マンションのエントランスを出た佐助は暫くノロノロと歩き、結局マンションの敷地と歩道を分ける低い植え込みの塀に背中をつけてへなへなと座り込んだ。
勢い余ったという感覚が拭えない。
やめてもいいかもしれないと思っていた事は確かだが、本気でやめるつもりではなかった。
引きとめられた時に、全て洗いざらい話してしまえばよかったのかもしれないが、それができるほど佐助自身が自分の考えを理解できていなかった。
ただ、実家で湧き上がった全てを投げ出してしまいたいという願望だけが口をついたのだ。
そうすれば楽になれるのかもしれないと、心の中でずっと思っていた。
自分がしがみついているものの頼りなさが一気に浮き彫りになっていく。
母はもうしがみつく佐助を抱き返す体力がなく、小十郎はそもそも背を向けている。
背後は切り立った崖で、佐助の腕だけではもう支えられないところまで来ている。
離せるのは背を向ける小十郎の足首を掴む手だけだ。
貯金を食い潰せば暫くは生活もできるし、美容師に戻れば自分の生活くらいはどうとでもなる。
店をやめてしまえば楽になるだろうか。
しゃがんだ膝の間にうずめた頭をあげて軽くなった左手で前髪を掻き上げた佐助は一息に立ち上がる。
腹が減った。しかも眠たい。
目の前の車道を車が連なって流れていく。
その中に見つけた空車のタクシーに手を上げて乗り込む。
行き先を告げるなり目を閉じた佐助を見て運転手は付けていたラジオを消した。


結局、突然の同伴を頼めたのは小十郎に怪我をさせた客だけだった。
得体のしれない女というイメージが強く、自ら呼ぶ事は一度もしなかったが、それでもその後何度か店に顔を出していた。
毎回シャンパンを卸し、エースと変わらぬ額を毎回キャッシュで支払っていく。
金はあるようだが、その金の出どころや職業については触れさせない雰囲気があった。
この世界ではキャバ嬢もホストも、仕事の話は相手からされない限りはNGと言うのが不文律になっているので、佐助も聞きはしないがどこかのお嬢さんなのだろうと思っている。
気紛れで気位の高い女だが、売り上げが欲しい佐助としてはありがたい客だ。
ぼんやりと自宅で時間を潰してから準備をして部屋を出る。
同伴だからと私服で出てきたが、ロッカーに置いてあったスーツは自宅に引き上げてしまっていたことを思い出す。
待ち合わせた彼女に買い物に付き合ってくれと告げると、買ってあげると返された。
いつも世話になっている店に向かおうとした佐助を引き止め、躊躇いなくブランド店が並ぶ百貨店に連れていかれた。
いくつかの店で着せ替え人形になり、結局一番最初の店で着た物を買ってもらった。
値段は見なかったことにした。
適当な店で食事をして店に向かう。
顔見知りのキャッチと店のホストが挨拶をしてくるのに生返事を返す佐助の隣で、彼女は何故か誇らしげに歩く。
やはり女という生き物はよくわからない。
小十郎と歩いていても感じるのは劣等感とそれに抉られるちっぽけなプライドだけだ。
背を丸めることはあっても、彼女のように歩くことなどできない。
店の扉を押し開けながら、彼女にとって俺はアクセサリーみたいなものなのか、と妙に納得した。
ボーイと小十郎に彼女を任せて自分は更衣室へ向かう。
紙袋から出したスーツに着替えると、ぼんやりとしていた気持ちが少しはっきりする。
スーツは男の戦闘服と最初に言い出した人間の的確な言い回しに感心しながらロッカーを閉めた。
無意識に時計を見ようとして、そこに腕時計がないことに気付く。
針で刺したような鋭い痛みが胸をついたが、目を閉じてやり過ごす。
大きく深呼吸をしてから佐助は更衣室を出た。
「卓どこ?」
「7番です。」
空いたグラスを引き上げてくるボーイを捕まえて問うと軽い声が答えた。
「時計忘れたからちょっと貸してよ。」
「ヤですよ。俺もないと困りますもん。」
「ケチ。今日こき使ってやるから覚えてろよ。」
冗談めかして言った佐助に真顔で返したボーイの背中を叩きながらカウンターへ向かう。
小十郎が顔を上げた。
「いいスーツ着てるじゃねえか。」
「さっき買ってもらったんで。」
返しながらカウンター裏に並んだ伝票を覗き込む。
今日は政宗のエースがいるらしいことを確認して、荒れるなと覚悟する。
佐助が売り上げを伸ばそうとしはじめてから、政宗が妙に突っかかってくるのだ。
No.1ってのがそんなに大事かね、と思いながら卓へ向かおうとした佐助の目の前に腕時計が差し出された。
一瞬動揺し、半瞬で迷惑そうな表情を作った佐助が腕時計を見た。
「ないと困るだろうが。」
「返すってことだったんだけど。」
「いちいち時間聞きにこられるのも面倒なんだよ。」
そう言って小十郎は佐助のスーツの胸ポケットに腕時計を落とした。
それを出した佐助が腕に着けるのを見届けた小十郎は、それと気付かれぬように安堵の息を吐き出した。
突き返されるかもしれないと思っていたからだ。
佐助は背を伸ばして卓へ向かっていく。
ヘルプと話していた彼女は、現れた佐助に似合っていると言い、今日は同伴だからとシャンパンを卸した。
それに呼応するように政宗の卓でシャンパンが出て、いくつかの卓でシャンパンコールが続く。
それに便乗する佐助を追うように政宗がシャンパンのグレードを上げ、客の間で火花が散る。
こちらは金には糸目をつけぬ性分の女で、あちらはあちらでNo.1のエースと言う意地があるのだろう。
政宗が潰れるか、佐助が潰れるかしかこのループを断ち切ることはできないかと考えて、佐助は重くなる頭を小さく横に振った。
出来ればあまり飲みたくない。
具合があまり良くない上に、隣にいるのは思い出したくもないあの日と同じ女だ。
あの日と同じ轍だけは踏むまいと思いながら席を立ち、トイレに篭った。
これからどうするべきかを考える。
どうやって2000万を稼いだのかと問うたとき、小十郎は飾りボトルとシャンパンだと言っていたことを思い出す。
それだ、と呟いた佐助は洗面台の前で俯けていた顔を上げて鏡を見る。
今日はまだ大丈夫だと鏡の中の自分に言い聞かせてトイレを出た。


