- 佐助は寒さに薄く目を開けた。
宙に舞う埃がきらきらと陽の光に輝いている。
着たままのコートの前を抱き込むようにして腹ばいになり、履いたままだった靴を蹴り飛ばすように脱ぎ捨てた。
昨日は飲み過ぎた。
頭が痛いし、胸のあたりが苦い。
脱ぎ捨てた革靴の踵が金属の扉にぶつかる音が頭に響く。完全に二日酔いだ。
タクシーを降りてからの記憶がないが、飲み過ぎた時にはよくあることだ。
誰とどこで飲んでいたのか、どれくらい飲んで何を話したかもきちんと覚えているが、帰宅した途端にぷっつりと記憶がなくなる。
今の自分の状態からして、今日は玄関に入ったところで力尽きたらしい。
北側の玄関は寒い。のそりと起き上がって腕時計を確かめる。午後2時半。
寝すぎた。サロンに行って伸びた髪を切ろうと思っていたが、この時間から出たのではいろいろと間に合わない。
ズルズルと腹ばいのままで玄関から移動しながらコートを脱ぎ捨て、首に絡まっているだけのネクタイを放り出す。
今日は日付が明けて日曜日だから店は休み、明日の月曜も休みを取ってある。
今日は母の見舞いに行くのだ。ついでに入院費を清算する。
伸びたままの髪で行っては母に心配をかけるかもしれないが、取ってある特急の切符は4時17分発だ。
サロンに行っている時間はない。
とりあえず風呂、と思うが手足の指先に飲みすぎたアルコールが沈殿しているかのような体の重さに負けてラグに顔を落とす。
連日の寝不足と飲み過ぎ、そしてこの二日酔いである。
冷蔵庫まで行けばヘパリーゼが入っているが、そこまで移動するのも億劫だ。
目の前に落ちている携帯の充電器にポケットから出した携帯を繋ぎ、ずるずると床に胡座をかいた。
シャワーを浴びて荷造りをし、特急の時間に間に合うように家をでなくてはならない。
大きく息を吐き出し、一息に立ち上がる。
視界が揺れたが膝に力をいれて持ちこたえた佐助は冷蔵庫からヘパリーゼを出して封を切り、瓶を咥えたまま浴槽に湯をためた。
スーツが濡れるのも構わずに浴槽の淵に座って瓶を傾ける。
寒い浴室に清潔な湯の匂いが充満して胸の苦さが薄れていく気がした。
そうだ、新しいスーツも買わなくてはいけない。
この間捨ててしまった。
動きの鈍い体でシャワーを浴び、どうにか特急には間に合った。
窓の外の景色が都会の喧騒を失い、閑散とした住宅街になり、やがて淋しい木立が多くなる。
その合間には刈り取られた稲が残る田んぼが広がっていた。
窓に派手な頭を押し付けたままの佐助は、眠ることも出来ず、かといってすることもないままぼんやりと過ぎていく車窓を眺めている。
頭を占めるのは仕事と小十郎の事ばかりだ。
近付いては離れ、触れては突き放すあの男がなにを考えているのかがわからない。
どうすればいいのかがわからなくて、勝手に意地になって彼に追いつこうとしている。
できるはずがないと思う自分を、彼のために出来ない事などないのだと言い聞かせて奮い立たせている。
単なる自己欺瞞でしかない。
ひと月も経たずに体は不調を訴えているし、今まできちんと計算し続けていた売り上げを計算する事もなくなった。
風邪でほぼ一週間休んだ今月は、ただでさえ努力した先月を超えることはないだろうと思ってさえいる。
小十郎が佐助を愛してくれないのならせめて近付きたい。
彼のいる高みで、彼の隣に立つだけの実力が必要だ。
小十郎が佐助を鬱陶しく思うのは彼の勝手だが、佐助が小十郎のことを好きでいるのも佐助の勝手だ。
男として隣にいられないのなら、同じホストとして隣にいられたらそれでいい。
そう、思おうとしている。
それに、隣にいればいつかは振り向いてくれる日がくるかもしれない。
だから、押し付けることはやめようと思った。
列車の扉が開き、アナウンスが目的の駅についたことを知らせる。
網棚に投げ出していたボストンバッグを担いでホームに降りる。
地元は薄い雪化粧で佐助を迎えた。
吐く息が白く視界を濁して消えていく。
いつかこの気持ちもこうして消えていくのだろうか。
できるなら消えて欲しいと思う。苦しくて辛いだけだ。
まばらな人影を追うように改札を出てタクシー乗り場へ向かおうとした佐助は足を止める。
いつもの癖でタクシーに乗ろうと思ったが、地元では母が知る佐助でありたいと思い直す。
踵を返してバス停へ向かった。
通勤の時間帯だからか、バス停にはわずかな人ごみができていた。
母の入院する病院はこの駅からバスで20 分ほどの場所にある。
佐助と母が住んでいた家はこの駅から短い私鉄に乗り換えた先の駅だ。
先に荷物を置きに戻るべきかとも思ったが、のんびりしていては面会時間が終わってしまう。
急ぐ用事もないのだから先に母の顔を見に行こうと決める。
到着した病院行きのバスに、乗客は佐助しかいなかった。
