- 日曜日の街には冷たい雨が降っていた。
だぶつくジーンズのウエストを持ち上げる。
革靴から覗く足首に濡れた裾が触った。
冷たい。
店とは駅を挟んで反対側にあるファッションビルに二人はいた。
濡れたビニール傘を引き摺る佐助は、凛と背を伸ばす小十郎の3歩後を追いながら再びジーンズのウエストを掴んだ。
面倒がってベルトを置いてきたのは失敗だったと舌打ちして一回り大きい小十郎の服に悪戦苦闘する佐助を振り返りもしない広い背中を睨んだ。
あれから小十郎が伝票を整理しているのを眺めつつ温めた弁当のハンバーグを箸で細切れにしていた佐助は、小十郎に遊ぶなと叱られて箸を置いた。
ボールペンを握る左手には白い包帯がきっちりと巻かれている。
「病院、行った?」
「5針縫った。」
割り箸を取り上げて半分に折り、それをまた一本ずつ半分にする佐助を見もしないで小十郎が答える。
箸を正しく4等分に折った佐助がごめん、と呟くと治るからいい、と返す。
ボールペンの尻でドリンクの数を数えていた小十郎が数字を書き込んで手を止めた。
「全治2週間だそうだ。治るまで世話するんだったか?」
「そりゃあもう食事から洗濯からシモの世話まで。」
口がいい?ケツがいい?それとも突っ込まれたい派?と一息に言った佐助に向かって小十郎はボールペンを投げつける。
見事に額に当たって落ちたそれを拾い上げ、半目で佐助を睨みつける小十郎に返した。
再放送のバラエティ番組が空々しい笑い声を響かせる。
風呂入ってくる、と立ち上がる小十郎のふくらはぎに佐助の腕が絡み付く。
サイズの合わないトレーナーの袖が捲れて白い腕が露になった。
「頭洗う?体も洗う?ついでにシモの世話?」
「ひとりで入る。テメェは散らかした弁当でも片付けてろ。」
足に絡み付いたままの佐助を振り解くように足を進めるが、離れない佐助が引き摺られて床の上に体を伸ばす。
緩いジーンズのウエストから浮いた腰骨が覗いた。
「せっかく一緒に風呂に入るチャンスなのに!!」
「テメェのチャンスなだけで、俺にとっちゃチャンスでも何でもねえ。」
小十郎は文字通り佐助を一蹴してさっさと脱衣所に入って行った。
腹筋だけで少し浮かせていた頭を音を立てて床に落とした佐助は本当にいつも通りかよとぼやいて体を起こし、小十郎に言われた通りにテーブルの上に散らかした弁当を片付けてソファに沈んだ。
腕を伸ばしてテーブルの上にのった煙草の箱を引き寄せて中身を抜くと、空になったそれを握りつぶす。
煙草を咥えたまま、テーブルの上にあるライターを掴む。
表面に掘られた刻印が蛍光灯の光を反射させて佐助の目を刺した。
三日月の形に目を細めた佐助はそれを手のひらの上で弄びながら唇の間に挟んだ煙草の先を揺らした。
時間をかけずに風呂から出てきた小十郎にデートだから着替えに帰るとだだをこねたが、それなら行く必要がないなと寝る体勢に入られたので、渋々小十郎の服を借りたままで家を出た。
小十郎は振り返ることもしないでエスカレーターに向かっている。
だらだらと歩いていた歩幅を広げてその背中に追いついた。
「代表、どこ行くの?」
「とりあえずテメェの服だ。俺のジーパンの裾がダメになる前に履き替えろ。」
「仕方ないじゃん。俺様スレンダーだから。」
「テメェは痩せすぎなんだ。それに裾の長さと体の細さは関係ねえだろうが。」
メンズの売り場でエスカレーターを降りた小十郎が足を止めて、ようやく佐助を振り返る。
先に行けとばかりに顎をしゃくった小十郎の前を通り抜け、いつも世話になっている店に足を向ける。
ジーンズと適当なTシャツと、それに合わせるシャツかパーカーだなと考えながら店内を物色する。
全身同じブランドで固めるのはあまり好きではないが、時間をかけると小十郎が帰ると言い出しかねない。
もう知人と言えるほどに仲良くなってしまった店員をあしらいながら決めた一式を持って試着室へ入る。
小十郎はスーツを物色しながら、あいつはここでスーツまで揃えているわけかと納得する。
