- 客を送り終えた佐助は微かな酔いにふわつく足で店の入り口をくぐった。
トレンチにこれでもかと使用済みのグラスを乗せたボーイが足早にカウンターの前を抜けて厨房へ向かって行く。
一部の営業が終わり、二部へと切り替わるこの時間帯が一番忙しいのだろう。
普段は柔らかい表情の彼もどこか張りつめている。
何より今日はこのあとにミーティングがある。
ミーティングとは言っても給料を手渡されるだけなのだが、ナンバーの発表もあるため、店のホストが全員集まる。
ホールは週末以上の賑わいだ。
カウンターで給料袋の封をしている小十郎を横目に空いている場所へと向かう。
様々な香水とアルコールの匂いが立ち込めるそこは有名ホストクラブの落ち着きを失っていた。
佐助はポケットから煙草の箱をテーブルに投げ出し、売上と客の話でざわめく中で目を閉じた。
高く組んだ膝の上で細い指先を揺らす。
疲れていると思われたのだろう、誰も佐助に声をかけなかった。
ここ暫くは同伴とアフター続きでろくに眠っていない。
目を閉じただけで眠れそうなほどの倦怠感が佐助を襲う。
寝てしまうわけに行かない佐助は重たい目蓋を薄く押し開いて、テーブルの上に放り出した煙草の箱を探り、抜き出した一本を咥えた。
隣に座っていた下っ端がライターの火を差し出すのを手のひらで断わって再び目蓋を落とした。
今月はいくらまで行けるだろうか。同伴、アフター、2卓のかぶりは当たり前のこの生活の中で佐助が思うのはそれだけだ。
もう過ぎてしまった先月の売上やナンバーなどどうでもいい。
問題はまだ始まって半月と経たない今月だ。
煙草を挟んだ唇からため息が漏れた。
月に何百万を落として行く客がいるわけでも、指名本数が取り立てて多いわけでもない。
客の懐事情と佐助の体力のバランスを取った結果が今までの売上だったのだ。それを増やすには佐助が2人になるか、客がもっと払うかのいずれかだろう。
フリーの新規客の卓について指名を取ってくる自信も、その客をリピーターとして見せに呼び込む自信もある。
しかし、指名客を毎日呼んでいては新規を掴むための時間もない。
もしそれができたとしても、本当に太い客でも捕まえない限りは彼の求めるところへは到底届かない。
今までの2倍以上を売り上げなくてはならないのだ。
詰んだ。もう完全に詰んだ。無茶苦茶すぎる。
唇に挟んでいた煙草を取り、ため息を吐きながら煙草を耳に挟んだ。
唇に残ったメンソールがため息を冷やした。
「ミーティング始めるぞ。」
カウンターから出てきた小十郎が束になった給料袋と書類をテーブルに無造作に置いてヘルプ椅子に座る。
ざわめいていたホールが静かになり、小十郎がゆっくりと口を開いた。
「今月もご苦労さん。先月よりも売り上げたヤツが多かったな。客との揉め事もいくつか聞いてるが、客が着れる前に必ず俺に相談しろ。テメェらのケツ拭ってやるのが俺の仕事だ。説教もするが悪いようにはしねえ。そのために代表の肩書きと幹部手当貰ってんだ。」
ずらりと並ぶホストの顔を眺める小十郎の視線は鋭い。
後ろの方で経っている新人の何人かが小さく頭を下げて了解を表すが、テーブルを陣取っているほとんどのホストはもう知っていることだとばかりに小十郎に視線を向けるだけだった。
一通りホストの反応を見ていた小十郎の視線が、手元で煙草をいじくり回している佐助で止まる。
テメェのことだ。
舌先に乗った言葉は舌打ちをすることで声にしないまま飲み込んだ。
「ヘルプでつく時はきちんと仕事をしろ。テーブルの上が汚ねえ。呑んで喋るだけがホストじゃねえぞ。指名の卓でも一緒だ。だらだら座ってんじゃねえ。」
まばらに帰って来る返事を聞きながら、小十郎は引き寄せた書類を捲った。
佐助は相変わらずいじくり回していた煙草を箱の中に戻し、また出してはいじくりまわすを繰り返している。
一週間ほどで随分と肉の落ちた頬に落ちる影の色が濃い。
「このあと一部の奴らは来週のシフトを聞く。希望があるやつは更衣室に集合、ないヤツは解散。二部の奴らは営業準備だ。」
書類から視線を上げた小十郎は胸のポケットからボールペンを出し、書類と共に目の前のテーブルに置くと給料袋の束を引き寄せた。
「今月のNo.1、政宗。売上1800万。」
拍手に押されるように悠然とソファから立ち上がった政宗は分厚い封筒を受け取って書類にサインをする。
