- 枕元でけたたましくなる携帯を佐助の華奢な手が手繰り寄せる。
営業中を含めて一日中マナーモードに設定されているはずなのに、と舌打ちしてフリップを開けた。
画面は待ち受けのままだが、着信音は鳴り止まない。
代表のやつかよと再びチェストに手を伸ばし、まだ眠っている小十郎の耳元にそれを投げた。
鳴り止まない着信音に低く唸った小十郎は手探りで携帯を探して通話ボタンを押した。
「はい…」
半分枕に埋まったまま返事をしている小十郎の俯せの肩に頭を乗せた佐助は再び落ちてしまいそうな瞼を押し上げて体を起こした。
サイズの合わない小十郎のスウェットを腰まで引っ張りあげながらベッドを降り、ペタペタと裸足の足音を連れて冷蔵庫まで行くと中からミネラルウォーターのペットボトルを出した。
扉の向こうでは小十郎が何事か喋っているが、半分枕に埋まりながら話しているせいで聞き取れない。
冷蔵庫の前で封をきった水を一息に煽り、それを持ったまま再び寝室へ戻る。
「来るなら営業前にしろ。」
そう言って電話を切った小十郎はベッドに腰掛ける佐助の手からペットボトルを奪い、俯せのままで中身を煽った。
逞しい首筋が上下するのをぼんやりと眺めていた佐助は、小十郎から受け取ったぺットボトルの水を舐めるように飲む。
「誰?」
「鬼庭。」
「…だれ?」
ベッドの上に片膝をたてて胡座をかいた小十郎が邪魔臭そうに前髪を掻き上げて答えるのに、同じ言葉で返した佐助はチェストの上に放り出されている煙草の箱を取った。
「ケツ持ちの若頭だ。」
「ふうん。会うの?」
興味なさげに頷いた佐助は咥えた煙草に火を点けて煙を吐き出した。
佐助が一口吸っただけの煙草を奪った小十郎がのんびりと煙を吐き出す。
「店に来るらしい。テメェも俺と一緒に出勤しろ。」
ついでのようにもう一口吸ってベッドを降りた小十郎は佐助の唇に煙草を戻して寝室を出て行った。
投げ出したままの携帯で時間を確認し、まだ2時じゃんと呟く。
咥えた煙草の先を揺らしながらめんどくさいと呟いた佐助も渋々寝室を出る。
「スーツ取りに行かないとないんだけど。」
「それくらいの時間はある。なんかややこしい話みてえなんだが、ややこしいついでにテメェの話もする。」
キッチンでコーヒーを淹れる小十郎が言うが、ソファにふんぞり返った佐助は代わり映えしない昼のワイドショーのチャンネルを昼ドラに変えている。
聞いてんのかと問えば聞いてると気のない返事が返ってきた。
「とっとと用意しろ。風呂はいってこい。」
「気が進まないの。ヤクザに借りなんてつくりたくない。」
ソファの上でクッションと一緒に膝とリモコンを抱える佐助の背中が丸くなる。
それを見つめる小十郎の表情は険しい。
心当たりなどない佐助の身辺をヤクザが洗いに来ているのだから、ヤクザに頼むのが一番だ。
それを政治の取引に使われようが、巻き込むような輩でないことを小十郎は知っている。
「とっとと解決しねえと地元にまでついてこられるぞ。蛇の道は蛇っていうだろ。」
「なんにも心当たりはないわけだしねえ。」
「正面きって何の用ですかって聞けるなら来なくていいが、そんな相手じゃねえことはテメェもよくわかってんだろ。」
言ってコーヒーカップ片手に佐助の隣に座った小十郎は佐助からリモコンを取り上げてワイドショーに戻した。
ワイドショーを聞き流しながら新聞に目を落とす小十郎の肩に頭を乗せた佐助はまだごねるつもりなのか、短くなった煙草の先を揺らしながら唸っている。
「テメェがここに入り浸れなくてもいいなら行かなくてもいいが、それはそれで俺も困る。わかったらとっととシャワー浴びてこい。」
新聞に目を落としたままで言う小十郎の言葉にピクリと肩を震わせた佐助は、小十郎の肩に乗せた頭を動かして小十郎の表情を伺う。
「じゃあ一緒にお風呂入って!」
「どうしてそうなるんだ。」
