風邪が治った佐助は、5日目にして小十郎の部屋を追い出された。
毎日作った食事は、結局一口たりとも食べては貰えなかった。
摘んだ品々の味を思い出して、俺様って料理上手なはずなんだけどなと思いながら咥えた煙草に火を点ける。
熱が下がっても続いた嘔吐感が治まり、ソファでのんびりと新聞を読んでいた佐助は起きてきた小十郎に今日は早番だぞと言われて玄関に放り出されてしまった。
仕方がなく自宅へ帰り、シャワーを浴びたが、風邪を引いて寝るだけの生活をしていたせいですっかり昼型の生活リズムが出来上がっていた。
やはり、人間は夜寝て朝起きるようにできているのだなと妙な所で関心はしたが、出勤時間は待ってくれない。
眠たいし行きたくないし頭が痛いとぼんやりしているうちに家を出る時間だった。
仕事は面倒だが小十郎に叱られるのはもっと面倒だった。
彼は俺にだけ厳しすぎる。


下着姿の女が胸の谷間を突き出して笑う看板の横を通り過ぎ、同伴でよく使う焼き肉屋の前を通り過ぎる。
三軒向こうにも焼き肉屋があるが、こちらの方が安く済む。
浮いた分はもちろん店で使わせる。
ちらりと見えた店の奥に派手な銀髪がいた。
元親は同伴ね、と小さく頷いた佐助に顔見知りの客引きがバックレたかと思ってたと声をかける。
風邪だよ風邪と返して店の前に辿り着いた。
まだ灯りの入らない看板を避けて店の扉を開ける。
おはよーございまーすと間延びした挨拶をしながら自分の宣材写真が張り出される前を通り抜けてカウンターに辿り着く。
小十郎がレジの中身を数えていた。
「代表、お尻触っていいですか?」
「触って死ぬか、触らずに生き延びるか選べ、3秒やる。」
「代表に抱いてもらうまで死ねないけど、触って死ぬならそれもアリ。でも3秒じゃ決めらんない。」
小銭をレジへ戻す小十郎の背中に、カウンターに肘をついて答えるついでに出しっ放しの灰皿に短い煙草を押し付けた。
さっさと準備しろと呆れた声で返され、佐助はまだぐずる鼻をすすって更衣室へ向かう。
タイムカードを押して、コートを脱ぎながら自分のロッカーを開けた。
中に雑多に積まれたブランドの箱や袋が崩れて足元に落ちる。
落ちた拍子に開いてしまったらしい箱から転がり落ちたのは小十郎から貰ったのと同じライターだった。
疵ひとつないそれを拾い上げてまたロッカーに押し込むと、扉で押さえるようにしてロッカーを閉めた。
くるりと肩を回してスーツが皺になるのも気にしないで長椅子に仰向けに寝そべった佐助はスーツのポケットから煙草の箱を出して一本を咥える。
箱に入れてあった100円ライターで火を点け、頭の下に両手を入れて天井を仰ぐ。
こうしていれば開店と同時に指名客が来るはずである。
さっきめぼしい何人かに「薬を飲んだから酒が飲めない。逃げ卓にしたいから来て欲しい」とメールを打っておいた。
薬を飲んでいるのは本当のことだ。
少しくらいなら呑めなくはないが頭痛薬を飲んできたことを思うと気が進まなかった。
すでにエースからはオーラスで行くという返事が来ていたしそれ以外の何人かも時間をずらしてくるという連絡があった。
ドリンクとフードだけではたいした数字にはならなさそうだが、それでも休み明けに客を呼べないという不名誉からは逃れられる。
2卓も被らせれば上出来だろう。
のんびりと目を閉じていた佐助の耳に扉の開く音が届く。
気怠げに向けた視線の先には元就がいた。
手には大きな紙袋を持っている。
「なりさんおはよー。」
「早いな。具合はいいのか?」
「よくも悪くもって感じかな。そのでかい紙袋何よ。」
「元親がこの間泊まった時に忘れていった。」
長椅子に寝そべったまま元就に向き合うように体の向きを直す。
元就は佐助が仲良くしている数少ないホストのひとりだ。
佐助がえる煙草の先から長くなった灰が床に落ちたが、佐助も元就も何も言わなかった。
元就は紙袋を元親のロッカーの前に置き、さっさと佐助に背を向けた。
