと言う飾り言葉で誤魔化した甘えでくっついているだけのクソガキだと思ったのだ。年は確かに猿飛の方が幾らか下だろう。
その若さで少佐という階級にいる以上、少なくとも士官学校を出ていることは間違いなかったし、それに反して猿飛は10代にして親衛隊に入隊している。年の差は歴然だ。
しかし、人間としての完成度を鑑みるなら、間違いなく自分の方が上だと思ったし、真田の言う上官がどれだけすばらしいのかなど知ったことではないが自分の上官の方がよっぽどいいと思ったのだ。その幼い感情に名前を付けるには猿飛はあまりにも無知だ。
そんな猿飛の前で伊達は吐息だけで笑った。
「次はどうごまかされたのか、気になるところだ。」
「誤魔化しなど…それは伊達殿の得意分野では?」
「随分な言われ様だな。俺は真実を述べたまでだぜ。」
取り繕うのは趣味じゃねぇよ、と吐き捨てた伊達は、なぁ?と猿飛を振り返った。突然話を振られた猿飛は、それでも、はい、と返事を返して真田を温度のない瞳で見つめた。
「ま、アンタの上官に忠実なところは褒めてやるがな。」
「軍に於いて上官に逆らうなど、正気の沙汰とは思えませんので。」
「その忠誠がどんなもんかはさて置き、ウチの部下はその辺優秀にできてる。手本になる程度にはな。」
まただ、と真田は思った。纏わりつくような残虐の腐敗臭と不躾に全身を這う伊達の視線。
そんなものにはもう惑わされないと決めた心が波紋を描いてざわめく。不快感が全身を駆けた。
「…某ではまだたりない、と?」
「そうは言ってねぇよ。ただ、ウチの部下はアンタよりも可愛いっていうだけだ。」
薄い唇から血色のいい赤い舌をちらりと覗かせた伊達は、猿飛を振り返る。
不意に伸びた指先で猿飛の左腕を掴み、愉快そうに笑ってみせた。
「俺が、お前のこの手が気に入らねえって言ったら、お前はどうする?」
そうですね、と考えた風でもなく猿飛は腰からナイフを抜いた。
何を、と言いかけた真田の唇が声を出す前に固まった。
猿飛がそのナイフを振り上げると同時に、伊達の手は猿飛のそれから離れた。黒いコートの裾から伸びた白い指先を伊達の舌と同じ色をした液体が滑り落ちる。
「これで、よろしかったでしょうか?」
「お前は、本当に優秀だよ、佐助。」
猿飛の右手に握られたナイフが肘より少し下からずぶりと引き抜かれる。痛みに僅かに歪んだ猿飛の顔が真田の意識を呼び戻した。
さらりと猿飛の鮮やかな髪を撫でて笑う伊達と、無表情のままにナイフを元に戻した猿飛の映像を、おそろしいものでも見るように眺めていた真田が、手当をと震える声で呟いた。
「必要か?」
「いいえ、少将閣下の用件が済んでからで結構です。」
「だ、そうだ。」
「そんな、…」
おかしいと叫びかけた真田の肩を後ろから掴んだ者がいた。
「悪趣味ですな、伊達少将閣下。」
片倉だった。
掴んだ真田の肩を引き、もう片方の手で真田の両目を覆うと、人殺しの目が伊達を睨んだ。
帝国軍の軍人ならば死を覚悟するほどのその視線を、易々と受け流した伊達は小さく肩を竦めて片倉に笑ってみせた。
「過保護は軍を弱体化させるだけだぜ、片倉大佐。」
「ご忠告はありがたく受け取るが、我が軍では戦闘スキルだけではなく、情操の面に関しても厳しい訓練を積んでいるので貴殿に心配されるようなことはありませんな。」
「汝の隣人を愛せ、とでも?」
「まさか。隣人も愛してくれるとは限りませんからな。」
「アンタとは少しは気が合いそうだ。」
「残念ながら、私は貴殿が思っているほど残酷ではありませんよ。」
そりゃ残念だ、と伊達は残念がった様子など微塵も見せずに猿飛を連れて踵を返した。
砂利をふむ伊達と猿飛の足音が消えてから、片倉は真田の視界を奪っていた手を離し、気にするな、と呟いた。
「いつまでも居残ってやがるから様子を見に来たらこれだ。アイツには気をつけろよ。」
「おれは、…っ」
小さくなった二人の背中を眺めながら言った片倉を半ば突き飛ばすようにして片倉と向き合った真田は、ギリギリと唇を噛み締めて呻いた。
行き場のない憤りと情けなさが真田の臓腑をじりじりと燃やしている。
なんだ、と片倉は至極冷静な声で問うた。
「いつまで、いつまで大佐に守られていればいいんですか!?いつになったら俺は、」
真田の膝が崩れ落ちて地面に膝を付く。ギリギリと握られる拳が宛もなく振り上げられた。
「お前が俺の部下である限りずっと、に決まってるだろう。」
「それでは、俺はいつまでも情けない腑抜けのままではないですか!!」
「そのかわり、お前はおまえの部課をきちんと守ってやれ。それが今のおまえがすべきことだ。」
「大佐、」
振り上げられた拳がばさりと砂埃をあげて地面へ落ちる。
「俺に、テメェの部下まで面倒見させんなよ。」
砂利を鳴らして片倉がその場をあとにする気配が伝わる。
陽の光を吸った大地は、酷く暖かい。
End
守られた分、守ればいい。それだけ。