代表になり、プレイヤーを上がってから、スーツは消耗品ではなくなった。
シャンパンやブランデーのしみをつけることもなければ、歩きすぎて裾が擦り切れることもない。
代表になった年に買ったアルマーニのスーツはまだまだ現役だ。
ホストというのは意外と泥臭い仕事なのだ。
代表、と呼ばれて振り返る。
そこには一通り試着したいつもの佐助が出来上がっている。
似合う?と問う声に、いいんじゃねえかと適当に返した。
その返事に満足したらしい佐助はこれこのまま着ていくからタグ取って、と足元に脱ぎ散らかした小十郎のジーンズのポケットから財布を出している。
佐助を置いて先に店を出た小十郎は店の前で佐助を待つ。
しばらくすると小十郎の服を入れた紙袋を抱えた佐助が出てきた。
フードに茶色のフェイクファーがあしらわれた丈の短いダウンジャケットの下から覗くパーカーの金色のロゴが目に痛い。
小十郎は佐助から目を逸らした。
「あんまりいい男だから直視できない感じ?」
「ホストですって宣伝して歩くような格好だなと思ったんだ。」
「看板にでかでかと顔写真が出てるのに今更じゃない。」
襟足の癖がある細い髪を指先で整えた佐助を置いて小十郎は歩き出す。
一歩前を歩きながらそれもそうかと納得する。
煙草が吸いたいと喚く声は無視してビルを出た。
雨が降っているというのに、街には色とりどりの傘が犇めいて流れて行く。
まるで色彩の洪水だ。
人ごみを歩き慣れたふたりの足はきちんと一歩の距離を保って百貨店へと向かう。
黒のミリタリーコートの裾を翻す小十郎の背中を見ながら、代表はホストというよりヤクザ、百歩譲ってもガラの悪いマル暴の刑事あたりが関の山だなと思う。
見た目の話だ。
黒のチノパンにグレーのシャツを合わせただけのシンプルな格好だが、彼は民衆の目を引くようで、先程からちらちらと振り返る者がある。
俺のダーリンはいい男だろうと辺り構わず吹聴してまわりたい衝動に駆られるが、どうせ他人のふりをされるのがオチなのでそれは諦めた。
足早に人ごみを抜けて行く小十郎の背中を追って百貨店の中に入る。
入り口を左に折れ、迷う素振りもなくカルチェに入って行く小十郎の隣にようやく並んだ。
「代表ってさ、カルチェ好きなの?」
「いや?」
「ライターでしょ?」
「ああ。」
綺麗にディスプレイされたガラスケースの中を覗き込んで、ボールペンもカルチェじゃんと呟くように言った。
ガラスケースの中に収まる腕時計の値段を見て、買えるかこんなものと半目になりながら故知の中で吐き捨てる。
ゼロが一個多い。
「ボールペンとライターだけだ。」
早口に言った小十郎は店員に前に使っていたものと同じデザインのライターを指差してこれをと告げた。
暫くお待ちくださいと丁寧に頭を下げた女性店員が背中を向けるのを見届けると、佐助はニヤニヤと小十郎に擦り寄った。
「お揃いじゃん。」
「強奪して行ったヤツが何言ってやがる。」
「じゃあ返す?」
「もういらねえよ。」
じわじわとにじり寄ってくる佐助の脇腹を肘で押し退けながら、小十郎が放り投げるように言う。
それはテメェにやったんだろうが、と鋭い視線だけが佐助に向いた。
「でも同じの買うんじゃん。」
「使い勝手の問題だ。そのライター、ここのガスしか入らねえぞ。」
「それもっと早く言ってよ。」
「もう切れた後だったか?」
からかうように小十郎が小さく笑ったタイミングで店員が戻り、手にした箱から手袋を嵌めた手で仰々しくライターを取り出した。
小十郎は小さく頷き、ガスも2本、と言い足して財布を出す。
黒のダンヒルだった。
ボールペンとライターだけだというのは本当のことだったようだ。
佐助の記憶が正しければ名刺入れはエルメスだ。
こだわりがないらしい。
会計を済ませた小十郎は袋を受け取ってさっさと店を出て行く。
佐助は慌ててその後を追った。
「代表、煙草が吸いたい。物凄く吸いたい。」