ボールペンを置いた指先が給料袋の封を開けて中身を改めるのを佐助はぼんやりと眺めた。
この店の給料は売上が500万を越えると店との折半になる。
そこから1割を所得税と厚生費として引かれたものが給料だ。
大方800万円が政宗の給料ということになる。
どんな生活をしているかなど興味もないが、自分はどうするだろうかと思った佐助は、それでも今と変わりはしないだろうなと思い至る。
遊ぶ友人や金がかかる恋人がいるわけでない。
たまに客に飯を奢り、最低限の生活に金を払い、母親の病院代を出して残りは全て銀行に預ける。
そうしてたまった金は使うことなく通帳の肥やしになるばかりである。
「No.2、元親。1500万。」
うい、と気の抜けた返事をする元親が給料袋を受け取って書類にサインする間、佐助はあと500万と口の中で呟いた。
拍手の音の中でそれに気付くものはいなかった。
小十郎に言われた言葉がこめかみを叩くように頭蓋の内側で響く。
No.1と2000万プレイヤーの重みはよくよく理解していたつもりだった。
しかし、それを目指しもしなかった過去の認識は、それを目指す今となっては甘かったのだと思う。
No.1はともかく、2000万を売り上げるなど無茶な話だ。
「No.3佐助。1100万。」
のろのろと立ち上がりながら、佐助はドンピン25本分で元親かとため息を吐く。
毎日1本卸しても間に合うかどうかと言ったところである。
周囲がとうとう乗った1000万代に感嘆と賞賛の拍手を送る。
イベントの1本もなかった先月、突然売上を200万以上伸ばしたのだから周囲が驚くのも無理はない。
受け取った封筒は確かに先月より分厚いが喜びはない。
無表情にサインして元居た場所に戻った佐助は封を開ける。
帯びのついた束が4本と束になった札が無造作に押し込まれている。
これだけあれば美容院を開業して美容師として生きていけるような気がしたが、小十郎を手に入れるまではそれでさえも佐助の興味を引かない。
しかし、あの日小十郎が突きつけたのは絶対的な拒絶だったとも思う。
お前にはムリだ、だからお前はお前のものにはならない。
そう言われたような気がした。
がむしゃらに加勢で無理ではないことを証明したところで、小十郎が佐助の元に落ちてくることなど万に一つもないと言うことなのだろうが、諦めるわけにも行かない。
もう引き返せないところまできていることは、ここ暫くで嫌というほどに思い知らされた。
どう転ぶとしても、自分が売上を伸ばさないと事態は動かない。
給料を受け取ったホストが次々に消えて行くホールがざわめきを取り戻す中で箱の横に置いたままになっていた店子に火を点ける。
退勤が入った袋を傍らに放り出すように置いた佐助はぼんやりと煙を吐き出した。
キャッチに出て行く者、更衣室へ戻る者、酔ってはしゃぐ者、みんなそれぞれだが、彼らのうちの何人が小十郎を、政宗を越えようとしているだろう。
佐助が知る限り1年以上変わらないNo.1に誰が成り代わろうと思うだろう。
それでも成り代わらねばならない。
ひどいプレッシャーとわずかに残ったアルコールに目眩がする。
佐助は唇に煙草を挟んだまま天井を仰いで目を閉じた。
「先月、がんばったみたいじゃねえか。」
微かな嘲笑を含んだ声が佐助の頭上に降る。
億劫そうに目を開けた佐助の視界にいたのはマサムネだった。
シルバーのラインが入る黒いシャツの襟を大きく開けた胸元に下がったネックレスに反射した光が眩しい。
佐助は目を細めた。
自然と視線が鋭くなる。
「追いつかれるのが怖くて今から牽制?No.1も意外と小心者なんだね。」
咥えた煙草の先が揺れて佐助のスーツの膝に灰が落ちる。
それを生白い政宗の指先が払い、佐助は不機嫌に眉根を寄せた。
「いや、急に伸びたもんだからどんな裏技使ったのかと思ってな。やる気のねえヤツはそのうち自滅すると思ってたけど…アンタ以外としぶといな。」
「ああそう。そうやって油断しといてよ。そのうち引き摺り下ろしちゃうからさ。」
佐助は半分ほどの長さになった煙草を一口吸い付けてから灰皿に押し付け、政宗に向かって吹き上げるように煙を吐き出した。
政宗は何があろうとも佐助をヘルプに付けない。
佐助がこの店で働くようになってすぐの頃から嫌われているようだったし、高飛車な物言いや尊大な態度が気に入らないので佐助も進んで話書けることはしない。