カウンターの端に置いてあるメニューを取り上げて開き、ボトルを確かめる。
それを見ていた小十郎が一部の伝票を整理していた手を止めて佐助に顔を寄せた。
一瞬身を引いた佐助の二の腕を掴んだ小十郎は逃がさぬように佐助を引き戻して耳に唇を寄せた。
視線は佐助の左腕でカウンターのスポットライトを反射する時計に向けたままだ。
「これ以上長引かせたくないなら、No.1になりたいって言ってから、高い順に飾りをねだれ。」
強張る佐助の腕を離さずに囁かれた言葉に、佐助は虚をつかれて肩の力を抜いた。
「じゃあカミュからおねだりかな。」
「ルイでも落ち着くとは思うがな。」
「せめてリシャールがいいんですけど。ま、終わって売り上げになるならなんでもいいや。」
佐助の腕を離して再び伝票整理に戻った小十郎の方は見ないままで呟いた佐助はメニューを持ったまま卓に戻る。
ヘルプに少し外してと言ってから彼女の隣に座った。
「何喋ってたの?」
「あんまり無理させんなって怒られちゃった。」
「無理なんてしてないのに?」
「だからそう言っといた。」
目の前のフルートグラスに残ったシャンパンを飲み干し、次は何飲むの?とメニューを渡した。
「佐助の好きなシャンパンでいいよ。」
拗ねた表情で佐助の肩に頭を載せる彼女の前から戻したメニューに視線を落としながら、佐助は悪戯っぽく笑った。
「俺様、No.1になりたいからそんなこと言ったら大変なことになるかもよ?」
「あたしが佐助のことNo.1にしてあげる。」
「絶対?」
「絶対。あの女むかつくし。」
膨れる客の頭をぽんぽんと撫で、じゃあさ、と再びメニューを差し出す。
「シャンパンは安いのでいいからさ、リシャール入れてよ。」
「いいよ。」
値段を確認するでもなく、なんの躊躇も見せずに即答した彼女に苦笑しながら、コールの最後に、次リシャールって言っちゃえよと煽ってボーイを呼んだ。
メニューを渡しながらドンピンとリシャール用意して、とにこやかに頼む。
ちらりと上げた視線で本気かと問うボーイに頷いて彼女の肩を抱き寄せた。