「元親、たぶん同伴だよ。さっき焼き肉屋にいるの見た。あそこの安い食い放題のとこ。」
「そうか…我もこのあとは同伴だ。元親のロッカーに入れておくか。」
みんな同伴なのか、頑張るね、俺様ムリだわとひとりで喋っている佐助を放置して、元就は何も入っていない元親のロッカーを開けて紙袋を押し込んでいる。
その後ろから続々とホストが出勤してくる。
開店時間はもう目の前だ。
一気に人口密度が高くなった更衣室を元就と一緒に出てカウンターのスツールに腰掛ける。
元就はそのまま店を出て行った。
小十郎はシフト表にそれぞれの出勤時間を書いているところだった。
「代表、なりさん同伴だって。」
「聞いた。」
「元親も同伴だよ。焼き肉屋にいた。」
それも聞いてると答えた小十郎の後ろ頭を眺めながら、カウンターに右頬をくっつけて顔を伏せる。
つまんねえと呟いた佐助の声に小十郎は顔を上げた。
「テメェの予定は?」
「オーラスでサキ8時にサナカと10時にルイ。今日は薬飲んできたからノンアルコールデーでーす。」
「予定どおりに行けばいいがな。」
「バックレはないよ。逃げ卓で呼んであるし、皆俺様のこと大好きだもん。代表とは違って。」
「そうか。」
「ちょっと、そこ否定する所だから。代表もそんなこと言って実は俺様のこと好きでしょ?愛しちゃってるでしょ?そんな照れ屋な代表も大好きだから安心して本当のこと言いなよ。」
一息に喋る佐助を小十郎の冷たい視線が舐める。
少しは息継ぎした方がいいぞ、と放り投げるように言う小十郎の視線は佐助のつむじを見ている。
佐助は相変わらずカウンターに伏せたままの姿勢で適当に話している。
ムリをさせたかもしれないと思った小十郎は無言のままで佐助の派手な頭をかき回すようにして撫でた。
佐助の薄い肩が跳ねる。
ふれた指先では熱はないようだが、二日ほどずっと吐いていたことを思うとやはり本調子ではないのかもしれない。
「具合どうなんだ?」
「よくも悪くもだよ。お仕事くらいはできそうだから出勤してんの。それに出勤しろって言ったの代表じゃん。」 「そうか。」
「代表今心配した?ねえ、」
「そうでもねえよ。」
平静を装って返事をし、佐助の頭から手を離して元親と元就の欄に赤ペンで同伴と書き込む。
佐助の後ろから出てきたホストに看板つけといてくれと声を掛けてボールペンを置く。
続々とホストがキャッチに出て行った。
その背中を眺めていた佐助がだらしないねえ指名くらいしゃきっと呼びなさいよと喚いている。
その姿勢が一番しゃきっとしていないことは指摘せずに放っておいた。
「そろそろ店開けるからテメェもそこでだらけるな。」
「病み上がりに出勤してるんだから褒めてくれたっていいのに。」
同じ姿勢のままでぶすくれた声を上げた佐助だったが、結局サキからの電話で駅まで迎えに出た。
戻ってくる佐助のためにキープのボトルを出してアイスを用意する。
カウンターの中に戻って伝票を作ったところでサキを連れた佐助が戻ってくる。
客の荷物を佐助から受け取り、クローゼットにコートを掛ける小十郎の背中に佐助が「同伴つけといてください」と声をかける。
こういう所ばかり狡賢くなっていくのはどう言うことだと思いながらも伝票とシフト表に同伴の文字を書き足す。
ヘルプのためのホストを呼び出したところで店の電話が鳴った。
新規の客が佐助を指名したいが席は空いているかと言う。
席は空いているが生憎佐助は指名が入っている。
少し待ってくれと答えて保留にし、佐助をカウンターに呼んだ。
「なんすか?」
「テメェを指名したい新規の客から電話だ。今から来るらしいがどうする?」
「サナカ断わるから呼んでいいよ。」
俺もそろそろ新規欲しいし、と言って佐助は卓へ戻った。
保留を戻して被りでも良ければ席は空いていると伝えた。
電話の相手は30分ほどで着くと言って電話を切った。
有名店となればこのような電話も別段珍しくはない。
ナンバープレイヤーの3人の宣材写真は雑誌や風俗情報誌に載せる広告に出ている。
