- 小十郎のマンションの前で停めたタクシーの中で財布を開きながら、もういっそこのマンションの空き部屋を買えばいいんじゃないかと思う。
ここと自宅の往復に使うタクシー代だけでも随分な額だろう。
計算したことはないが。
でもそれじゃあストーカーか、と口の中でもごもごと呟いて佐助はタクシーを降りた。
エレベーターに乗り込み、小十郎の部屋の前まで移動し、足元にボストンバッグを放り出すように置いてインターフォンを鳴らした。
その指先でコートのポケットから煙草の箱を出して中身を咥える。
腹が減ったな、と考えながら火を点けたところで、内側から扉が開いた。
火を点けたばかりの煙草が佐助の薄い唇から転がり落ちる。
「危ねえな。」
片手で扉を支えたままの小十郎が落ちた煙草を拾い上げて自分の唇に咥えた。
「早く入れ。寒い。」
「ちょっと待って代表まさかマジで俺様のこと抱く気になったわけ?俺様びっくりしすぎて口あんぐりなんだけど。その前にちゃんと優しく愛の告白してね。ってか代表のことダーリンって呼んでもいい?俺のことはハニーでいいから。どうしよう俺幸せすぎて天に召されそう。愛してるよダーリン。」
「息継ぎ忘れてるぞ。」
面倒臭そうに佐助に背を向けながら言った小十郎は、佐助を待たずに部屋の中へ入っていく。
佐助はボストンバックを玄関に蹴り込み、転びそうになりながらブーツを脱いで小走りに小十郎の後を追った。
小十郎はいつものようにソファを陣取って佐助から奪った煙草を吸っている。
佐助はコートも脱がずに小十郎の膝の上に跨り、両手を広げた。
「さあどうぞ!」
「何がだ?」
「愛の告は」
最後まで言葉は聞かずに佐助の開いた口に煙草のフィルターを押し込む。
それを片手で取った佐助はちょっとなんで!と喚いてから、まさか照れてるの?と煙を吐き出した。
「悪いが愛の告白はねえ。」
「え、何それ。俺様ちょー期待したんだけど。ってか愛の告白なしに抱こうなんて愛と夢を売るホストにあるまじき行為だよ代表。」
「ちょっと黙れ。」
「黙ったら愛の告白ある?」
「ねえな。」
じゃあ黙らないと再び喚き始めた佐助のサングラスを小十郎が取り上げる。
あ、と声をあげた佐助がようやく黙り、腫れた目を隠すように俯いた。
「テメェは一体何を考えてんだ。」
「…代表のこと?」
「俺のことを考えて泣いたのか?地元で。」
ずるずると小十郎の膝から降りた佐助は、床にぺたりと座り込んだ。
「ちょっとだけ代表のせいだけど9割は違うこと。」
「1割は俺か。」
「…いろいろあんのよ、俺様にも。」
眉間に深く皺を刻んだ小十郎が床に座り込んだ佐助をチラリと見る。
指に挟んだままの煙草を吸いながら佐助は視線から逃れるように目を伏せた。
「話すつもりがねえなら無理に聞き出しやしねえが、今まで欠かさず欠勤してた日に突然出勤させろなんて言われたら気にもなる。」
「それって遠回しに心配してるって言ってる?」
「そう思うなら今日は休め。」
「やだ。むり。一人でいたらうっかり自殺しそう。」
「うっかりで死にそうなくらい追い詰められてる奴を出勤させるほど俺は鬼じゃねえ。」
小十郎の声が厳しくなった。
今日は何があっても出勤させないということだろう。
長くなった灰が佐助のコートの裾に落ちた。
それを指先で払いながら、佐助はわかってないと胸の内で呟く。
「一人になりたくないからお仕事させてくださいって、言ってんのに。」
「誰なりといるだろうが。」
「うん。だからお客さんに遊んでもらおうかと思って。せっかくだからお店で。」
佐助は一口吸い付けた煙草を灰皿に揉み消し、新しい煙草を出して火を点けた。
煙を吐き出しながら、佐助は自嘲するように唇の端を持ち上げて鼻で笑う。