「それなら行く。だから一緒に風呂。いいでしょうが、それくらい。一緒に風呂に入ったからってこの時間じゃあナニをするわけでもないんだし。まあ、我慢できる自信もないけど。ってか俺様ここ何日かのせいで深刻な代表不足なのよ。今日一日代表とずっとセックスしときたいくらいなの。本当は。わかる?わかったら俺様と風呂。そしたらヤクザに会ってもいい。あーもうだめ。一緒にお風呂スイッチはいっちゃったから一人でなんて絶対嫌だ。お湯ためてくる!」
そう言ってクッションを投げ出した佐助はパタパタと風呂場へ走っていった。
よく息継ぎもなくあんなに喋れるものだなと要らぬ感心をしながら小十郎は新聞を捲った。
大事なところは勝手に1人で考え込んで、何の相談もなく決めるくせに、こう言うどうでもいいところでは変に駆け引きをしたがる。
仕事の影響なのか、元々そう言う男なのかはわからないが、仕事はプライベートに持ち込むなと言いたい。
鼻歌交じりに濡れた足で戻ってきた佐助は小十郎の後ろを通り過ぎてキッチンの冷蔵庫を漁っている。
「代表、お腹すいた。」
「何もねえよ。」
「見りゃわかるけどお腹空いた。」
対面のキッチンからお腹が空いたと喚く佐助に閉じた新聞を投げつけ、ソファから降りた小十郎は佐助を置いて居間を出て行った。
その後をひよこのように追いかけた佐助は、脱衣所に入ろうとする小十郎のスウェットの裾を掴んだ。
「一緒に入る約束でしょーが。」
「テメェが勝手に言い出しただけだ。俺は何も言ってねえ。」
「裏切りだ!死んでやる!」
抱きついて喚き始めた佐助を引き剥がし、盛大にため息を吐いた小十郎は脱衣所に片足を踏み込んだ。
「腹減ってんならさっさと風呂入ってさっさと飯食いに出ればいいだろ?」
「一緒にはいるの!」
「好きにしろ。俺はもう入るからな。」
いっこうに引く気配を見せない佐助に呆れたように言った小十郎は扉は開けたままでさっさと着ている物を脱ぎ始める。
毎晩たらふく酒を飲んでいたにしては引き締まった筋肉が露わになるのを暫く眺めていた佐助は、小十郎が風呂場へ入って閉めようとした扉を片手で掴んで、悪魔のように笑った。
「勝手にしていいんでしょ?」
俺も入る、と続けるが早いか、スウェットを脱ぎ捨てて風呂場へ入り込んだ。
頭からシャワーを浴びる小十郎の背中に張り付き、一緒になってシャワーを浴びた佐助は、全く離れる気配がない。
いい加減、頭を洗いたい小十郎が佐助を振り返った。
「邪魔だ。」
「好きにしろって言ったじゃん。」
「邪魔しろとは言ってねえ。」
ニヤニヤと小十郎の背中に張り付く佐助を引き剥がそうとする小十郎の指先を器用に避けた佐助はシャンプーのボトルを持ち上げて笑った。
「俺様が隅々まで洗ってあげる。」
「…なんでこんなに嬉しくねえんだ?」
「喜ぶとこでしょ!もういいからほら座って!!」
笑顔の佐助を腑に落ちない顔で振り返った小十郎が言うや否や、佐助は小十郎を椅子に座らせてシャンプーを手にとった。
半分ほど湯の溜まった浴槽の縁に腰掛け、小十郎の頭に泡立てたシャンプーをつける。
「お忘れかもしれないけど、俺様元美容師よ?自宅で美容室のシャンプーが味わえるなんて素敵じゃん。」
「そういえばそうだったな。」
結局、佐助に身を任せることにした小十郎が小さく笑う。
僅かに上を向いた小十郎の頭を佐助の綺麗な指先が丁寧に洗っていく。
佐助の膝に背中を預けた小十郎が目を閉じたままふと思い出したように聞いた。
「なんでホストなんてやることにしたんだ?」
「んー…お金が欲しかったんだ。みんな知らないけどさ、美容師ってすっげえ給料安くて、結構きつい仕事なのよ。1日立ちっぱなしで、手も荒れるし、休みはあるけど居残りでカットの練習とか休みの日に講習とか…きつくてやめてく奴も結構いる。」
懐かしそうに目を細める佐助の顔を、目を閉じている小十郎が見ることはなかった。
「俺にはテメェが金遣いの荒いタイプには見えねえがな。」
「お金はあれば困らないでしょ。美容師はジジイになってもできるけど、ホストは今だけじゃん?」
そう言って、佐助はおどけるように痒いところございませんか?と問う。
ああと小十郎が答えると、シャワー貸してと泡だらけの指先が伸びた。
