ベッドの上に横向きに転がっていた佐助の長い睫毛が震え、熱っぽい吐息が薄い唇から漏れる。
右手をベッドの上につき、僅かに浮かせた体の下に左腕を押し込むと、持ち上げていた頭を再び枕へ落とした。
ぼんやりと靄のかかったような思考が、寝起きのせいなのかそうではないのかがよくわからないが、肩や腰が酷く重たい疼痛にうずくこの感覚を佐助は知っている。
「熱でも出たかな…」
枕に向かって呟いてみるが、応える声はない。
(ここは俺の家なんだから当然なんだけど。)
体の下に押し込んだ左肩が軋む。
傷む関節を震わせて咳き込んだ佐助は下腹に力を込めて一息に体を起こしてベッドを降りると、よろめく脚に任せて床に座り込んだ。
充電器のコードでぐるぐる巻きになった携帯を取り上げ、受信しているメールを開かずにリダイヤルを開き、客の名前が並ぶそこから「代表」の2文字を探す。
画面の右端に表示された時間は小十郎の起床時間近くを示している。
通話ボタンを押して、立たせた膝に額を埋める。
明るい色の髪が垂れるこめかみが心拍に合わせてズキズキと痛む。
小さな頭蓋骨を震わせる呼び出し音を聞きながら右手でティッシュをつまみ上げて鼻をかむ。
『…なんだ?」
「寝起きの声、やらしくてたまんないね。」
鼻をかんでいる途中で呼び出し音が途切れ、低く掠れた声が応じた。
寝起きであることがすぐにわかる声だった。
軽く咳き込んだ電話の向こうが一瞬黙る。
その沈黙に向かって、待って!切らないで!と喚いて、具合が悪いので休みますと告げる。
小さな溜め息が佐助の耳朶を翳めた。
『テメェも風邪か。』
「も?俺様以外に風邪引いてるヤツなんていたっけ?」
電話の向こうで衣擦れの微かな音が聞こえ、煙草に火を点ける安いライターの音がする。
佐助は手にしていたティッシュで鼻水を拭いながら問いかけ、それをゴミ箱に向かって投げる。
的を外したそれは板張りの上に敷いた焦げ茶のカーペットの上にぽとりと落ちた。
舌打ちする。
『流行ってるから気をつけろとミーティングで言ったはずだが。』
「代表の唇がエロくて聞いてなかった。」
『人のせいにするな。とにかく早く治せ。出れるようになったら連絡しろ。それ以外に余計な連絡はしてくるな。いいな?』
煙を吐き出す音のあとに念を押すように紡がれた言葉を聞き流し、新しいティッシュをつまみ上げて鼻をかむ。
電話の向こうではきっと眉間に皺を寄せているのだろう。
それを想像してたまんねえ、と口の中でだけ呟いた佐助はティッシュを丸めて再びゴミ箱に向けて投げる。
今度はうまく入った。
努力はするどたぶん無理、と返して小十郎の返事は待たずに電話を切った。
膝を抱えたままカチカチと携帯を操作して届いているメールを確認する。
客からしか届いていないメールを一瞥して、今日の予定を思い出そうと結露した窓を見上げるが、熱に浮かされた頭では思い出すことができなかった。
携帯を放り投げ、鼻をかんだせいで具合の悪い耳の奥にこびりつく小十郎の声を反芻してよろよろと立ち上がる。
パジャマ代わりのスウェットの下を脱ぎ捨て、床に投げ出されたままのジーンズに脚を通す。
冷えた感触に身震いすると、放り投げた携帯を持ち上げて登録されているタクシー会社の番号に発信する。
タクシーを頼みながらワードローブの中からグレーのワイシャツを出して羽織り、ボタンを留めるのもそこそこに机の上の財布と煙草を掴んで尻のポケットにねじ込んだ。
キッチンの冷蔵庫から水のペットボトルを取り上げて、玄関に脱ぎ捨てたままのコートを着る。
ポケットの中にキーケースがあることを確かめた佐助は家を出る。

