- 車が出るとき以外は閉まったままのシャッターの横にある狭い扉を開いた綱元の横を当然のようにポケットに手を突っ込んだままの成実が通り抜ける。
「朝メシ調達してきますから先に上がっててください。何がいいですか?」
「ドーナツ。」
「それはおやつです。パンでいいでしょう?」
傘を開いたまま扉を押さえる綱元がため息混じりに言い、返事を待たずに扉が閉まる。
ガラス張りの扉の向こうで雨に霞む綱元の背中を睨みつけた成実は絨毯張りの階段を足音もなく上がり、二階にある事務所の扉を乱暴に開ける。
戸締まりもできねえのかと空腹の苛立ちまぎれに舌打ちして手にしていたビニール傘を放り出す。
煙草の煙が渦巻いて天井付近が薄く曇った部屋の中には原田を始め、数人の構成員が詰めていた。
「ご苦労様です。」
膝に手をついて頭を下げる男たちに手を上げて応えた成実はコートを脱いで片隅に証書が詰み上がるデスクの上にそれを投げ出し、ついでのように締めたばかりのネクタイも外してその上に投げた。
積み上がった証書が崩れて落ちそうになるのを押さえた原田がデスクを回って椅子に体を沈める成実の前に立つ。
神棚を背に馬鹿でかいデスクに座る姿は組長そのものだが、若すぎて威厳が足りないのが少々難である。
「坊、どうします?」
「殺しってのはマジな話なのか?」
椅子を軋ませながら僅かに左右に回す成実が問うのに、原田がたぶんと答えた。
「撃たれたか、刺されたか…」
「轢き逃げだそうですよ。西側にお巡りがちらほらいたんで間違いねえでしょうな。」
「内輪揉めじゃねえのか?ボンクラだって噂だったしな。うちのオヤジの葬式に来てたけど、見るからに使えなさそうなヤツだったことしか覚えてねえよ。」
だらしなく椅子に浅く座って背に体を預ける成実が嘲るように鼻を鳴らす。
それを聞いていた若い衆が応接セットのソファで微かに笑い声を漏らした。
原田はそれを視線だけで諌めて成実に苦笑を向ける。
「通夜が明後日らしいんですがどうしますか?」
「俺が顔出さねえわけにはいかねえから俺は確定として、綱元には留守番させるか。」
腕を組んで椅子に沈む成実が言うのに原田が頷く。
「香典は奇数で包むか。」
「坊、戦争でもおっ始める気ですか?」
「冗談だよ。」
歴戦の猛者然としたいかつい顔のこめかみを引きつらせた原田が言うのに、革靴を脱ぎ捨てて椅子の上であぐらをかいた成実は僅かに濡れたスーツの裾を摘まみ上げて答えた。
誰も笑えないブラックジョークだとその場にいた全員が思ったことは言葉にはされなかった。
凍り付いた場の雰囲気を壊すように事務所の扉が開いて肩を濡らした綱元が顔を出した。
「遅くなってすみません。」
謝る綱元が傘を片付けるより早く成実が無言で差し出す左手に、綱元から朝食が入った袋を受け取った若い衆がそれを手渡す。
雑多に散らかったデスクの上の物を腕で押し退けた成実が袋の中を覗き込むのと同時に詰み上がった証書が雪崩を起こして床の上に落ちた。
「雨なんですから床に物は置かないでください。」
「落ちただけ。ってかドーナツねえじゃん。」
「パンでいいですねって言ったでしょう?」
床に広がった証書を拾い上げながら言う綱元に舌打ちをした成実は、それでも袋の中からサンドイッチをつまみ出して包装を剥いでいく。
カツサンドを頬張った成実が叔父貴と原田に向き直った。
「香典、あんま派手に包むと疑われる気がするのは俺だけか?」
「奇数で包むよりはマシでしょうがね。」
「だからあれは冗談だって。」
「あんまり少ないと今度はウチが傾いてんじゃねえかと思われますよ。」
カツサンド片手に袋の中からミルクティのパックを出した成実は原田の方を向いたまま綱元にそれを差し出す。
綱元はそれを開けて成実が伸ばしたままの手の上に戻した。
口の中身をミルクティで飲み下した成実がパックをデスクの上に置く。
「懐の探り合いだからしかたねえか。額は叔父貴に任せるわ。俺よくわかんねえ。」
「わかりました。遠藤とも相談しておきます。」