こうしてたまに話すとこうして人を小馬鹿にしたような態度を取られるのだ。
お互い気に入らない相手ということなのだろう。
「1年近く頑張って無理なんだ。いい加減諦めたらどうだ?」
「残念ながら諦めらんない理由があるの。たまには追われる恐怖でも味わいなよ。」
佐助は放り出してあった給料袋を取り上げ、それをスーツの内ポケットに押し込んで立ち上がる。
相手にするのも面倒だと言いたげに睫毛を伏せた佐助の緩んだネクタイを政宗が掴んだが、興奮とざわめきの中で気付く者はいない。
政宗は掴んだネクタイを引いて佐助の耳元に囁いた。
「アンタがいくら足掻いたって、俺の恐怖になんてなれやしねえんだよ。」
言い終わると同時にネクタイを離した政宗は隻眼に見下した色を刷いて、佐助の頭から爪先まで眺めると吐息だけで笑った。
締まってしまったネクタイを緩めた佐助はそれはどーもと答えてその場を後にした。
給料を渡す小十郎の横を抜け、はしゃぐホストの間を縫うようにして更衣室へ向かう。
人口密度の高い更衣室へ入るなり自分のロッカーを殴りつけた。
その音にざわめいていた更衣室が静まり返る。
無性に腹が立った。
佐助が目指す先は小十郎であって政宗ではない。
小十郎を越えるための通過点に政宗がいるに過ぎないのに、政宗に出しゃばられたのがおもしろくない。
お前より折れの方があの男に近いのだと言われた気がした。
それが何よりも腹立たしい。
殴りつけた拳をロッカーにつけたまま奥歯を噛み締める。ともすれば歯が欠けるような強さで。
ギチギチとこめかみが鳴り、込み上げる悔しさに目の奥が痛んだ。
普段はさばけた雰囲気を纏う佐助の変わりように、周囲は掛ける言葉もなく遠巻きに様子を見るばかりだったが、タイミング悪く入ってきた元就だけは部屋の中を眺めて佐助の隣に立った。
「喧嘩か?」
佐助のロッカーの隣にある自分のロッカーを平然と開けながら元就が問う。
佐助が入った当時はNo.3だった元就の登場に、その場の空気が弛緩する。
「別に、ちょっと腹立っただけ。」
「あまり新人をいじめてやるな。」
ロッカーから出した財布に給料袋から出した何枚かの札を入れながら元就が小さく笑った。
袋に残った分はそのままスーツの内ポケットに押し込んでいる。
「そろそろ代表が来る。機嫌を直しておかないと面倒だぞ。」
「代表に慰めてもらおうかな。」
「慰めてくれるような人でないことは確かだな。」
「なりさん、それ代表に言いつけちゃうよ?」
「本当のことを言ったまでだ。」
悪びれた様子もなくしれっと言った元就が佐助に煙草の箱を差し出す。
貴様のであろうと差し出された箱の見慣れた銘柄を見てそれを受け取った佐助はありがとうと笑った。
テーブルの上に忘れてきた者だった。
煙草に火を火を点ける元就に倣って佐助も中身を一本咥え、差し出されるライターの火に顔を寄せた。
その後すぐにシフトを聞きにきた小十郎にホストが我れ先と群がる。
その様子を遠巻きに見ながら煙草を灰に変えていた元就が面倒になったと言って帰って行った。
特にシフト希望があったわけではなかったようだが、彼が来たことで背にのしかかっていたプレッシャーが少し和らぎ、冷静さを取り戻したような気がした。
焦るだけでは売上は伸びない。
壁に凭れて2本目の煙草に火を点けながら、徐々に減って行くホストを眺める。
急ぐ用事があるわけでもない佐助はのんびりと煙を輪にして遊んだ。
小十郎は聞いたシフト希望を用紙に書き入れているだけで佐助を視界に入れるわけでもない。
あの日から一度も彼の部屋を訪れない佐助のことなど、気にも留めていないようである。
大方、いい厄介払いができたとでも思っているのであろう。
彼の左手の包帯は数日前から見えない。
手のひらで口許を覆ったままフィルターを噛んだ。
小十郎に群れていたホストがまばらになり、やがて誰もいなくなる。
できれば早く済ませて給料の使い道でも考えたいというところなのだろう。
最後のホストが出て行き、ようやく小十郎が佐助を視界に入れた。
冷たいコンクリートの壁につけた背中に歓喜の震えが走る。
あの眼は、俺の姿を映すためにある。
「テメェもシフト希望か?」
「もちろん。」
「月曜、でよかったか。」
「うん。」
言いながら小十郎は紙にそれを書き込むことはしなかった。
佐助がここに勤めるようになってから毎月のことである。