佐助の卓に呼ばれていったボーイがカウンターにメニューを片付けながらドンピンとリシャールらしいですと言った。
佐助に戻されたらしいヘルプがカウンターの隅で一瞬ギョッとした表情を浮かべ、小十郎を振り返る。
小十郎はそうか、と頷いて背後の飾り棚からリシャールを出した。
まさか本当にリシャールを入れてくるとは思わなかったが、やればできるじゃねえかと唇の端を釣り上げる。
出勤してきた時はどうなるかと肝を冷やしたが、仕事になると切り替えはできるらしい。
小十郎の前では哀れに思う時があるほどの馬鹿だが、客の前では一応取り繕えると言うことか。
もしかしたら逆なのかもしれないが、と伝票を書きながら口の中で呟く。
シャンパンコールのために照明が落とされた店内を眺めながら、今日だけで250万かとボールペンを回す。
うまくやれば元親なら抜けるかもしれないなと思いながら、一部に出ていた元親の売り上げを見る。
そしてふと、やはり最後くらいはNo.1になりたいと言ったのは本気なのかもしれないと思った。
シャンパンコールの喧騒の中で胸がざわつく。
それを果たしたら去っていくのだろうか。
伝票の上に置いた手をきつく拳に握る。
させるかよ、と閉じた口の中で舌先に転がすように呟いた。


コールの最後にリシャールと彼女が言い、佐助は政宗を見る。
こちらを見ていた二人の目が一瞬で屈辱に染まった。
佐助では恐怖になどなり得ないと言った政宗はこのあとどうするのだろうか。
張り合ってカミュなりリシャールなりを入れさせるか、それともドンペリのプラチナを入れてくるか。
いずれにしてもいい勝負だったと言うところだろう。
締め日までまだ2週間以上あることを考えると、ここは温存させるかなと考えた佐助の薄い唇が酷薄に笑みを刻む。
案の定、政宗はそれ以降シャンパンさえも入れさせなかった。
小十郎もこうして誰かと競い合ったのだろうかと考えて、彼なら一人勝ちでも不思議ではないと思い直す。
隣で満足気にシャンパンの入ったグラスを傾ける彼女にありがとうと笑った。
「じゃあアフター付き合ってよ。」
「今日は代表に呼ばれてるからダーメ。しかも俺明日早番だし。帰って寝るの。」
「じゃあ明日も同伴して。」
「喜んで。」
「佐助のためならあたしなんでもする。」
「俺様結構わがままよ?」
「いいの。好きだから。」
嬉しいねえと曖昧に答えて、佐助は煙草を咥えた。
安いライターで火を付ける佐助の手元を見ていた彼女が、明日はライター買ってあげると佐助の腕に腕を絡ませた。
「いいの持ってるけど、メンテが面倒だから使ってないだけだよ。」
「ジッポ?」
「ガス。」
「面倒じゃないじゃん。」
「石換えるの面倒じゃん。」
いいながら煙を吐き出した佐助は指に挟んだ煙草をくるくると弄ぶ。
ラストの時間が近い。


結局と言うか当然と言うか、ラスソンは佐助が歌った。会計は250万を少し超えたが、それでも彼女は鞄から出した札束を佐助に渡した。
一体どこからそんな金が出てくるんだと怖くなりながらも、それを受け取った佐助はカウンターの小十郎にそれを渡す。
「太客が捕まったのに辞めるのか?」
「ちょっと惜しくなってきた。」
ペロリと舌を出した佐助に釣りを渡しながら、現金な奴だなと小十郎は小さく笑う。
「話があるから俺が終わるまで待ってろよ。」
「はいはい。ちゃんと覚えてますよ。更衣室でいいでしょ?超眠い。」
「俺の家だ。そのまま寝ていけ。」
「帰って寝るよ。」
佐助はひらひらと手を振りながら卓へ戻っていく。
その背中を見送り、営業終了と共に弛緩する店内の空気を吸い込む。
どう転ぶとしても、何もしないよりはいい。
言い聞かせるように小さく呟き、通りかかったボーイに早く終わらせろよと告げる。
頷いて小走りに厨房へ戻るボーイの背中を見て伝票を片付けた。