「代表も、もうわかってるでしょ?俺様ね、一円でも売り上げが欲しいのよ。代表だって店が儲かるわけだからお互いのメリットは満たしてるんだしさ。いいじゃない、出勤させてくれれば。」
空腹と疲労が自分勝手な苛立ちを増幅させていることはわかっていたが、ひとりになることを恐れて焦る気持ちが理解を示さない小十郎への苛立ちをさらに増幅させていた。
小十郎は腕を組んだ姿勢のまま顔を伏せる佐助の首元にわだかまるフードについた茶色いフェイクファーを険しい顔で見つめていた。
「来月、」
ポツリと佐助が言った。
「いや、今月の締め日で辞めるから。」
「…急だな。」
「うん。いろいろ疲れちゃったし、地元に帰ろうかと思っててさ。必死になって代表に追いついてやろうって思ってたけど、もういいや。それに、代表が2000万程度で満足してくれるとは思えなくてさ。何があっても、代表は俺を好きにはならないんだろうなってことも、薄々分かってる。だからさ、もう代表も中途半端に俺のこと大事にするのやめてよ。」
何かを大事にするのはもうやめるんだと、ギリギリと音を立てる奥歯で咀嚼して飲み込む。
自分だけが大切にするのはお互いに辛すぎる。
固く閉じた目蓋の裏側が熱い。
営業でなく吐く決別の言葉の何と重たいことかと思いながら佐助は鼻から大きく息を吸った。
込み上げていた何かが腹の底に落ちていく。
触れられないところが澱んだ。
「最後くらいNo.1飾りたいんで、今日は出勤します。同伴決まったら連絡しますんで。今から営業かけるからたぶん二部の時間だと思います。」
佐助はフィルターのギリギリまで短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
何度も、何度も、とっくに火の消えたそれを執拗に灰皿に押し付けてから、惜しむようにそれを離す。
ポケットから引っ張り出したキーケースから小十郎の部屋の鍵を外し、腕時計とライターも纏めてテーブルの上に並べた佐助がのんびりと立ち上がって玄関に足を向けるのと、小十郎がその手を掴むのはほぼ同時だった。
「何があった?」
押し殺した声が呻くように問う。
佐助は笑おうとして失敗した顔で小十郎を振り返った。
「言わないなら聞かないって、言ったじゃないですか。」
「辞めるとなりゃ話は別だ。」
小十郎の手は佐助を離さない。
暖かい指先が冷えた佐助の手首で力を増す。
手首ではないところが痛んだ。
「…言ったでしょ?いろいろ疲れちゃったんです。」
手首を掴む小十郎の手を軽くなった左手でやんわりと解いた佐助は振り返らずに部屋を出て行った。
ひとり取り残された部屋の中で、小十郎は佐助が残していった合鍵を掴む。
握りしめたそれは、今は赤く筋を残すばかりになった手のひらの傷に食い込み、鈍い痛みを伝えた。
結局一度も使われることはなかったそれを握りしめたまま力任せにソファを殴りつける。
重たい音が静かな部屋に響いた。
もう手遅れなのかと歯軋りする口の中で呟く。
突き放しておきながら、離れていくなと手を伸ばす。
二兎を追うのは自分だ。
売り上げなんてどうでもいいからここにいろと言うには、自分の気持ちは頼りない。
ただほだされているだけなのか、それとも自分の意思として佐助を傍に置いておきたいのかが見えない。
それは今でも変わらないが、佐助が離れて行こうとしていく今、佐助をどうにかして手元に残しておきたいと思うのは、鬼庭の言っていたように佐助に毒されているだけなのか。
もしそうだとしても、今佐助がいなくなってしまうのは困ると思った。
店がではない。
小十郎が個人的に困るのだ。
どうすればいい、と握りしめた鍵に問う。
行くなと引きとめれば、あの男は手元に残るのか?