錆びた狭い階段を革靴の踵を鳴らしながら駆け下り、その下にしゃがみ込んでペットボトルの蓋を開けて一息に中身を煽る。
渇いた喉に滑り落ちる水は外の空気のように清涼感に溢れた冷たさだ。
佐助の目の前にタクシーが停まり、ドアを開ける。
運転手は顔見知りのオヤジだった。
タクシーに乗り込んで後部座席に脚を投げ出す。
助手席に背中に爪先が当たった。
「お店まで?」
「いつものマンション。」
「はいよ。」
行き先を訪ねながらドアを閉めた運転手は滑らかに車を出し、住宅街の中を大通りに向かって走り出す。
断りもせずに少し浮かせた尻から煙草を出した佐助をバックミラーで見ていた運転手は黙って窓を開けた。
開いた窓の下には禁煙のステッカーが貼ってある。
咥えた煙草に火を点けた佐助は、一口煙を吸い込んで盛大に噎せた。
咳き込む佐助をバックミラー越しに見た運転手が風邪かい?と問う。
佐助はまあね、と答えた。
「風邪なのにお仕事とはホストも大変だねぇ。」
「休むよ。やってらんない。」
「ありゃ、お客さんと会うのかと思ってたよ。」
「なーんで俺様がせっかくの休みに客なんかと会わなきゃいけないのさ?」
「あのマンション、お客さんの家じゃないのかい?」
しょっちゅうだからそうだとばかり思ってたよ。 運転手の言葉に、佐助はひらひらと左手をふって否定する。
煙草の先から昇る煙が乱れて窓の外へと流れていく。
「あそこは俺のダーリンのマンション。まぁ、まだダーリンじゃないけど。」
「お客さん、ソッチの人だったの?ホストなんてやってるから、女の子が好きなんだと思ってたよ。」
「女も嫌いじゃないけど、代表にはかなわないのよ。」
俺様もうメロメロ。 呟いて窓の隙間から短くなった煙草を投げ、背もたれに頭を預けて目を閉じる。
静かになった佐助に、運転手はもう声をかけなかった。
窓の外を流れる景色が徐々に華やかさを増していく中、目を閉じた佐助は耳に残る小十郎の声を脳内で再生しながら奥歯を噛んだ。
鼻をすする。
声を聞けば会いたくなる。
顔を見ればキスがしたいし、目の前にいれば抱きつきたい。
それだけ彼が好きなのだ。
髪の毛の一本まで自分のものにして離したくないが、彼はそんなつもりなど毛頭もない。
それでもいいから、とはまだ思えない。
美容師時代の友人には今の生活は言っていない。
そもそもそれほど仲がいい友達がいた訳ではない。
連絡を取らなくてはならない相手もおらず、ひっきりなしに鳴る携帯電話には客からの暇つぶしや聞きたくもない愛の言葉だけが舞い込む。
店と自宅を往復するだけの恐ろしく乾燥した生活の中で、彼だけが美しい光と強すぎる地場を持ってそこに君臨する。
もう彼だけが佐助の生活の全てだった。
彼がいなければ指先ひとつ動かすのも、呼吸ひとつすることも億劫で仕方がない。
彼が俺を生かしている。
噛み締めるように呟いた佐助のこめかみが揺れる。
これだけ彼を好きな自分をどれだけ伝えようとも、彼は佐助を受け入れはしない。
しかし、拒むこともしない彼の真意を佐助は掴めないでいる。
辞めると喚いたあの日、それでも彼は佐助の手のひらにライターを握らせた。
初めて彼に行くなと言われたような気がした。
ライターを握らせた彼の指先が冷たく震えていたことを思い出す。
触らせてもくれるし、一緒にも寝てくれる。
それでも越えさせない一線の意味が自分と彼の中では大きく違うのだろうと思った。
今はとりあえず現状で我慢しよう。
できる自信はないけれど。
吐き出した溜め息は熱っぽく渇いている。
「着いたよ。」
運転手の声に目を開けて、財布の中から千円札を2枚出して渡す。
釣りはいいよ、と言って静かに聳えるマンションのエントランスに降りた。
暗証番号で中に入り込む。
エレベーターに乗り込んで壁に重たい頭を預けながら防犯カメラを睨みつけた。
鏡面になったエレベーターの壁に映る佐助の顔色が悪い。
俺、今日ブサイクだね、と呟いてエレベーターを降りた。


脚を引き摺るようにして小十郎の部屋の前に立つ。
コートのポケットに入っているキーケースを握り締め、左手でインターフォンを押す。
鍵が開く気配はない。
『一回で出なかったら勝手に入ってこい』
彼の言葉を思い出したが、佐助はポケットの中で鍵を握り締めるだけだ。
この扉の向こうに、彼以外の誰かがいたら。
もしくは誰もいなかったら。
迷惑がられることもあるかもしれない。
なにしろ、今の佐助は風邪菌を保持している。
廊下に吹く風がいつもより冷たいと感じるのは熱のせいか、開けられない鍵のせいか。
佐助は扉の横の壁に背を預けてズルズルと座り込んだ。
前を開けたままのコートで細い膝を包む。
少しだけ寒さを凌げる。
鍵を開ける勇気も、もう一度インターフォンを鳴らす勇気もない。