「我慢しろ。店までだ。」
「やだ、ムリ。俺様我慢できない。煙草吸うか代表のしゃぶるかしないと死ぬから無理。ってかなんで店?」
「売上と伝票を取りに行く。」
濡れたビニール傘を開きながら面倒そうに佐助を一瞥して、小十郎は雨の街へ向かって歩き出す。
その背中を追って佐助も歩き出すが、ふとこのまま消えたら彼はどうするのだろうと考える。
気付かずに見せまで行くのか、どこかで引き返すのか、それとも探しまわるのか。
ビニール傘から落ちた雫が紙袋を叩いて落ちる。足を止めた。
見る見るうちに小十郎の広い背中は雑踏に紛れて消えた。
ひとりで紙袋を抱えたまま立ち尽くす佐助を道行く人が邪魔そうに振り返り、すぐに何もなかったかのように流れて行く。
ひとりだ、と佐助は思った。
溢れかえる人混みはしかし無関心に行き過ぎる。
こんなにも人がいるのに、誰ひとり佐助の存在に目を留めようとはしない。
早く小十郎を追いかけなくてはと思うが、足に根でも生えたように動かない。
このまま、誰にも気付かれないで全てがなかったことになってしまう気がした。
そんなのは嫌だ。
渇いて貼り付いた喉で口の中に溜まった僅かな唾液を呑み込む。
靴の底で地面を擦るようにして踏み出した一歩は、正面から歩いてきた男の肩に止められる。
左側を通り過ぎる舌打ちを皮切りにして、耳の置くで甲高い音がなり始めて街の喧噪が遠ざかる。
もはや自分が立っているのかしゃがんでいるのかもわからない。
視界がぼんやりと焦点を失い、色の洪水だけが取り残される。ああ、煙草が吸いたい。
おい、と軽く頬を叩かれて、ようやく佐助は自分の状況を把握した。
「いつまでそうしてる。」
「え…あれ?」
「ガキでもちゃんとついて来るぞ。煙草吸いてえんだろうが。」
目の前に小十郎がいた。
佐助がいなくなったことに気付いて引き返してきたらしい。
なんで、と佐助の唇が声にせず紡いだが、小十郎は気付かぬ素振りで再び歩き出す。
佐助の足は鉛の靴でも吐いているような重さで動きもしない。
ただ革靴の爪先が水たまりを蹴るだけだ。
3歩進んだ小十郎が佐助を振り返った。
「早くしろ。」
佐助は勢いよく足を踏み出し、それを見届けた小十郎は踵を返して歩き出した。
暫く歩くと見せがある通りに入る。
佐助はコートのポケットから出した煙草の箱を振り、飛び出した煙草を咥える。
夜は落ち着きのないネオンと猥雑な看板がせり出すそこも、日曜の昼間となれば静かなものである。
駅前の喧噪が嘘のように人が減った。
時折通り過ぎる風俗情報店のキャッチが小十郎に声を掛け、ついでのように佐助に頭を下げる。
佐助は黙って火の点いていない煙草の先を揺らした。
この街で働く男たちの大半は互いの顔を見知っている。
店同士の付き合いもあれば、街の雑踏の中で客を奪い合う相手として知り合うこともある。
ひと月に2000万を稼ぎ出す男という過去の栄光を持ち、一晩で店が入れ替わるこの街で有名店と呼ばれるホストクラブの代表を務める彼は、この街では有名な方だと思う。
それに加えて、小十郎は過去に金や女がらみの事件を起こしたこともない。薄汚いものばかりが掃き溜めのように集まるこの街では珍しいほど清廉な男だ。
有名になるのも頷けるというものだ。
だからこそあの店の代表なのだと言う気さえする。
しかし、佐助は佐助で街のいたるところに顔が貼り出されているのだから、指名手配犯くらいには知名度もある。
佐助があの店のナンバーであることはこの街のほとんどの人間が心得ている。
この狭い街で、二人はお山の大将なのだ。
見慣れない雰囲気を纏う道を、きちんと一歩の距離を保って歩き、店の裏口に辿り着く。
濡れた傘を乱暴に扉の横に立てかけた小十郎は鍵を開けて店の中に入った。
「代表、ライター貸してー。」
「カウンターにあるだろ。」
その背中を追って店に踏み込んだ佐助が声を上げた。
電気を点けながらチラリと佐助を振り返った小十郎は、厨房から洗ってある灰皿を取り上げてカウンターに向かった。