それを見た客が最初からそのうちの誰かを指名してくることも珍しくない。
キャッチに出ているホストの中からサキと仲のいいホストを呼び戻してヘルプ指名を入れさせるように仕向ける。
そうしておけば本指名の佐助が長く席を外しても客の機嫌が損なわれることはない。
佐助もそれくらいは理解しているのだろう。
ヘルプを入れ替えてすぐにヘルプ指名が入った。


その電話からしばらくして、何組かの客が入る新規もいれば指名もいる。
週末としては早い混み始めだが、混まないよりはいい。
同伴に出ていた元就が戻り、元親が客を連れて出勤してくると然程秘匿はない店内は混み合う。
12卓あるうちの10卓が埋まり、空いているのは無理矢理作ったような狭い2卓とVIPだけになった。
そこかしこで笑い声が上がる中、小十郎は再び佐助をカウンターに呼んだ。
「次の客来たらVIPに入れるからな。」
「え、新規でVIPとか怖い。」
「死角になる卓がない。諦めろ。」
えー!と声を上げた佐助だったが、サキには本営をかけていることを思い出して諦める。
サキは嫉妬深いのだ。
新規への営業で妬かれると面倒なことになる。
売上競争に持っていければいいが、今日は何しろノンアルコールと宣言している以上それも難しい。
ジュースばかり卓に並べても格好がつかない。
佐助が渋々承諾したところで店のドアベルが鳴る。
入ってきたのは長い黒髪を緩く巻いた控えめな印象の女だった。
すかさず小十郎が彼女を迎え入れ、ご指名はと聞くと、案の定先程お電話でという返事が返ってくる。
彼女の視線はずっと佐助に向いている。
佐助、と声を掛けて彼女をVIPに通させる。
預かった荷物を一度カウンターに置き、アイスとメニューを持ってそのあとを追いかけた。
テーブルをセッティングする小十郎の耳元に佐助が「サキに何も言ってない」と耳打ちする。
俺が暫く着いててやると返してボトルと佐助のモスコミュールのオーダーを取ってVIPをあとにする。
ボーイに新しいボトルを出させて小十郎は佐助のモスコミュールを作る。
もちろんウォッカは抜いて。
グラスに入れただけでモスコミュールになったジンジャエールをボーイの手に押し付け、カウンターに置いたままの荷物をクローゼットに片付けて伝票を作ってサキの卓へ顔を出した。
サキは代表も一杯飲んでいきなよと笑った。


小十郎が着いたことでヘルプが緊張するのがわかったがビールを飲みながら談笑する。
笑わない目ではヘルプの仕事をチェックし、あとで説教だなと内心溜め息を吐く。
そんな小十郎の元へボーイが小走りに寄ってくる。
VIPにドン白でます、と囁かれた小十郎はサキに笑顔を向けると一言断わって名刺をグラスに乗せると立ち上がった。
グラスとシャンパンを準備するボーイの背中を眺めながら伝票にドンペリと書き足しながらアイツはバカなのかと深い溜め息を吐く。
ノンアルコールだと高らかに宣言したのはドンペリを卸させた佐助本人だ。
シャンパンコールで賑やかになった店内を眺めながら席に着いていた間の伝票を整理する。
一本シャンパンが卸されると連鎖的にシャンパンが出る。
今日は一番乗り気でなかった佐助が口火を切った。
元親の卓と元就の卓で1本ずつモエが卸され、一周まわってピンクだってさ、と言いにきた佐助の顔色が悪い。
「顔色が悪いぞ。」
「薬とシャンパンのダブルパンチだよ。今日絶対に代表の家に帰る。それで甘やかしてもらう。あわよくば抱いてね代表。」
「来るな。…それより大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫、心配しなくても代表に抱かれるくらいの元気は残ってるから。それとももしかして代表って絶倫?だから俺様の心配してるの?」
「まず息継ぎをして、次に席へ戻って客の財布の中身を確かめろ。」
伝票に落としていた視線を鋭くして小十郎が佐助を見つめる。