「代表は?なんでホスト?」
「ヤクザになるかホストになるかくらいしか選べる道がなかったんだ。」
「元ヤンってやつ?」
「まあな。職人もやったし、キャバクラのボーイもやった。普通のバイトもやったが、続いたのはホストだけだ。」
粗方泡を流した佐助が流し足りないとこある?と問うのに、いやと答えて凭れていた背中を離した。
「気持ちよかった?」
「まあまあだな。」
タオル掛けから取ったタオルにボディーソープを泡立てる。
それを取り上げようとする佐助の指先を躱して、あったまってろと緩く肩を押した。
「あっぶねえ!溺れたらどうするの!?」
「そんときは引き上げてやる。」
「まあもう既に代表には溺れてますけど?」
「言ってろ。」
冷たいなと喚く佐助は無視して体を洗い始めた小十郎を見て、渋々浴槽に浸かった佐助は縁に腕と顎を載せて小十郎を見ている。
居心地の悪い小十郎は佐助に背を向けるようにして体を洗った。
誰かとふたりで風呂に入るのはプレイヤーを上がって以来だった。
代表になる時に、色恋の客は全て切った。
大金と引き換えにしてきたその労力や時間を店のために使おうと決めたからだった。
自然と遊びなれた太い客だけが手元に残り、今では店が暇な時に呼ぶくらいだ。
代表になって3年。
随分長い間ひとりでいたのだなと思う。
黙り込む小十郎の背中を指先で叩いた佐助が背中ぐらい洗わせてよと自己主張を始めた。
上半身だけを捻って佐助の差し出す手に泡だらけのタオルを渡す。
「何考えてたのさ。」
「誰かと風呂に入るのも久しぶりだなと思ってな。」
うそばっか、と笑う佐助の指先がタオルを受け取って、浴槽に半身を浸したまま小十郎の背中を洗い始める。
本当だと返しかけた小十郎を遮って佐助がぽつりと呟いた。
「ねえ、一個だけ約束して。」
「…内容によるな。」
訝しげに眉を寄せた小十郎が振り返ろうとするのを、首を押さえて止めた佐助はそのまま動かない。
一瞬で静かになった浴室に、天井から落ちた水滴が落ちる音が響く。
「俺がNo.1になったら…一緒に地元に帰って欲しい。」
首を押さえていた手がのろのろと背中を滑る。
里帰りについてこいということなのか、それとも店をやめて一緒に帰れということなのか。
真意はわからないが、里帰りについてこいと言うにはハードルの高い条件だと思った。
図りかねて返事が出来ずにいる小十郎の背中を佐助は洗い続ける。
「…だめ?」
「それは里帰りについてこいってことか?」
「うん。」
普段の煩ささが嘘のように静かな声で頷く佐助を振り返ることはしないまま、わかったと答える。
「別に次にテメェが帰るときでもいいんだぞ?」
「いろいろと心の準備があるの!」
おしまい、と小十郎の肩越しに泡だらけのタオルを投げる佐助の声はいつものそれだ。
シャワーを出して泡を流した小十郎はついでに佐助の泡だらけのまま差し出される手を流して浴槽に足を突っ込んだ。
入れ替わるように浴槽を出た佐助がのんびりと頭を洗い始める。
俯く横顔を見ながら、佐助の真意を測ろうと試みるが風呂場の床を見つめる横顔からは何もわからないままだった。
タクシーを呼ぶ小十郎の後ろで腕時計を嵌めていた佐助ははたと気付く。
このまま出ていっては今日、佐助が小十郎と居たことが下で張っているであろう相手にバレる、と。
それでは佐助が今の今までここに寄り付かなかった意味がない。
電話を切った小十郎が振り返り、車の手配を終えたことを告げる前に佐助は口を開いた。
「悪いけど、先に店で待っててよ。家に寄ってスーツ着替えて来るから。」
「一緒に乗って行けばいい。」
「下に危ない人がいない保証はない訳だし?店まで一緒にいったんじゃ代表の身元までばれちゃうじゃないの。何のために俺様がずっと禁欲してたと思ってる訳?まあその間に代表で抜いた回数は教えられないけど。」
それは禁欲とは言わないだろうというツッコミとともに、佐助のおかれている状況を思い出す。
