佐助がわずかに身じろいだベッドがある部屋はもう既に夜の帳が落ちていた。
長い睫毛を震わせて色素の薄い眸がぼんやりと焦点を合わせ、やがて跳ね起きる。
勢い良く体を起こした隣で今朝一緒に眠りに就いた小十郎の姿はない。
窓の外、遠くでクラクションの音がした。
佐助たちが勤めるホストクラブがある繁華街の外れにあるこのマンションでは、外の喧噪で時間を計ることはできない。
すぐ傍には朝も夜もなく賑わう街がある。
寝癖が絡まった半端な長さの髪に指をつっこみ、違和感を感じるほどに逆立った毛束を押さえる。
乾燥した暖かい空気抱けが渦巻く部屋の中をぐるりと見回しながら空咳をひとつこぼした。
隣の居間へと続く扉の足元の隙間から光が漏れていることに気付いた佐助は、ワイシャツと下着だけの姿でベッドを降りた。
足音を忍ばせて静かにドアを開ける。
頭だけを突き出して覗き込んだ居間に人影はない。
扉を開けて居間に入る佐助の背後で蝶番が微かに軋んだ。
後ろに伸ばした腕でそっと扉を閉め、そろそろとソファに近づく。
覗き込んだソファにも小十郎の姿はない。
ふと視線を遣った雑誌と新聞紙が散らかるテーブルの上に「今日は休め」とだけかかれた書き置きを見つけた。
緊張を解いた佐助の指先がその紙を摘まみ上げ、そして慈しむように胸に抱いた。
見上げた壁の時計は既に二部の営業時間も半ばであることを示している。
朝まで帰ってこないのだろうかと考えて、昨日のことを思い出す。
半端な格好で立ち尽くす佐助の足元を寝室から流れた暖かい空気の塊が流れていく。
背筋に震えが走り、とりあえず風呂に入って帰ろうと思い至る。
剥き出しの脚は昨夜踏んだシャンパンでベタついている。
小十郎からの書き置きをテーブルの上に戻し、足を引き摺るようにして風呂場の扉を開けた。
小十郎も使ったであろうそこは、もうすっかりその痕跡をなくしていた。
蛇口を捻って居間に戻り、静寂を紛らわせるようにテレビをつける、落ち着かない指先が煙草を探したが、寝室に脱ぎ散らかしたスーツの中だと思い至る。
億劫がる足を動かして寝室へ向かい、拾い上げたスーツのポケットから煙草の箱を出した。
残り少ない箱を振って飛び出した一本を咥え、同じポケットの中に入っていた新品の箱を持ってライターを探す。
ジャケットの内ポケットから小十郎に貰ったライターが出てきたが、それは使う気にならない。
スラックスのポケットかと持ち上げたそれはシャンパンとわずかに落ちた小十郎の血で汚れていた。
VIPのテーブルの上に流れ出す小十郎の血が鮮明に頭をよぎり、思わずそこへ座り込む。
唇の間に挟んだだけの煙草の先が揺れた。
佐助は、結局彼が病院に行ったのかどうかさえ知らない。
このスーツは処分だなと意識して別のことを考えようとしたが、パカリと肉を見せた小十郎の手のひらを思い出してこめかみが疼いた。
佐助は拾い上げたスーツを持って居間に移動し、台所の流しの下から可燃ごみの袋を出して、ポケットの中身を新聞を端に押し寄せただけのテーブルの上にばら撒きながらライターを探すが見つからない。
テーブルの上で新聞紙に埋もれた小十郎のものらしいキャバクラの名前が入ったライターを見つけ、カチカチと鳴らして火が点くことを確かめたそれに揺れる煙草の先を寄せた。
細い煙が蛍光灯の灯りに薄い紫を帯びる。
ネオンに照らされた街の喧噪に似ていると思った。
どさりとソファに座り、煙を輪にして吐き出す。
まだ重さの残る頭をソファの背に預けて目を閉じた。
目蓋の裏に浮かぶのは左手から血を滴らせて背を向ける小十郎だ。
肩幅の広い背中が怒っていた。
呆れられて見捨てられたと思った。
けれど、小十郎は佐助をこの部屋に押し込み、悪かったと言ってキスをした。
佐助には小十郎が何を考えているのかがわからない。
今まで頑なに越えさせなかった一線を自ら越えた小十郎の思惑が見えなくて怖い。
咥えた煙草の先から灰がひらひらと落ちた。