給料日の次の月曜、それ以外に佐助が希望休を出すことはない。
さりとて小十郎もそれが何のための休みであるのかを詮索することもしない。
多かれ少なかれ、誰にでも話したくないことがある。
「わかった。月曜は休みにしておく。帰っていいぞ。」
噛みを裏返し、その上にボールペンを置いた小十郎は目頭を揉んでから煙草を出した。
佐助が投げて寄越した安いライターには見向きもせずに火を点ける。
ゆっくりと濃い煙を吐いた。
「代表。」
「なんだ。まだ用か。」
「アンタどうやって2000万稼いでたの?」
椅子にだらりと体を預けて目を伏せていた小十郎は薮から棒になんだと言いたげな視線を佐助に向けたが、指に挟んだ煙草を口に運びながら答えた。
「俺の場合はうまく太い客に当たってたんだ。飾りボトル入れたり、シャンパンしか入れなかったりな。派手な遊び方するヤツが多かった。」
「それだけ?」
「それだけだ。何だ急に。やる気でも出したのか?」
煙草を灰皿に老いた小十郎の口角が静かに上がる。
理由なんて聞かずとも知っているくせに、と思った。
「どうやったら2000満行くのか、ずっと考えてんの。どうしたらアンタが俺を見てくれるのか、アンタに必要とされるのか…さ。」
客みたいなことを言う、と小十郎はため息を吐いた。
灰皿の上で灰になりかけている煙草を取り上げて一口吸い付ける。
「俺が金で動くような男だと思ってんのか?」
顰めたまゆのしたで鋭利な視線が佐助に向いたが、佐助の狡猾な視線の上を滑るだけだった。
佐助の革靴の底が床のリノリウムを踏んで高い音が響く。
「さあ?アンタだって所詮ホストだ。それに、そうでなくちゃ俺が報われなさすぎると思わない?」
佐助の指先が酷く緩慢な仕草で煙草を灰皿に押し付ける。
小十郎は試されている気分になり、うんざりと煙を吐いた。
佐助は殴りつけたせいで僅か歪んだロッカーを力任せに開けてコートを出している。
その背中に今まではなかった拒絶が見えるような気がして、小十郎はこめかみを押さえた。
どう答えれば満足するんだ、この男は。
「お疲れさまでした。」
コートを羽織った佐助は、襟のファーを直して小十郎の横を通り過ぎようとした。
とっさにその肘を掴む。
「何?」
「やる気を出すのは結構なことだが、ちゃんと寝ろ、メシを食え。」
元々骨っぽい肘が分厚いダウンジャケットの上からでもわかるほどにその細さを増していた。
佐助はふいと顔を背けて小十郎の手を振り払う。
「寝てるし食ってる。アンタが心配するようなことじゃない。どうでもいいくせに構わないでよ。」
「今日はとりあえずちゃんと寝ろ。明日は遅番だろう?」
「構わないでって、言ってんじゃん。」
「じゃあ構われないように努力しろ。俺が言わないとまともな生活もできないのはどこのどいつだ?」
俯いた佐助が長い前髪の奥で薄い唇を噛むのが見えた。
我ながら最低だなと小十郎は自重に唇を歪め、振り払われたてで燃え尽きそうな煙草を取り上げて一口吸い、それを灰皿に潰した。
どう扱えばいいのかがわからないにしてももう少しやり方があっただろうと客観的な時分が言った。
それもそうかも知れない。
でも、わからない。
舌の先に言い訳を転がして飲み込む。
恐ろしいほどに息苦しい沈黙だった。
家で寝て帰ればいいと言い出しそうになるのを誤魔化すように新しい煙草を咥えた小十郎は乱暴にライターを擦った。
「帰る。お疲れさまでした。」
俯いたままの佐助がそう言って更衣室を出て行く。
今なら引き止めて自分の家に帰らせることができる。
そう思う頭の反対側で、それでは意味がないとも思う。
このまま放っておけば、いずれ佐助は元親を抜き、政宗に迫るだろう。
それだけの資質は持っている男だ。
うまく太い客を掴み、今まで通りのそつのない営業を続ければいずれは。
しかし、今のままの佐助では追いつくよりも先にプレッシャーにつぶれるのが先だ。
どうにかしてやりたいと思う。
心配もしている。
それでも、自分が口を出して佐助の意思を揺さぶるようなことになってはならぬ。
佐助が小十郎の一挙手一投足、何気ない言葉の一つで駄目になることもわかっている。
だからこそ、今はそっとしておくべきなんだと自分に言い聞かせる。
指先に挟んだままだった長い煙草を消し、小十郎も立ち上がった。
握り締めた左手の手のひらが鈍い痛みに痺れた。
End
もどかしくてはがゆくて、それでも動かないこれが全て。