送りを終えた佐助はのんびりと店に戻り、カウンターのスツールを引いて座った。
「政宗さん戻ってんの?」
「ああ。早く着替えてこい。そろそろ終わるぞ。」
「やだよ。今頃更衣室大荒れでしょーが。」
「アイツにもいい刺激になっただろ。」
売り上げを袋に入れながら暢気に言う小十郎を、カウンターに頬を付けながら眺める佐助が、ねえねえと間延びした声を上げた。
小十郎が思っているよりも酔っているらしい。
「なんであの時教えてくれたの?」
「…テメェならうまくやってくると思ったからだ。」
「なんだ、俺様意外と期待されてんじゃない。」
「そういうことだ。今まで気づいてなかったのか?」
「代表には俺なんて必要ないんだと思ってたよ。」
感情が捉えられない平坦な声で吐き捨てるように言った佐助がガタガタとスツールを鳴らして立ち上がり、更衣室へ足を向けた。
昼間、辞めると言った時の動揺など、小十郎の態度からは微塵も伺えない。
心のどこかで引き止めてくれることを期待していた。
時々思い出したように与えられる優しさを、愛だと錯覚しそうになっていた。
むしろ、そう思い込もうとしていたのかもしれないと思うほど、彼から想われることを望んでいる。
もう追いかけることはしないと決めた今でも、小十郎の一言で驚くほど沈み、一瞬で浮上する自分がいる。
もう好きじゃないんだから気にするなと自分に言い聞かせながら更衣室の扉を開ける。
途端に刺さる視線に、佐助は入り口の扉を塞いだまま足を止めた。
視線の種類が穏やかでないことは雰囲気でわかる。
今までエースを呼んだ日の政宗がラスソンを歌わなかったことはない。
それを、佐助が覆した。
それだけのことが、彼のプライドをひどく傷つけたのだろうと言うことは想像に難くない。
たむろするホストの中心にいた政宗がゆっくりと立ち上がり、佐助を扉に押し付けるように立ちはだかった。
「邪魔なんですけど。」
「アンタもな。」
「悔しいなら売り上げで勝てばいいだけでしょうよ。」
「誰がンなこと言ったんだよ?」
佐助より僅か高いところにある切れ長の隻眼が屈辱に燃えている。
佐助は小さくため息をついた。
「この間、俺なんか怖くもなんともねえみたいなこと言ってたじゃないの。たかが1日越されただけで目くじら立てんなっての。大人げない。」
睫毛を伏せてポケットから煙草を出した佐助の顔のすぐ左側で背を凭れさせる扉が鈍い音をたてた。
政宗が殴ったからだと言うことに気付いたのは、箱の中身が最後の一本だと気付くのとほぼ同時だった。
「たまたま太いのに当たっただけのアンタがどれくらいで飽きられるか見ものだな。」
「その前に俺様に抜かれなきゃいいね。」
最後の一本を唇に挟んだ佐助はスーツ焦げるよと政宗を一瞥し、政宗が離れるのを待たずに火の点いたライターに煙草の先を寄せた。
一歩下がった政宗の横をすり抜け、咥え煙草のままですこし歪んだロッカーを開けた。
「そろそろ片付け終わる頃だから、さっさと帰らないと代表にドヤされちゃうよ。」
机の上にスーツのジャケットを放り投げながら奥で固まったままのホストたちに声をかける。
二人に圧倒されて動けなかったホストたちが一瞬戸惑ってからお疲れ様ですと口々に告げて政宗を避けるように更衣室を出ていった。
先ほどの姿勢のまま動かない政宗を横目に見ながら着替えはじめた佐助が再び口を開く。
「何も下の子たちビビらせるようなことしなくてもいいんじゃないの。アンタが俺様のこと嫌いなのは昔から知ってるから、堂々と数字で勝負しなよ。そんな事されても俺は引やしないってこの間言ったでしょうよ。」
ワイシャツの前を肌蹴た佐助が机の上の灰皿に吸いさしの煙草を乗せる。
「ペラペラと煩え口だな。」
「おかげさまでホストなんてできてます。」
「俺だって譲るわけにはいかねえんだよ。」
「じゃあいいじゃないの。お互い頑張れば。アンタが思ってるほど俺は必死じゃないかもよ?」
「それがムカつくんだよ。」
呪詛のように吐き捨てた政宗は苛立ち紛れに更衣室の扉を蹴って出て行った。
大きく響いた扉の閉まる音に肩を竦めた佐助は小さくため息を吐いて手近にあったパイプ椅子に崩れるように座り込んだ。
肌蹴たままのワイシャツが捲れて寒さに鳥肌が立ったが、立ち上がる気力はなかった。