煙草を吸いたいと思ったが、母の見舞いが終わるまで我慢しようかと考えて座席に深く凭れて目を閉じた。
明日は早く戻って髪を切りに行こう。
失恋して髪を切る女性の気持ちが何となくわかるような気がした。
面会入り口を抜け、エレベーターに乗り込む。
夕方の病棟は仕事帰りに見舞いにくる人でそれなりに賑わっていた。
一ヶ月間ひとりでこの病棟で過ごす母を思って胸が痛む。
そっと病室のドアを開けた。
6台並ぶベッドの、左の窓際が母のベッドだ。ピタリと閉じられたカーテンを静かに引く。
「母さん。」
ベッドの上で目を閉じていた母の目蓋が開き、佐助に似た薄色の瞳が緩く細まった。
「具合どう?リハビリ頑張ってる?」
担いでいたボストンバッグを床に置いて、隅に寄せられている椅子に座った。
母の左手が佐助の伸ばした手を取り、小さく頷いた。
「明日も休みだから、今日は家に帰るけど、必要なものある?あったら取ってくるけど。」
「大丈夫。佐助、少し痩せたかしらねえ。」
「そんな事ないよ。久しぶりに会ったからそう思うだけじゃん?」
へらりと笑って見せる。母は穏やかに笑って佐助の手の甲を撫でた。
「仕事、忙しいの?」
「まあまあ。暇よりはいいかなって感じ。」
「佐助には苦労かけるね。」
「気にしないでよ。あんまり様子見にも来れないし、親不孝だって言われても仕方ないと思ってんだからさ。」
戯けて言えば、母は笑顔のままで首を振って十分だよと応える。さっきまでのささくれた気持ちが嘘のように凪いでいく。
「明日、病院代払って帰るよ。」
「佐助。」
「ん?」
佐助の手を握る母の指先に力が篭る。伏せられた睫毛が震え、佐助をまっすぐに見据えた。
「あの部屋、引き払おうかと思ってね。」
「なん、で?」
「誰も住んでない部屋にいつまでもお金払えないでしょ?佐助がこっちにくる時はホテルでも取ればいいし、その方が安上がりじゃない。」
その分貯金でもしなさい、といつかと同じように母は言った。
ボロくて狭い部屋でも佐助にとってはそこが実家だ。
あそこだけは佐助を拒む事はない。
母が入院してからも頑なに家賃を払い続けたのは、あの部屋が佐助の中で一つの支えだったからに他ならない。
「やだよ。あそこは、俺の帰る場所なんだから…母さんだって早く退院して」
「退院は出来ないのよ。」
「は?」
「癌がね、見つかったの。大腸だって。手術と抗癌治療で治るかもしれないけど、母さん、もう手術には耐えられないかもしれないって言われてね。」
「嘘、だろ?」
「本当なの。」
目の前が暗くなり、そして急に明るくなる。
絞り出した声が震えた。
母はなおも言葉を続けているが、佐助にはよく聞こえない。
すぐにどうこうと言うわけではないと言う母の声がぼやけて聞こえる。
佐助は俯いたまま唇を噛んだ。
「だからね、あの部屋にはもう誰も住まないでしょう?毎月見舞いと掃除じゃあせっかくのお休みが台無しじゃない。そうしたら朝から来て日帰りで帰れるでしょ?」
「でも…俺は、」
金には困ってないと言おうとして佐助は黙った。
母には美容師をやめた事もホストをしている事も言っていない。
母は今でも佐助が美容師として頑張っているのだと思っている。
母には言い出せなかった。
暖房に乾いた空気を喘ぐように吸う。
「不動産屋さんに連絡すれば郵送で手続きはできるはずだし、佐助の荷物以外は処分してくれて構わないわ。」
「…わかった。」
深く追求されては全てを洗いざらい白状していまいそうだと思った佐助はため息を吐いた。
母がほっとしたように息を吐き、苦い笑顔を佐助に向けた。
「ごめんね、佐助。なに一つあんたの自由にさせてあげられなくて。」
俯いた母がそっと目元を拭うのを、佐助は見逃さなかった。
病院を出てバスと電車を乗り継いで懐かしい部屋へ帰る。
財布の中から出した鍵で扉を開けた。
懐かしい家の匂いにただいまと呟き、電気を点ける。
佐助が家を出た当時となにも変わらない部屋の中で母の不在だけが輪郭を濃くして主張する。
狭いダイニングに置かれた椅子を引いてコートも脱がないまま座り込んだ。
ガタガタと音を立てた椅子の上で埃が舞う。
母が死んでしまったわけでもないのに、ひどい孤独感だった。
机に肘をついてこめかみを揉む。
もう片方の手でコートのポケットから煙草を引っ張り出した。
小十郎からもらったライターが硬い音を立てて床に落ち、佐助は声をあげて泣いた。
慰める者は誰もいない。
どうして何もかもうまくいかないのだろうか。
ここへ帰れば母が当たり前のように待っていると思っていた。
美容師になり、いつか結婚し、無難に年を取るのだと思っていた。
母はここにはおらず、美容師を辞め、結婚どころか振り向きもしない男の尻を追いかけている。
求めるものは何一つ手に入らない。