「夜の世界」というのは、至極真っ当に生きてきた佐助に問って未知の世界だった。
何をもって真っ当とそうでないものを分けるのかはわからないが、佐助はその時々に於いて大多数に属するように勤めていた。
ただでさえ少数である母子家庭に育った佐助は、少なくともそれを外に宣伝してまわるような人生は送ってこなかった。
母はスナックで働く女だったが、昼間は中小企業で事務をしていたこともあり、真っ当な大人としての顔しか佐助に見せなかった。
愚痴ひとつこぼさずに叱り、褒め、愛した。ある意味で佐助は箱入り息子だったのだ。
安いアパートで質素な生活をしていたが、愛情だけはいつもそこに溢れるようにあった。
専門学校へ進学するにあたり、一人暮らしを初めてようやく気付いたことだった。
離れて暮らしていても、母の愛情というものは実感としていつもそこにあった。
しかし、母が倒れてから佐助はそれを失った。
ひとりでどうにかしなくてはならないという強迫的な責任感と喪失感、そして初めて知る孤独。
誰も助けてはくれないという諦めだけが佐助の日常に充満していた。
そうして佐助はホストになることを決めた。
その時には既に美容師は辞めるつもりでいた。
母が自分を犠牲にしてまで叶えてくれた職を自ら辞していくことに罪悪感はあったが、綺麗事ではメシが食えないのも事実である。
佐助が思いつく高給取りで、佐助にもできる仕事はホストだけだった。
踏み込んだきらびやかな世界の裏側は欲と憎悪と孤独が渦を巻く、気を抜けば搾取されるだけの弱肉強食の世界だった。
その世界ではいかに自分を繕い、相手の欲求に先回りするかが生死を分ける。
その魑魅魍魎が犇めく世界の中でただひとり、誰にも屈しない男がいた。
小十郎だった。
まわりには時分を引き摺り落とす機械を虎視眈々と狙う人間ばかりの、右も左もわからぬ世界で、小十郎だけは標となった。
迷う佐助の手を取り、挫けそうな佐助を叱咤し、乗り越えるたびに不器用な賞賛を寄越す。
内蔵を侵す絶対的な不信の中で、彼は違うという半ば信仰じみた信頼が慕情と倒錯し、強力な磁場となって佐助を彼に惹き付ける。
彼なくしては、佐助はこの世界で搾取されるだけの弱者でしかなかったのだ。
その彼に、自分のせいで怪我をさせた。
明らかな自分の不注意で、傷をつけた。
空のはずの胃が収縮して吐き気がする。


気付けば煙草は指の間で燃え尽き、長い灰がそのままの形でソファの合皮の上に寝そべっていた。
それをティッシュで拾って、根元の焦げたフィルターと共にゴミ箱へ捨てる。
立ち上がった足をずるずると動かして風呂場の蛇口を閉めた。
浴槽からは湯が溢れて、充満する水蒸気と湯の匂いが更に吐き気を加速させた。
ワイシャツを脱ぐために袖のボタンを外して初めて、袖に細く血が着いているのに気付いた。
テーブルに手をついて立ち上がった時についたのだろう。
その染みがいっそう佐助を惨めにする。
ワイシャツを足元に落とし、下着を脱いで浴槽へ体を沈める。
勢い良く溢れた湯の音が耳を裂くように反響した。
口を水面に付けて溜め息を吐き出す。
泡となったそれを見つめ、浴槽の縁に頭を乗せた。
唇に触れる。
訳が分からないと呟いて、急速にダメになっていく自分を感じていた。
彼がいなければ、ひとりで立っていることさえできない。
天井についた水滴が音を立てて浴槽に落ちる。
ぴちゃん、ぽちゃん、と不規則に繰り返される音が摩耗した佐助の神経を更にすり減らしていく。
小十郎が戻る前に自宅へ戻らなくては、と思った。
どんな顔をして小十郎に会えばいいのかがわからない。
繰り返した謝罪は拒まれ、今まで頑なに振れなかった腕が佐助を抱き寄せた。
その腕の中へ自ら飛び込むのは何かが違うと思った。
漠然とした不安がぼんやりと佐助を包んでいく。
わからないよと呟いて佐助は目を閉じる。
湯の匂いに溺れたように霞がかった頭は思考を放棄し、湯の中に浸けた体は鉛のように沈んでいった。