へらへらと笑っていた佐助はその視線で真顔になると首を横に振った。
意味を図りかねて佐助を見つめたままの小十郎に佐助がカウンターに乗り上げて手招きをした。
頭を傾けて差し出された小十郎の耳に唇を寄せる。
「テーブルに2本積んであるから金払いは間違いないよ。ってことでピンクだそうです。」
顔を離す間際に小十郎の耳朶をかじった佐助が手を振りながらトイレへ消えていく。
突然来て200万をテーブルに積んで呑むなど尋常ではない。
小十郎は眉間に皺を寄せてなかなかトイレから出てこない佐助を待つ。
この様子では吐いているのだろう。
ボーイが佐助さんどこ行きました?とカウンターを覗きにくるのへ、回していたボールペンの尻でトイレの扉を指して答えた。
ピンク準備できてますから、と消えていくボーイに伝えておくとだけ答えて再び手の中でボールペンを回す。
暫くして出てきた佐助の骨っぽい肘をカウンター越しに掴んで何かあったらすぐ呼べと囁く。
わかってまーすと手をヒラヒラさせて佐助はVIPに戻っていった。


見せは何時もの週末の賑やかさだ。
密やかに談笑する卓があれば賑やかに盛り上がっている卓もある。
一部の閉店時間まで1時間を切ったが、佐助はその後に来たルイの卓と合わせて3卓を被らせたまま行ったり来たりしている。
VIPではあれからまた何本かシャンパンが卸され、サキの卓へ戻る佐助がぐったりとサキの肩へ頭を預けて甘えている。
その合間にトイレへ籠る。
小十郎はその度にトイレの方を睨みつけるように眺めては溜め息を吐く。
まだ本調子ではないだろうことは分っていたのに出勤させた自分と、逃れようのないアルコールがあることを分っていながら薬を飲んで出勤してきた佐助への怒りが小十郎を急かすように苛立たせる。
ボールペンの芯を出したり戻したりして気を紛らわせ、意味もなく電卓を叩いて別のことに集中しようと試みるが、何しろ3卓もかぶった佐助は20分に1回はカウンターの前を通ってトイレへ行く。
最初のうちはくだらないことを話して行ったが途中からは小十郎の顔を見ることもなく小走りにトイレに駆け込んでいく。
その20分をカウントして付け回しをするのは小十郎の仕事なのだからたまらない。
トイレから出てくる度に顔色を失ってやつれる佐助の表情を見ていると満卓ではあるが早閉めしたくなるから困る。
電卓に0を並べていた手を止めて大きく溜め息を吐いた。


カウンターの中から店内のあらゆる場所へ視線を流す小十郎の目が届かないところで事態は起きた。
最初は派手にグラスが割れる音だった。
直後に甲高い女の叫び声。
それが悲鳴ではないことはすぐに分った。
一瞬店内の喧噪が静まり返り、徐々にざわめきを取り戻す。
その中を小十郎とルイの卓にいた佐助が走る。
VIPの中をのぞいた佐助は後ろに控えていた小十郎を振り返って鋭い声で箒とだけ言ってなぜか怒っているらしい客の隣に座った。
それを横目に見た小十郎は裏へまわって箒を取りにいく。
どうやらグラスが割れたらしい。
箒を片手にホールを横切りながら心配そうな顔をした佐助の指名客たちに大丈夫だと目配せする。
内心では彼女たちよりも小十郎の方が動揺していた。
まともじゃないと思った客が案の定やらかした。
それだけのことなのに、佐助が絡んだだけで落ち着けない。
タイミングが悪い、と溜め息をつきながら扉をノックして少しだけ開ける。
中を覗くとヒステリックに何事か叫ぶ客が佐助の頬を叩いたところだった。
佐助の小さな頭が傾いで、割れたグラスの破片が散るテーブルにぶつかりかけたところでドアを押し開けて箒を放り出して左手を伸ばした。
テーブルと佐助の頭に挟まれた手のひらに鋭い痛みが走る。
テーブルの上に血が広がり、どうしようもなく立ち尽くしていただけのヘルプが代表、と小さな声を上げた。
「佐助。怪我ないか?」
「いや、俺より代表が…」
一瞬慌てたように頭を上げた佐助がシャンパンの零れた床に座り込んで振り返り、小十郎の手と顔を交互に見遣るがどうも焦点が合っていないように思う。