手に入るのは有り余る給料と増える一方の貯金だけだ。
それだけあればここで母の面倒をみながら細々と生きていけるだろうが、今更小十郎がいない日常に引き返せるのかとも思う。
全て投げ出してどこか遠いところへ行ってしまいたい。
佐助にあるのは母とあの狭い部屋と店だけだというのに、どうしてそれだけのものがこんなにも全てうまく回らないのだろうと思う。
店に出るときよりもキチンとセットした髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、流れる涙も拭わずに机に顔を伏せて泣いた。
もし神様がいるのならあんまりじやないかと言葉にならない声で叫ぶ。
ここは引き払わないからなと誰にでもなく喚き、伸ばした足で机の脚を蹴る。
玩具を欲しがる子供のようにそれだけをただ喚き続けた。
ここを維持し続けるだけの金はある。そのためにホストをしている。
引き払うなら都会の病院にと言った佐助に、母は首を横に降った。
私はここが好きなのよ、と薄く雪の積もった窓の外を眺めていた。
母も小十郎も美容師として生きる人生もこの部屋も手に入らないなんてあまりにも酷すぎる。
その中で佐助が残せるのはこの部屋だけだった。
他の大切なものは、何も残らない。
一頻り喚いた佐助はしゃくりあげながら顔を上げた。
誰もいなくても、この部屋は佐助を拒まない。
いつでもここにあって、面影だけでも母がいる。
閉めたままのカーテンの外は雪だ。
今日は本格的に積もるだろう。明日の朝、病院代を支払ったら帰ろう。
そして、休みは返上して仕事に行こう。
これ以上孤独に耐えられるとは思えない。
のろのろと煙草を引っ張り出し、落ちたライターはそのままで箱に入っていたライターで火を点けた。
翌日、佐助はアルバムを持って家を出た。
少ない写真の中には佐助の七五三の写真が残っていた。
母に寄り添われて笑う佐助の笑顔がよく撮れていた。
屈託なく、満たされた顔で笑う子供は、自分ではないような気がした。
こんなにも欲にまみれ、その欲が満たされずに渇いている大人になるのだと誰が思うだろう。
いつもと同じように、いってきますと言って部屋を出た。帰ってくる場所はここなのだ。
病院代を精算しにいった窓口には、中学時代の同級生が座っていた。
大きなお腹で、再来月に産まれるのと笑っていた。
世界は思わぬ早さで回っているのだなと思った。
そして、自分はそこから弾き飛ばされているような錯覚を覚えた。
昨日よりも深さを増した雪を踏みながらバス停に向かう。
また一ヶ月が始まる。
バスを待ちながら携帯を出して小十郎に電話をかけた。
寝ているかもしれないなと思ったところで呼び出し音が途切れる。
『なんだ?』
「今日出勤にしてください。」
『頭数は足りてるぞ。』
「やることなくなっちゃったんで。」
受話器の向こうで煙を吐き出す吐息の音がした。
肩に携帯を挟んで凍える指先に白い息を吹きかける。
「今からそっちに戻るから、できれば遅番がいいなー、…とか。」
『どこにいる?』
「地元。3時間あれば帰れるけどちょっと寝たいし、同伴の約束も取り付けなきゃいけないから。」
角を曲がってくるバスが見えた。
小さく足踏みしながら、白い息で答える。
「代表、バス来ちゃったからまたかけ直す。」
『待て。出勤させてやるから戻って来たらうちに来い。いいな?』
「代表俺様が最近冷たいから寂しくなっちゃったの?まあ仕方ないよね、俺様ってば可愛くて優しくて天使だもん。代表もそろそろ俺様の魅力に気づいちゃった感じ?俺様はいつでもオッケーだから気持ちが決まったらいつでも抱いて。」
隣でバスを待っていた背中の曲がった老婆がギョッとして佐助を見る。
目の前に止まったバスから降りてくる乗客をよけながらバスに乗り込む。
小十郎はそれには答えず、ひとこと待ってるからなとだけ答えて電話を切った。
窓際の席を陣取り、母がいるであろう病室を見上げてみるが、窓枠が邪魔をして見えなかった。
昨夜泣いたせいで重たい目蓋をサングラスで隠した佐助が窓に薄く映る。
こんな顔で行けるかよと口の中で毒吐くが、待っていると言われた以上、行く以外の選択肢は佐助に残されなかった。
どうせ自宅に戻ったところで眠れもしないだろうし、一人でいるよりはまだましだ。
窓に頭を預け、横目に流れていく車窓を眺めた。
小十郎に会うまでに目の腫れをどうにかすることはできなくとも、何もなかったことを装うことはできる。
それくらいの切り替えもできなくてホストなんてやっていられるか、と違うところでプライドが疼いた。
ポケットに突っ込んだままの手を拳に握る。
失えないものなんて作るから、失った時に絶望するんだ。
最初から全て諦めてしまえばいいのだ。
End
何も残らないのなら最初から全て捨ててしまえばいい。