あとは、と呟きながら卵サンドに手を伸ばした成実は一口で半分を口の中におさめて、モゴモゴと咀嚼する。
全員が成実の言葉を待つ中、ミルクティでそれを流し込んだ成実はぺろりと唇を舐めた。
「俺と叔父貴と遠藤の叔父貴、でいいだろ。行くのは。」
原田の隣に立つ綱元の方は見ないまま言う成実は卵サンドの残りを口に押し込み、それを咀嚼しながら二つ目のサンドイッチの包装を剥がしにかかる。
綱元の細い眉が僅かに跳ねたことに、サンドイッチにご執心の成実は気付かない。
「俺も行きます。」
「お断わりします。」
「どうしてです?」
綱元が問うと同時にポテトサンドを口に放り込んだ成実は答えない。
瞬時に険悪さを帯びる空気に後ろの応接セットでだらけていた若い衆がちらちらと三人の様子を伺った。
咀嚼も程々にミルクティに口をつけた成実は口の中のものを飲み込んで一息ついてから口を開いた。
「豊臣会と揉めたから。」
「あれは向こうに非があるでしょう。こちらが下手に出る必要なんてありません。」
「下手に出てんじゃねえの。向こうさんに怪我させてんだよこっちは。」
「こっちだってケガ人が出てます。」
「数もかぞえらんねえで若頭やってんならやめちまえ。とにかく俺は建前だとしてもお前を謹慎させてることにしねえといけないの。」
わかる?と首を傾げた成実は残った野菜サンドの間からトマトを引っ張り出し、剥がしたビニールの上に乗せてから三分の一を齧って残りを袋に詰め直した。
咀嚼もせずに喉を反らせてミルクティのパックを煽る成実の細い喉仏が上下し、もう食べる気がないとばかりに剥がしたビニールと残ったサンドイッチを袋の中に戻して行く。
「俺の立場はどうなるんです?」
「謹慎もさせない俺の立場は?お前バカなの?俺の立場とお前の立場、どっちが重いと思ってんの?俺が先代の若頭二人連れて直々に焼香しに行くんだ。十分だろうが。お前と俺で行くにしても釣りが来るぜ?」
腕を組んで目を閉じたまま動かなかった原田が静かに綱元の肩を叩く。
言い返す言葉のない綱元は感情の読み取れない黒い瞳を鋭くして成実を睨んだ。
その視線の先で成実はスーツの内ポケットから煙草の箱を出して中身を咥える。
一歩前へ出た原田が自分のライターに点した火を差し出すのに、デスクに乗り上げながら煙草の先を寄せた成実は大きく煙を吐き出して椅子を回した。
綱元と成実の間が椅子の背に遮られて表情が窺えない。
「坊がそう言ってるんだ、今回は謹慎してろ。」
「あなたに何かあったら、誰があなたを守るんです。」
「叔父貴たちがいる。」
成実の体格には大きすぎる椅子の背の向こう側でゆっくりと上る煙が暖房の風にかき回されて乱れる。
きっぱりと答えた成実は振り返らないまま指に挟んだフィルターをギリギリと噛んだ。
「それは、俺の役目でしょう。」
「だから今回はお役御免だって言ってんだよ。身内に疑われるようなヤツがあっちで疑われてねえと思うなよ。この世界そんなに甘くねえんだよ。そんなとこにうちの大事な若頭連れてくほど俺は腐ってねえ。それが理解できねえなら死ね。東京湾に沈め。」
そう言った成実は再び煙を吐き、あぐらをかいた膝の上に頬杖をついて口を噤んだ。
父の葬儀の時に現れた豊臣の組長と若頭の顔は覚えている。
喪主である成実には見向きもせず、怪我を押して参列していた先代に向かって頭を下げていたふたりに、綱元が噛み付いた。
まずは坊ちゃんに頭を下げるのが筋だろうと、静かな怒りを背中に燃やしながら詰め寄った。
その時はその場にいた遠藤が綱元を連れ出して事無きを得たが、その場に残った成実は豊臣の若頭が綱元を気に入っていることを知っている。
成実に向かっておざなりに悔やみの言葉を述べた若頭が、次の瞬間には先代にいい男をお持ちのようだと笑っていた。
その時は父の死のショックと葬儀の疲労で何も考えられなかったが、綱元が絡むたびにでしゃばってくるところを見ると、綱元を欲しがっているように思えてならないのだ。