どれくらいそうしていたのかはわからないが、熱に火照る体が小さく震え始め、ホケットにつっこんだ指先が冷たくなった頃、鍵が開いた。
そのまま扉が開き、前髪を下ろしたままの小十郎が顔を出した。
「いつまでそうしてる。」
「……寒い。」
「俺もだ。早く入れ。」
頭上から降る声に億劫そうに視線を上げた佐助は、支えを失って閉まり始める扉に膝を挟んでそれを阻止するとのろのろと立ち上がる。
どうにか中に入れた安心感に、膝の力が抜けた。
倒れ込むように玄関に入り、座り込んで靴を脱ぐと、四つん這いで居間に向かう。
小十郎の姿はとっくになくなっている。
「何しにきた?」
「代表とやらしいことして汗かきに。」
言いながら床に伸びた佐助を見つめる小十郎の目はどこまでも冷ややかだ。
そんな熱い眼差しで見ないで、熱上がっちゃう。
床に伏せたまま鼻声で言う佐助から視線を外した小十郎は無言で立ち上がって寝室へ消えた。
やだ、代表ってばやる気満々、と呟きながらも体を起こす気力がない佐助は寝室へ向かう小十郎の踵を眺めていた。
すぐに戻ってきた小十郎は床に転がる佐助の小さな後頭部に体温計を投げて、次は台所へ向かう。
のろのろと体温計を脇に挟んだ佐助は床の上にあぐらをかいて座り込む。
その丸くなった背中を、対面式のそこから眺めながら溜め息を吐いた。


佐助が来ることは予想の範囲内だった。
インターフォンが鳴った時に、やっぱりな、と口角を上げたのは小十郎しか知らないことだ。
鳴らされたインターフォンに応えず、鍵を開けて勝手に入ってくる佐助に向ける不機嫌な顔を用意していたが、待てど暮らせど鍵は開かない。
バカが、と呟いてから鍵を開けた。
廊下に座り込んだ佐助の顔は青白く、前髪の分け目から見える白い額には青い血管が透けていた。
そんなに具合が悪いならおとなしく家で寝ていればいい、と胸中に吐き捨てた言葉は、鍵を開けなかった佐助への暴言だ。
それでも使われない鍵を取り上げる気にはなれない。
ピピと鳴った体温計の音に、止めていたてを動かしてコーヒーとミネラルウォーターを手に居間へ戻る。
「何度ある?」
「38℃ちょっと。」
ぼんやりしている佐助の手から体温計を取り上げて38.8℃は8℃ちょっとじゃねえよ、と小さな頭を叩いた。
代表のサド!もしかしてそう言うプレイがいいの?俺様縛られてもいいよ抱いて、と脚にしがみつく佐助を蹴るようにして引き剥がし、ソファに座る。
小十郎の足元まで這ってきた佐助はいつものように小十郎の膝に乗り上げてソファの開いたところに小十郎の体を押し倒す。
佐助をどけようとする小十郎の手首を掴み、ソファに押し付けながら首筋に鼻先を埋める。
「代表シャワー浴びた?いい匂い。」
「どけ。俺はもう出る。」
「どかないよ。代表が抱いてくれないなら俺が抱く。もう代表ってばやらしくてたまんない。」
「どうしてそうなる…」
深い溜め息を吐いた小十郎は、首を甘噛みして顔を近づける佐助に、風邪は移すなよと呆れを隠さない声で言う。
熱い吐息が耳朶をくすぐり、小十郎の背中が震える。
諦めた小十郎は体の力を抜いて佐助のやりたいようにさせる。
トレーナーの裾から入り込んだ熱い指先が腹筋を弄っていたのが止まり、浅い寝息が聞こえ始める。
熱く華奢な体を抱き、危なかったと呟く。
首に蹲る派手な髪の毛に指先を押し込み、形のいい後頭部をぐしゃぐしゃと撫でて手を離した小十郎は暫くそのままでいた。
ピタリと貼り付いてくる薄い胸が2枚の布を挟んで小十郎の胸を柔らかく圧す。
熱いな、と呟いた小十郎は汗ばんだ胸から佐助を下ろして立ち上がる。
ソファに転がした佐助を暫く見下ろしてテーブルの上の煙草の箱から一本を抜き出して火を点けた。
燻る煙の向こうに苦しそうに眠る佐助の寝顔を眺める。
「俺が女じゃなくてよかったな。」
今頃叩き起こされてる、と小さく笑った。
ゆっくりと煙草を灰にし、軽い佐助を抱き上げて寝室のベッドに転がす。
ベッドの冷たさに体を丸めた佐助に毛布をかけて身繕いをしてから部屋を出た。

End
たまらないのは俺の方だ。

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