「風呂で寝るな、病み上がり。」
突然頭上から振った声に、佐助の体が湯を跳ね上げて動いた。
目を閉じてからの時間の経過を知る術はないが、随分温くなった湯と痛みを訴える首筋が確かな時間の経過を伝える。
開いた風呂場の扉に凭れた小十郎がいた。
トレンチコートの襟を立て、まだアタッシュケースをもっている。
突然のことにまわらない頭で、ぎこちなくおかえりなさいと応じた。
「さっさと出てこい。ぶり返すぞ。」
「あ、…はい。」
小十郎から顔を背けて答える。
扉を閉めかけた小十郎の手が止まり、佐助の湿った頭に触れた。
佐助の体がわずかに揺れ、水面に大きな波紋が広がる。
なに、と顔は見ないまま問う。
「テメェがおとなしいと気持ちが悪いな。なんか企んでんのか?」
「…のぼせただけ。」
ぶっきらぼうに答えた佐助に、そうかと返した小十郎は切れに包帯の巻かれた手で扉を閉めた。帰るつもりだったのに、と舌打ちしながら佐助は立ち上がる。
シャワーを出して熱いそれを頭からかぶった。
小十郎の怪我の事実を眼前に突きつけられたような気がして息苦しい。
小十郎は何を考えているか判らないし、自分がどうすべきなのかもわからない。
顔を流れ落ちるシャワーに紛れて、熱くなった目頭から温度の違う雫が流れていく。
喘ぐように開いた唇からシャンプーの泡が口に入る。
小十郎の匂いがした。離れたくない、と呟いた声は流れる水音に絡めとられて排水溝へ押し流されていった。
のろのろと体を洗って、勝手に出したバスタオルで体を拭って気付いた。
着替えがない。どうやって帰ればいいのだろう。
頭が回っていないと思った。
仕方なく小十郎の黒の下着を勝手に拝借して脱衣所を出る。
赤くなっているであろう目をごしごしとタオルで擦り、ぺたぺたと足音を立てながら辿り着いた今では小十郎が伝票を整理しながら弁当を食べていた。
パンツ借りた、と俯く頭に声をかけると、顔を上げた小十郎が下着だけの佐助を一瞥した。
「弁当あるぞ。」
「いらない。」
答えて、散らかしたスーツと脱衣所から引き摺ってきたワイシャツを出したままの可燃ごみの袋に押し込んだ。
持っていたボールペンを回そうとして落とした小十郎が、それを拾い上げながら捨てるのかと問う。
背中を向けたまま頷いた。
背後で小十郎が立ち上がる気配がしたが、そのまま袋の口を結んで立ち上がる。
袋を玄関へ盛っていこうとした佐助の進路が小十郎に塞がれた。
「頭くらいちゃんと拭け。床が濡れる。」
「…拭いた。」
俯いたままぼそぼそと答える佐助の首にかかっているバスタオルを取り上げた小十郎が佐助の頭を少し乱暴に拭う。
揺れる頭を床に向ける佐助の目頭から溢れた涙が通った鼻梁を伝う。
すきだ、と思った。
スーツを着たままの小十郎の足が滲んでいく。
ほら、と頭からバスタオルが剥がされ、手にしていた袋を奪われる。
「俺の服でも着てろ。ごみ出してくる。」
佐助の返事は待たずに小十郎は居間を出て行った。
脱衣所の扉が開閉する音の後に、玄関の扉が閉まる音が響く。
鼻の頭に溜まった涙が立ち尽くす佐助の足元へ音を立てて落ちる。
好きだ。
彼がいなければ生きていけない。
とても一方的に彼を愛している。
力の入らなくなった膝を落ち曲げて崩れるようにその場に座り込み、徐々にしゃくり上げる声を止められずに泣く。
もう失えないのだと鼻先に突きつけられる事実が涙に溶けて佐助の体を蝕んでいった。
彼に怪我をさせたことに絶望したわけではない。
もう引き返せないくらいに彼に依存している自分に絶望したのだ。
振り払われても彼の手を離せない。
風邪の余韻を引き摺る鼻が詰まって咳き込んだ。
体勢を崩した膝が冷たい床にぶつかって鈍い音をたてる。
なし崩しに額を床につけて丸くなって泣いた。
もう自分の足では進むことも戻ることもできない。
ただ、彼がいない痛みと共に呆然とそこに立ち尽くすだけだ。
そんな自分を惨めだと思う。
玄関の鍵が開く音がした。
廊下と今を隔てる扉が開き、下着姿で蹲る佐助に足音が近づいた。
「おい、具合でも悪いか?」
ぶんぶんと頭を横に振る。
拍子にしゃくり上げて、佐助はますます体を丸めた。
頭の横にしゃがみ込んだ小十郎から微かな香水の匂いがする。
ひどい目眩に閉じた視界が明滅した。
「泣いてんのか?」
「ないて、っない。」
とりあえず服を着ろと小十郎が佐助の震える細い肩を軽く叩いて立ち上がる。
寝室に向かって踏み出す足首を佐助に掴まれて転びそうになりながら振り返った小十郎の視界で、床に蹲った姿勢のままの佐助の小さな頭が揺れた。
行かないで、とくぐもった声が冷たい指先と共に足首に絡まる。
小十郎の足首を掴む佐助の指先が力を増した。
小十郎は黙って佐助の手を剥がし、骨の目立つ手首を掴んで佐助を引き摺り立たせた。
「置いて行かれるのが嫌なら、テメェで歩け。」
俯いていた佐助が濡れた前髪の隙間から窺うように小十郎を見上げた。
困惑した佐助の睫毛が影を落とした眸が揺れる。
それを真っすぐに見つめた小十郎はまたかと思う。
捨てられることを恐れるその顔が小十郎は嫌いだった。
信用されていない。
そのくせに好きだと叫ぶ矛盾がいつも魚の小骨のように胸に引っかかる。
信用も何もあったものではない関係であることはわかっている。
そうさせないのは自分だということも理解はしているが、だからこそ、その矛盾が気にかかる。
お前が俺の何を知っているんだ、と思ってしまう。
小十郎を好きな自分を愛でているだけではないのかと叱責しそうになる。