佐助は既にカウンターの電気を点けて、雨の匂いがする煙草をライターの火に寄せている。
輪にした煙を吐き出し、それを歪めながらカウンターから出て小十郎に場所を譲る。
カウンターに灰皿を置いた小十郎は、手にしていた袋からガスを一本出して佐助に投げた。
煙草の先から灰を散らかしながら佐助がそれを受け取る。
「やる。」
「使わないからいらない。」
「使え。ライターが泣くぞ。」
「アンタに追いつくまで使いたくない。」
そう言われてようやくガスではなくライターの話だと気が付く。
そう言われてみれば佐助がライターを使っているところを見たことがない。
いつも大切そうに小十郎の部屋のテーブルに置いてあるが、火を点けるのはコンビニの安いライターだ。
箱からライターを出し、手元に残ったガスのビニールを破りながら、ガスをカウンターに置いたまま手を付けずに煙草を吸っている佐助を眺めた。
吸う?と差し出された煙草のフィルターに顔を寄せて一口吸い付け、すぐに顔を離した。
慣れない味と慣れた匂いが違和感をもたらした。
「たまんないねえ。そこのソファでヤりたいくらい。」
「寝言は寝て言え。」
「寝てる俺様を襲う作戦?代表って結構奥手なんだね。いいよ、俺様そう言うのも割と好き。優しくしてくれるとなお好き。」
「息継ぎをしろ。」
新品のライターにガスを入れながらテメェのも出せと告げる。
案の定佐助はコートのポケットから同じライターを出してカウンターにそっと置いた。
「ガス入れてやるからちゃんと使え。もったいないだろうが。」
「やだ、無理。俺には重すぎる。」
「じゃあ返せ。」
それも無理。アンタに追いついたと思える日が来たら使うよ。」
「一生使わねえつもりか。」
咥えた煙草に新しいライターで火をつけた小十郎は、手に馴染む佐助のライターを取り上げてガスを入れる。
煙草と唇の間で呻くように言った。
「なんで?」
「俺は脇目も振らずにここまで来た。これからもそれは変わらねえよ。」
「俺はどっちも手に入れる。決めてんの。」
「二兎追う者はなんとやらだ。やめておけ。」
佐助は指に煙草を挟んだ手で口許を覆ってフィルターを思い切り噛んだ。
ガスを入れ終わった小十郎はライターを佐助の前に置いて、俯く佐助の薄色の目を覗き込んだ。
「いいか、この店のNo.1も2000万プレイヤーの栄光もそんなに安くねえ。確かにテメェはよく稼ぐ。だがな、俺を口説きながら客を口説けると思うなよ。折れを口説いてる限りは元親にも勝てやしねえ。そんな男に口説かれて落ちてやるほど俺は優しくねえ。諦めろ。」
「諦めない。アンタが欲しいから。アンタが望むならどんなことでもしてやる。2000万でアンタが落ちるなら俺は2000万売るだけだよ。」
それでもアンタは足りないって言うだろうけどと言う言葉は飲み込んだ。
わかっている。
彼のこれは色管理というヤツだ。
まさかホストの世界でそんなものがあるとは思いもしなかったが、小十郎が好きな佐助がここで働いている以上、それは確かにここに存在する。
「No.2になったら、代表は俺に何してくれる?この間はライターだったよね。次は何で俺様を釣る?代表がセックスしてくれるって言うなら俺様もっと頑張れるんだけど。」
「何もやらねえよ。これ以上テメェにやるもんなんざ持ってねえ。」
「そんなに俺が嫌ならクビにでもしたらいいのに。」
佐助は短くなった吸い殻を灰皿に押し付けて立ち上がる。
湿気を孕んだ静寂に、スツールが動く音が大きく響いた。
カウンターの上に置かれたライターと紙袋を攫って佐助は裏口へ向かう。
「服、明日持ってきます。お疲れさまでした。」
至極平坦な声が告げ、絨毯を踏む靴音が遠ざかる。
分厚い裏口の扉が閉まる音が店内に充満した水分を揺らした。
カウンターに左肘を乗せた小十郎は小さく溜め息をつき、佐助の残した吸い殻を焼くようにして煙草の火を消した。
End
アンタを諦めるなんて不可能だ。