飲み合わせも考えずに薬を飲んできたらしい。
頭痛薬かと小さく舌打ちした小十郎はヘルプに箒を押し付けて血の滴る左手をポケットにつっこんでカウンターに戻る。
黒のスーツで良かった、とぼんやりと思った。
カウンターの下に入れてある救急箱の中からガーゼを出して、手のひらに刺さった破片を抜く。
割れたのは薄いフルートグラスだったようだ。
給料から天引きだな、と溜め息をついたところで何事ですかと慌てたボーイが小十郎の手を見て問う。
VIP片付けてこいとだけ言ってガーゼを手のひらに押し付けた。
走っていくボーイと入れ違いに佐助が顔を出した。
拗ねたように俯いて歩いてくる。
「代表、俺…」
「具合が悪いなら先に言え。指名卓全部帰らせろ。」
「でも、」
「いいから帰らせてテメェも帰れ。あと、薬を飲むなら少しは飲み合わせを考えろ。頭痛薬なんて飲んでくるんじゃねえ。」
「なんで知って、」
「焦点が合ってねえんだよ。」
佐助を見ないままで舌打ちをした小十郎が言うと佐助は俯いて拳を握りしめた。
ガーゼを押し付けて止血しただけのてで佐助の伝票分の電卓を叩く。
会計を書いた紙を佐助に押し付けて早く行けと視線で促す。
暫くカウンターに突っ伏していた佐助は背を伸ばしてホールへ戻っていった。
その背中を確かめて小十郎は厨房に放り出されていたタオルで流れた血を拭き、それを持ってカウンターへ戻る。
全ての卓の会計を回収してきた佐助はのろのろとクローゼットから客の荷物を出している。
小十郎が数える札にガーゼに染みた血が移る。
釣りを用意した小十郎は無言のままで佐助から荷物を受け取って客の元へ行く。
それぞれに頭を下げて佐助は具合が悪いから帰らせると告げた。
サキだけが代表も早く病院行きなよ、と左手を指して言った。
ヘルプに付き添われて店を出る客を笑顔で送り出した小十郎は更衣室へ向かう。
佐助は更衣室のパイプ椅子に逆向きに座って椅子の背に顔を伏せていたが、扉の閉まる音に顔を上げた。
「すみませんでした。」
「何かあったら呼べと言っただろ。」
「何かあったわけじゃない。」
「具合が悪かったんだろうが。」
「たいしたことない、」
佐助は小十郎を見ないままスーツの袖のボタンを弄くりまわしている。
小十郎は苛立ちまぎれに煙草を出して咥える。
火を点けようとして左手の痛みに顔を顰めた。
それを横目で見ていた佐助が立ち上がり小十郎の手からライターを取って火を点け、煙草の先に火が移ったのを見てライターを机に放り出した手で小十郎の左手を取る。
ガーゼが血で貼り付いているだけのその手を包むようにして握った。
「痛い?」
「そうでもねえよ。」
「俺のせいで、代表に怪我させた。」
「怪我するって分ってて手ェ出したんだ。気にすんな。それよりテメェも帰れ。帰ってちゃんと寝ろ。」
俯く佐助の頭がフラフラと揺れている。
昇る煙越しにオレンジ色の頭を眺めていた小十郎はそっと佐助の手を剥がし、タクシー呼んでくると告げて踵を返して更衣室を出る。
後ろ手に閉めた扉の向こうで佐助がロッカーを殴りつける音が聞こえた。
小さく溜め息を吐いて厨房で煙草を消してからカウンターに向かう。
小十郎の代わりにそこにいたボーイが手当てしますよと言うのに頷いて手を差し出す。
おしぼりで血を拭ったボーイがひでえなと呟く。
小十郎の手のひらには深い傷がいくつも刻まれ、真っ赤な肉が見えている。
「病院行った方がいいんじゃないすか?」
「まだ二部があるだろうが。」
「俺が見てますから代表は帰って病院行ってきてください。」
これ縫わなきゃムリっすよ、と言いながら新しいガーゼを当てて包帯を巻いていく。
器用に巻かれていく包帯から視線を外して右腕にはめた時計を見る。
そろそろ一部はラストの時間になる。
解放された左手で電卓を引き寄せて、一部が終わってからなとボーイを見ないまま呟き、電卓を叩いていく。