佐助の手首を掴んだまま寝室に入り、シーツが乱れたままのベッドに佐助を座らせる。
いつも佐助がそうするように佐助の膝を跨いでベッドの端に膝を付いた。
佐助の目が予測できない展開に怯えている。
「テメェは一体俺をどうしたいんだ?」
「どう、って…」
「好きだとか喚く割にはふざけたことしか言わねえのはどういうことだ。」
にじり寄る小十郎から逃げるように後ずさる腰を右手で抱き寄せる。これ以上逃げることは許さない。その意味を込めて腕に力を込めた。
「ふざけてなんて、…ないよ。」
「じゃあ、今ここでテメェを抱いたら、それで終いか。」
見開かれた佐助の目が怯えて揺れ、小十郎を避けて泳ぐ。
色をなくした薄い唇が震えながら俺はと繰り返すのを、小十郎は触れれば切れそうな鋭い視線で見つめる。
佐助の筋張った首筋で喉仏がゆっくりと上下した。
「答えろ。」
佐助は首を横に振るばかりで答えることをしなかった。
吐息がかかるほどに佐助ににじり寄った小十郎の体重に耐えられなくなったベッドが小さな音を立てて軋む。
「代表が、…アンタが必要なんだ。アンタがいないと、行きもできない。抱かれて終わるくらいなら、抱かれなくていい。傍に、置いてくれるだけで…いい。」
ベッドについた小十郎の手首に、佐助が冷たくなった指先を縋るように絡ませる。
再び流れた涙が佐助の薄い腹に落ち、震える声が嫌なんだ、と小さな声をこぼした。
孤独を恐れる佐助の声が小十郎の耳を引っ掻いてシーツに落ちる。
小十郎は体を引き、佐助の前に立つとスーツの腹に小さな頭を押し付けた。
露のままの肩へ毛布をたぐり寄せて細い肩を包んだ。嗚咽ばかりが佐助の喉をつく。
暫くそうしていた佐助が小十郎の腹を押して顔を上げた。
「…かえる。」
「その格好でか?」
鼻で笑った小十郎は佐助からは慣れて後ろにあるクローゼットからジーンズとトレーナーを引っ張り出し、着てろと佐助に投げつけた。
それを顔で受け取った佐助は、泣いたせいで腫れぼったい目を擦ってのろのろと着替え始める。
立ったままそれを眺めていた小十郎は佐助に背を向けて寝室を出て行った。


できるだけ時間をかけて寝室を出た佐助は、台所にいる小十郎を見つける。
電子レンジが中身が暖まったことを知らせ、小十郎はその中から弁当を出し、コーヒーの入ったカップを佐助に押し付けて居間へ移動する。
その後について佐助は重たい足を動かす。
外は少し明るさを増して、カーテンの隙間から覗く窓が白く結露している。
小十郎は広げたままの書類の向かいに弁当を置いて時分は書類の前に座った。
佐助に視線で座れと促し、自分はさっさと仕事に戻る。
小十郎と向き合って座った佐助は、冷えた指先でコーヒーの入ったカップを包んだ。
「昼までここでおとなしくしてろ。」
ボールペンを動かす包帯の巻かれた手を見つめていた佐助の視線が小十郎の顔を見る。
伏せた鋭い目が上がることはなかった。
「服、買いに行くんだろう?付き合ってやるから、終わるまで待ってろ。」
「別に、ひとりでもいいし。」
「せっかくの日曜だ。俺も新しいライターを買いに行く。」
「俺なんていなくても困らない。」
「…今まで通りにしてろ。そしたら俺も今まで通りだ。いなくなりやしねえよ。」
佐助が小さく息を呑む。
口許がぎこちなく笑い、デートのお誘いならもっとロマンチックにやってよ、と泣きそうな声が震えた。
小十郎はそれには答えず、書類から視線を上げないままでさっさと食えと言った。
佐助は雑に積まれた新聞の上に投げ出してあった箸を掴んで弁当のビニールを剥がした。

End

言葉の存在意義を考えろ。

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