禁欲ではないにしろ、佐助が今までここへ来たいのを我慢していたのは他でもない、小十郎へのとばっちりを恐れたからだ。
それを思えは関係を隠したがる佐助の意向を汲まないわけにもいかない。
小十郎はそうだなと答えてソファに腰を下ろした。
「なら先に行け。俺はあとから出る。」
「いいよ、俺はいつも通りに出勤するから。ヤクザのお兄さんたちには代表から話しといてよ。俺がそこへ行くにはちょーっとリスキーな香りがするし、俺がヤクザと接触してることがバレちゃうと、お兄さんたちも動きにくいだろうしさ。」
言われてみれば佐助の言うことは最もだった。
しかし、抜け道を用意することも小十郎には容易い。
「いや、テメェは先に出ろ。俺だけじゃあ情報が足りなさすぎる。着替えてから店に来ればいい。」
チラリと腕時計を見てもう行けと言う小十郎の膝を跨ぎ、見上げる小十郎の首に腕を回す。
「スパイごっこみたいで興奮しちゃう。敏腕スパイとお色気スパイのいけない恋愛。敵の目を欺きながら愛し合うふたり。もちろん俺がお色気スパイ。映画化間違いなし。」
ニタリと笑ってキスしようとする佐助の額を手のひらで押さえた小十郎は、再び早く行けと唸るように言った。
それでもキスをせがむ佐助の形のいい後頭部を引っ掴んで乱暴に口付けた小十郎は唇を離すなり立ち上がってテーブルの上のマグカップを取り上げた。
場所を譲る形で一歩下がった佐助が満足げに色素の薄い瞳を三日月に歪める。
「あんまり長居されるとお色気に惑わされるからとっとと行け。」
「惑わされてくれてもいいよ?」
ウィンク付きで答える佐助に大きくため息を吐いた小十郎はこめかみを揉みながらキッチンへ向かう。
その態度に小さく肩を竦めた佐助はいってきますと言って部屋を出て行った。
後でなと告げた小十郎に手を降って佐助が玄関へ消える。
扉が閉まる音を聞きながら空のマグカップに新しいコーヒーを作る。
一口啜ったそれを持ってリビングに移動した小十郎は携帯を出して着信履歴の1番上にある番号を呼び出した。
数回のコールの間に煙草に火を点ける。
相手が佐助の後を付いて回るのなら、佐助のいないところに呼び出せばいい。
そして佐助のいないうちに帰せばいいだけの話である。
幸いと言うか、ホストクラブの定石と言うか、店は地下だ。入ってしまえば誰が何をしているのかを外から知る術はない。
はい、と静かな声が受話器の向こうで応えた。
「悪いんだが今から出て来れるか?」
『別に構いませんけど…何かありました?』
「それはあってから話す。あと、今日はうちの喧しいのも一緒だが大丈夫か?」
小十郎の問う声に、一瞬受話器の向こうが押し黙る。
返事を待つ小十郎の耳にふと息を吐き出す音が聞こえ、相手によりますかねえとのんびりとした返事が返された。
『話が漏れた場合、あなたが責任を取れるなら構いませんよ。』
「指はやらねえぞ。」
『カタギの方にエンコ落とさせるほど俺たちは外道じゃありませんよ。まあ…喧しい人の身の安全は保証できませんけどね。』
心の中で外道じゃなくて腐れ外道かと毒吐いて、言い聞かせておくと返した小十郎は長くなった灰を灰皿に落とした。
「10分後に店の前で待っててくれ。俺は5分遅れて行く。今日は裏口だ。分かるか?」
『ええ。どうやらそちらの話も随分切羽詰まっているようですね。』
返答を聞きながら腕時計を確認する。
電話をきってタクシーを手配すればちょうどいい時間だろう。
「おかげさまでな。人気者を囲うといろいろと手間と金がかかる。50でいいな?」
『とりあえずは。後は話を聞いてからですかね。じゃ、楽しみにしておきますかね。小十郎の心を射止めた人に逢えるのを。』
期待するなと返す前に通話は切れた。
鬼庭の思う人物像と佐助はかけ離れているだろう。
以前チラリと漏らしたことを思えば店の男だと言うことは想定の範囲内ではあるのかもしれない。
それさえわかっていれば然して驚くこともないか。
そんなことをぼんやり思いながら小十郎はリダイヤルの1番上のタクシー会社に電話をかけた。
End
イメージダウンは避けられない。