くれてやるわけがないだろうと思いながらも、心のどこかで喪失を恐れている。
自分の権力や立場でその可能性を潰せるならばそうしたい。
普段は煩わしく思う組のメンツもうまく使えば自分の欲求を満たす道具になり得るのだ。
「親父の言うことは聞いとくもんだ。大人しくしてろ。わかったな。」
原田が駄目押しのように言った。
ちらりと振り返った視線の先で綱元が拳を握ったまま成実に頭を下げた。
「…集金、行ってきます。」
「ん。」
成実が短く頷くなり、綱元は応接セットでハラハラしていた若い衆を連れて事務所を出て行った。
扉の外で壁を殴りつける音がして、原田が肩を竦める。
「良かったんですか?」
「良いも悪いも、俺は間違ってねえ。」
頬杖をついたまま煙草を口に運ぶ成実が拗ねたように言うが、原田は苦笑して自分の煙草に火を点けた。
親指と人差し指で煙草を摘まんでけむりを吐き出す原田の手が成実の頭を撫でた。
「立派になられましたよ。」
「じゃあもう坊なんて呼ぶんじゃねえよ。カッコつかねえだろ。」
「それはまだ先になりそうですよ。」
頭の上に乗せられた手を振り払いながら成実は恨めしげに原田を見て煙草を消した。
椅子の上のあぐらを器用に体育座りに変えた成実は膝頭に顎を乗せてぽつりと呟いた。
「ヤクザってめんどくせえなあ。」
ベッドの上で数回ごろごろと寝返りをうった成実がのっそりと起き上がる。
目にかかる伸びた前髪を無造作に掻き上げながら枕元の時計を見た。
まだ夜明けという時間だ。
広いベッドの上に綱元の姿はない。
事務所で口論になった日から、綱元は居間のソファを占領して眠っている。
そんなにも彼の自尊心を傷つけただろうかとぼんやりする頭で考えるが、元がバカな成実の寝起きの頭では結論など出せるはずもない。
ベッドを軋ませて再び枕とキスをした成実はひとりで使うには大きすぎる布団を肩まで引っ張り上げた。
後悔や罪悪感などはないが、いつも隣で眠る男がいないのはやはり落ち着かないものだ。
余った布団を抱き寄せるようにして股の間に挟む。
そもそもどうして綱元がへそを曲げているのかというところから理解できない成実が現状を打破することなどできるはずもなく、ふた晩連続で朝方に目覚めてしまっている。
もういい加減昼までぐっすり眠りたいものだ。
布団を抱えたままため息を吐いた成実は、寝不足で重たい体を起こして時計の隣に投げ出した煙草の箱を掴む。
中身を唇に咥え、ゆらゆらと先を揺らすだけで火を点ける気にはなれなかった。
綱元と成実の関係はひどく曖昧だ。
スウェットの裾から手を突っ込んで腰に残る傷跡を引っ掻いた。
盃を交わした組長と若頭だ。一緒に暮らしている。セックスもする。
だけど恋人ではないと思う。
一緒に暮らしているのは、ボディガードの代わりだ。
組の他の人間はどこまで信用していいかがわからない。
醜く盛り上がる傷跡に少しだけ伸びた爪が引っかかった。
生前に父が血の繋がらない家族だと言った男に付けられた傷だ。
生まれてからそれまでの20数年を全て裏切られた傷だ。
全てを捨てて行った従兄弟に倣って自分も出て行こうかと本気で考えた。
捨ててくれるなと縋った男がいた。
ここで死なせてくれと頭を下げた男もいた。
そして絶対に裏切らないと言って跪いた男がいた。
三番目の男が綱元だった。
だから若頭にしていつも隣においてある。
綱元は成実にとって拳銃や日本刀となんら変わらない。
そして成実は男にしか興奮出来ない性癖で、綱元が好みだった上に今まで邪魔だった従兄弟が出て行ったので誘ってみたらうまくいったと言うだけの関係である。
愛だの恋だのは俺には難しすぎるし、と唾液で湿ったフィルターを咥えたまま天井を仰いだ。
組長の伝家の宝刀としての自尊心を傷つけたのなら連れて行く以外に修復してやる術はない。
しかしそれが出来ないのが成実の立場である。
再びベッドに転がった成実はふやけたフィルターを取って床に捨てた。