心拍に合わせて傷が疼くがどうしても仕事ができないほどではない。
タクシー一台呼んでくれとボーイに伝えて電卓に表示された数字を紙に書き写していく。
力を入れると傷が痛んだ。
短いやりとりの後に受話器を置いたボーイがすぐ来るそうですと言うのを背中で聞いて頷く。

「佐助を帰らせる。呼んでこい。」
「はい。」
ボーイが更衣室に向かって走っていくのを横目に見て、次の伝票を捲る。
元親にラスソンを歌わせ、カウンター以外の照明を落とす。
暗闇の向こうからボーイに肩を借りた佐助が出てきた。
その佐助に手招きするとボーイから離れてカウンターに凭れて立った。
「俺もすぐ帰るから俺の家に帰ってろ。鍵は持ってるな?」
耳元で言うと、佐助はのろのろと頭を上げて焦点の合わない目に困惑の色を浮かべた。
至近距離で見る佐助の薄色の眸が叱られた犬のように揺れる。
部屋の中で待ってろよと念を押すように言って、行けと右手で示す。
再び俯いた佐助は頼りなく目尻を下げたが、ボーイに半ば引き摺られるようにして店を出て行った。
すぐに戻ってきたボーイに会計を書いた紙を押し付けて照明を明るくした小十郎は売上を計算する。
反射的に見たままの数字を叩き、売上を計算する脳の片隅に自分の手を取って俯いた佐助のつむじを思い出す。
佐助が自分を好きなことは分っている。
それに答えないのは自分の勝手だということも。
佐助が薬を飲んできていることを知りながら、シャンパンが出る可能性を考えずに新規を入れた。
アルコールを飲まずに済む方法を佐助は最初から用意していた。
様子がおかしいことに気付きながらも止めなかった。
結果がこれだ。
かろうじて佐助に怪我をさせるという最悪の事態は免れたが、それは全て代表としての自分の落ち度だ。
何より佐助を傷付けた。
佐助はこの怪我を自分のせいだと言って自分を責めるだろう。
ギリギリと握り締めた左手の包帯に血が滲む。
会計を回収してきたボーイがやっぱ病院にと呟いた。小十郎はそれに首を横に振るだけで応えた。
受け取った現金を数えて釣りをボーイに渡す。
さっきの出来事など忘れてしまったような客がホストに付き添われて店の外に吐き出されていく。
作った笑顔で彼女たちを送り出し、人のいなくなった店の中を眺める。
泣き出しそうな佐助の顔がぼんやりと脳裏に浮かんだ。
ひとりで泣いているかもしれない。
ボーイが慌ただしくテーブルの上を片付けるのを眺めて、売上だけを袋に選り分ける。
その袋をカウンターの下の金庫に放り込んだ小十郎は、厨房へ向かっていくボーイを呼び止めて帰ることを告げる。
ボーイはほっとした顔を見せた。
「二部の売上は触らなくていい。俺が明日やっておく。掃除と戸締まりだけきっちりやっとけ。」
「わかりました。代表、ちゃんと病院行ってくださいよ。」
「早く起きれたらな。」
「今から救急で行ってくださいってば。」
めんどくせえと返し苦笑するボーイにレジの鍵を投げると背を向けてコートを羽織る。
一部の伝票と書類を入れたアタッシュケースを持って店を出た。
客を送り終えて店に戻るホストたちの挨拶に手を挙げるだけで応え、大通りでタクシーを拾った。
朝方帰るときのような倦怠感に襲われながらシートに体を沈める。
じわじわと痛む左手の包帯は既に血で汚れている。
家には絆創膏の一枚もないことを思い出して、自宅近くのコンビニでタクシーを停めた。
暫く待っていてくれと運転手に告げて、便利な世の中に感謝しながらコンビニで弁当をふたつとガーゼと包帯を買ってタクシーに戻った。
先に帰っているはずの佐助はきちんと部屋の中で待っているだろうか。
ちらりと腕時計を見る。
佐助を返してから30分以上が経っている。


タクシーを降りてエントランスを抜ける。
狭いエレベーターの中に暖めた弁当の匂いが充満するのを感じながらエレベーターを降りてポケットから自宅の鍵を出す。
足元に落としていた視線を上げた小十郎の視界に、部屋の扉の前で蹲るオレンジ色の頭を見つけた。