今日の売り上げはできすぎた結果だ。
政宗がいたからそうなっただけの話で、いなければあそこまで伸びはしなかっただろう。
それに、佐助が必死ではないと言うのは本当の事だ。
もう必死になる事はやめたと言うのに、やめた途端にこれだ。
やはり世の中と言うのはうまく回らないようにできている。
座ったままノロノロとワイシャツを脱ぎ、ロッカーからカットソーを引っ張り出して頭から被った。
腕を袖に通さないままの格好でぼんやりと煙で曇る天井の蛍光灯を眺めていた佐助の背後で扉が開く。
「火事にはするなよ。」
小十郎だった。
佐助の背後から伸びた手が細く煙を昇らせていた吸いさしを摘まんで火を消した。
「普通に忘れてた。それ最後だったのに。」
「揉めたか?」
「うん。やっぱ俺あの人嫌いだわ。」
暴力沙汰にならなきゃいいが、と呟いた小十郎の声に佐助が小さく笑う。
「そうなる前に俺様逃げるもん。」
「そうしてくれ。」
話している間中、身じろぎもしない佐助の頭を小十郎が後ろからかき混ぜるように撫でた。
佐助は頭を振ってその手から逃れ、立ち上がって着替えを再開する。
「優しくしないでって言ったじゃん。」
「そうだったか?」
「言った。」
小十郎に向けた背中の向こうでライターを擦る音がした。
脱いだスラックスから抜いたベルトを大きな音をたてながら机の上に放り出し、スラックスのポケットから荷物を机の上にばら撒く佐助の背中に小十郎が声をかける。
「早くしろ。寝る時間がなくなる。」
「別に今話せばいいじゃん。イベントの話でしょ?」
「違う。」
「じゃあ何?」
スーツをケースに押し込んでから紙袋に入れる佐助は小十郎の顔を見ない。
押し込んだスーツの上から脱いだワイシャツを丸めて放り込み、机にばら撒いた荷物をジーンズのポケットに収めていく。
答えない小十郎に苛立ちながらベルトを通した佐助はようやく小十郎を振り返った。
「だから、それ以外になんの話があるの?」
腕時計を外してコートを羽織った佐助は机の上の紙袋を持って小十郎の横に並び、小十郎の胸に腕時計を押し付けた。
「俺には話すことなんてないし、もう仕事以外でアンタに関わるつもりもない。今月の締め日で俺はこの店を辞めるけど、それまではちゃんと働く。それでいいでしょ。もうほっといてよ。」
受け取った時に小十郎がそうしたように、佐助は腕時計を小十郎のスーツの胸のポケットに落とし、扉に手を掛けた。
「待て。」
二の腕を掴まれて部屋の中へ引き戻される。
少しだけ開いていた扉が勢い良く閉まった。
「今まで散々一方的に喚き散らして、次は一方的に絶縁宣言か。本当にテメェは人の話を聞かねえんだな。」
小十郎に背を向けたまま動かない佐助の背中に、怒気を孕んだ小十郎の声が突き刺さる。
佐助は黙って扉の汚れを見つめた。
「辞めるまでの間、俺と円滑な人間関係を保っていたければ話を聞け。それを聞いてからならテメェがどう判断しようが俺は何も言わねえよ。」
静かな声がもっともらしく脅迫を突き付ける。
今すぐ逃げ出したい。
「…いつもズルいよね、アンタは。」
細く息を吐き出した佐助はそう言って小十郎の手を解くと、再び扉に手を掛けた。
「前のコンビニで煙草買って待ってる。」
振り返らずに言った佐助は更衣室を出る。
足早に店を出て、コンビニに入った佐助はまっすぐにレジ向かい、レジにいた男にマルボロメンソールとぶっきらぼうに言った。
財布の中から投げ出すように小銭を置き、差し出された煙草の箱を掴んでコンビニを出る。
コンビニの前に置いてある灰皿の横にしゃがみ込んで煙草のビニールを剥がして中身を咥えた。
唇の震えが伝わった煙草の先が小さく揺れる。
何を言われるのか検討がつかない。
小十郎の言い方からして、明日から飛ばれても仕方がないような内容なのだろう。
罵倒されるだけならばまだいい。
もう必要ないと言われてしまうことが怖い。
今までもずっとそれを恐れてきた。
決定的な拒絶がないのをいいことに考えないようにしてきたことが、今、目の前で起きようとしている。
聞きたいわけねえだろ、と零して揺れる煙草に火を点けた。

End

始まってもいない関係を終わらせる。

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