下ろしたままの前髪を雑に掻き上げ、ソファに体を投げ出しながら目を閉じる。
大事にするなと言った佐助の顔は見えなかったが、執ように煙草を灰皿に押し付ける指先が白くなっていた。
小十郎がいなくては息もできないと涙ながらに言った口で、もう必要ないと言う。
どちらが本心で、どちらが嘘なのか。
小十郎にはわからないが、確かめることはできる。
だが、躊躇う気持ちがあるのもまた事実だ。
ライターを渡した日も、庇って怪我をした日も、買い物にいった日も、小十郎が歩み寄ろうとすると佐助は必ず逃げる。
何が彼にそうさせるのかは何となく想像が付くが、今回はそれで下手を打てば彼を失うことになるだろう。
いままでチラリとしか見せてこなかったカードを切る時がきたと言うことなのかもしれない。
深いため息を吐き出した小十郎は天井を仰ぐ目元に鍵を握ったままの腕を乗せた。
隙間から壁に掛けた時計を見る。
今日、佐助は本当に出勤してくるのだろうか。
二部までの時間は長い。
何も言わずにいなくなるホストも多くいる。
佐助がその類ではないとは言い切れない。
体を起こした小十郎は鍵をテーブルに放り出して煙草の箱を掴む。
片手で開けた箱の中身を探るが空だった。
買い置きのカートンを取りにいくのも億劫になった小十郎は空の箱を握り潰してゴミ箱に投げる。
膝に肘をついて目頭を揉んだ小十郎は、もし飛ばれても履歴書を見れば住所くらいはわかるかと慰めにもならないことを考えた。
何事もなかったように出勤した小十郎の携帯に佐助から電話がかかってきたのは一部の営業が始まってしばらくしてからだった。
伝票を作る片手間に電話を取る。
『同伴決まったんで、出勤します。』
「わかった。」
『終電で行くんで、12時半には店つきます。』
背後に街の喧騒が聞こえている。
こんな時間から同伴などご苦労なことだと思いながらも、とばれなかったことに内心で安堵する。
「終わってから話があるから、今日は飲みすぎるなよ。」
『辞めるやつに話なんてないでしょ。』
「ナンバーが辞めるのにイベント打たないわけにはいかねえだろ。」
『面倒だから飛んだって言っといてくださいよ。』
「店のメンツもあんだ。わがまま言ってねえで最後までちゃんと働け。」
シャンパンのオーダーをとってきたボーイに軽く手をあげて応え、シャンコだから切るぞと言って電話を切った。
店はいつもと大差ないが、週の頭と言うこともあってか、少し暇なくらいだ。
今も茶を引いたホストたちが寒い中でキャッチに勤しんでいることだろう。
カウンターに並ぶ伝票を眺めながら、シャンパンコールの喧騒を聞く小十郎の頭の中は佐助をどう扱うかで埋め尽くされている。
佐助の売り上げなどどうでもいいが、小十郎が残したいのは現状だ。
半ばストーカーのように言い寄られ、面倒なふりをしながらもあの男が手元にあることに優越を感じている。
誰にというわけではないが、佐助の卓の伝票を見る度に心のどこかでいくら払おうともこいつが俺を好きなことには変わりがないのに、と思うのだ。
見ないように、考えないようにしてきたことをこうして考えてみると、自分はやはり佐助が好きなのかもしれないという気がしてくる。
随分と自分勝手で呆れるほどの独り善がりだなと思うが、小十郎が知る限りでは愛だの恋だのと言うものは概してそう言うものだ。
相手のためと謳って行なわれる行為は、結局自分を好きだと言わせるための行為でしかない。
周りまわって自分のためなのだ。
それに気付かない人間や、取り繕う人間が大半を占める中で、それを全面に押し出して好き放題に一方的な愛を臆面もなく叫ぶあの男は、ある意味でまだ可愛げがある。
そして、その分こちらもしたいようにできるのかもしれない。
あれだけ曖昧に甘やかしては突き放してきた自分を、それでも好きだと言うくらいだ。
ボールペンを回しながらのんびりと考え込む。
店を辞めてしまうならば、まあそれでもいい。
店にいれば否が応でもナンバーだの売り上げだのを気にせざるを得ない。
それで佐助が苦しんで八つ当たりをされるくらいならば、いっそ辞めてくれた方が助かる。
問題は、それでも小十郎と繋がりを持ち続けるということに佐助が首を縦に振るかどうかだ。
回していたボールペンが指先を滑ってカウンターに落ちる。
拾い上げることはしないで腕時計を見た。
じきに一部の営業が終わる。
一番端の伝票を引き寄せて電卓を叩く。
もうこの際取り繕うことはやめて、思っていることを全て話し、佐助の胸の内を全て晒させればいい。
元がバカで単純な佐助のことなのだから、こちらが言いたいことをぶち撒ければ自ずと便乗してくるだろう。
あとはなるようにしかならない。
後のことは後で考えればいいかと考えることをやめ、二枚目の伝票を引き寄せる。
黙々と電卓を叩いた小十郎は、ラスソンは元就だなと一つ頷いてボーイを呼んだ。
End
考えるから難しくなり、悩むから泥沼に落ちる。