闘い疲れたボクサーのように脚を投げ出して扉に凭れて座っている。
その左側にコンビニの袋が見えた。
「入って待ってろって言っただろ。」
「代表、俺」
「近所迷惑だ。通報される前に入れ。」
扉を開けてコンビニの袋を握り締めたままの佐助を引き摺り立たせて玄関に押し込んだ。
座り込んでのろのろと靴を脱ぐ佐助を置いて電気を点けながら居間へ向かう。
悪かった、と抱き締めたら佐助はどんな顔をするのだろうか。
テーブルの上にアタッシュケースと弁当を置いてソファに崩れるように座る。
血に濡れた包帯がソファの合皮を擦ったが気にしないで目を閉じる。
ズルズルと脚を引き摺る音を立てて居間に入ってきた佐助はテーブルの上にコンビニの袋を放り投げ、もう定位置になっている小十郎の膝の上に向かい合って座る。
佐助が投げた袋の中から新品の包帯が転がって床に落ちた。
投げ出した小十郎の左手を取って斑に色を変える包帯を剥がしていく。
何してると問う小十郎には応えずに包帯を床に落とした佐助はガーゼを取る。
「痛くないわけないでしょ。まだ血出てるし、ガラス刺さったのに、痛くないわけ…」
佐助の声が震えを伴って掠れる。
小十郎の傷付いた掌に暖かい雫が落ちて傷をぴりぴりと痛ませる。
自由な右手で佐助の頭を叩くように撫でた小十郎は痛くねえよと呟いた。
「弁当、食えるか?」
「いらない、アンタがいい。」
「俺は食いもんじゃねえ。」
「弁当食うなら俺がアーンってしてあげるし、風呂入るなら俺が隅々まで洗ってあげる。アンタができないことは全部俺がやってあげる。だから、」
「全部自分でできるからテメェはおとなしく寝てろ。」
小十郎の掌から溢れた血が佐助のグレーのスーツの膝を汚す。
汚れたぞと声を掛けてテーブルの上のティッシュを掌に乗せる。
じわりと血が染みていった。
アンタのものなら血でもゲロでもいいよと呟いた佐助はティッシュで小十郎の掌の血を拭って、腰から振り返ると机の上に散らばったガーゼの袋を取り上げる。
それを歯で開けて中身を小十郎の掌に乗せた。
そのまま小十郎の膝から降りて転がり落ちた包帯を取ると、再び小十郎の膝の上を陣取って包帯を巻き始める。
器用に巻かれていく包帯を見つめていた小十郎が意外だなと呟くと、まだ焦点の合わない佐助の目が問うように小十郎を見た。
「もっと不器用だと思ってた。」
「元美容師だからね、俺様。手先は器用だよ。」
テープで包帯の箸を止めた佐助が小十郎のネクタイを解いて、一番上まで留められたワイシャツのボタンを開ける。
剥き出しになった鎖骨に唇を当てゴメンと呟く。
小十郎は跳ねた佐助の襟足を梳く。
「テメェに怪我がなくてよかった。」
「俺は別に…」
「そんなことになってたらあの女も、俺も許せそうにない。」
「なんで代表が」
「テメェの具合が悪いことも、薬飲んできてることもわかってて止めなかった。もっと早く帰すことだって俺にはできた。」
「新規でシャンパンはないと思ってた俺の落ち度でもあるし。」
「テメェに知らせないで断わらなかった俺の落ち度だ。」
悪かったと呟いて佐助の細い背中を抱き寄せる。
腕の中で佐助が息を詰めた。
時計の音だけが響く部屋の中で湿度の高い呼吸だけが互いの体に触れる。
小十郎の鼻先を掠める甘い匂いは佐助の香水か、客のものなのか。
抱き寄せる腕を緩めて胸元に蹲るオレンジ色の頭を上げさせた。
「キスしてやるから暫くおとなしく寝ててくれ。」
え、と聞き返そうとした佐助の声は小十郎の厚い唇に呑み込まれた。
壊れ物に触れるように啄んだ唇が離れ、後頭部を押さえられて胸に顔を押し付けられる。
隙間をなくした胸の奥で小十郎の心臓が早鐘を打っている。
忘れろよと頭上に降る声に、絶対忘れてやらないと返して小十郎の背中に腕を回した。

End

今日は記念日!

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