どうしようもないことを考えても仕方がない。
ご機嫌取りは今日の外交が終わってからである。
故人を悼む気持ちなど微塵もないが、ヤクザも幹部になると政治家なのだ。
皮肉と嫌味のデコレーションの下に貪婪なバケモノを飼うジジイの巣窟に出向くのに睡眠不足では喰われて終わりだ。
事務所に顔を出す時間までもう一眠りするために目蓋を閉じた。
3時間ほどの仮眠を取った成実は綱元に起こされてぼんやりと目を開けた。
さっき起きた時に考えたことはもうすっかり夢の向こうである。
「豊臣の葬式、遅刻しますよ。」
「まだ朝だから大丈夫だし。眠いし。」
カーテンを開けた綱元がため息混じりに成実を振り返るが、布団を抱きしめるばかりで起きる気配はない。
「成実さん。いいかげんにしてください。」
「お前がソファなんかで寝るから寝不足なんだよ。」
「ソファで寝てる俺が寝不足はわかりますけど、ベッド占領して寝てるあなたが寝不足は納得が行きません。起きてください。」
布団を引き剥がそうとするが、予想外に強い力でそれを奪い返される。
綱元は腰に手を当てて再びため息を吐いた。
「お前がいないから落ち着いて寝れねえんだよ。わかったらもう少し寝かせろ。いつまでも拗ねてんじゃねえよみっともねえ。」
枕の下に寝癖で乱れた頭を半分突っ込んだ成実がシーツに向かって言ったが、綱元は表情ひとつ変えずに答えた。
「拗ねてませんよ、別に。信用出来ない俺がいたんじゃ眠れないかと思いましてね。」
「拗ねてんだろ、それ。もういいから今日からこっちで寝ろよ。ホント落ち着かねえ。3年も一緒に寝てんだぜ?そりゃ落ち着かねえはずだよ。」
最後は独り言のように言った成実が枕の下から頭を出して仁王立ちの綱元を下から見上げた。
「今日は妖怪共と戦ってくるんだから帰って来たらご褒美。あと、今日からこっちで寝ろ。それが出来ないなら起きねえぞ。今日の外交パーティーもキャンセル。」
「妖怪と戦う予定もなければ外交パーティーもないのでご褒美も約束もありません。どのRPGと勘違いしてるんですかあなたは。とっとと起きてください。朝メシが冷める。」
極めて平坦な声で言った綱元はこれ以上は相手にしていられないと寝室を出ていった。
ベッドに取り残された成実はひとしきりベッドを軋ませて暴れ、絶対起きねえ三度寝だと喚いて布団の中に潜り込む。
暫くそのままじっとしていたが、結局我慢が足りずに布団を跳ね除けてベッドの上にあぐらをかいた。
「綱元なんて嫌いになってやる!!あんま調子に乗ってるとさばいて売り飛ばすからな!!ヤクザなめてんじゃねえぞ!!」
肩を怒らせて一息に叫んだ成実は枕元の煙草の箱を掴ん咥えた中身に火を点ける。
中途半端に開いた扉の向こうから中を覗いた綱元が答えた。
手には湯気を立てるコーヒーカップ。
敵は優雅なものである。
「俺もヤクザですから別になめてませんよ。起きてるならさっさとメシ食ってくださいね。腹が減ると人間イライラしますから。」
言うだけ言って行ってしまった綱元に言い返す言葉もなく、成実は苛立ちに任せて火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
布団をどけて寝室を出る。
ダイニングのテーブルの上にはすっかり準備の整った朝食が並んでいる。
「おはようございます。」
「うるせえ。マジうるせえ。お前ホント東京湾までご足労願いたいくらいうるせえ。」
椅子を引きながら凶悪な顔で綱元を睨みつけるが、当の本人は涼しい顔でトーストにバターを塗っている。
「それはどうも。ココアでいいですね?」
「今日はコーヒーじゃないと寝る。途中で絶対寝る。」
「寝たら妖怪に襲われますよ。」
小さく笑ながら席を立った綱元がキッチンに消え、成実は押し出すように息を吐く。
あの日、集金から戻った綱元はいつもと変わらなかった。
今も変わらない。
喚こうが無茶を言おうが軽くあしらわれるだけだ。
もうそれには慣れているが、別で寝ることが拒絶のようで怖い。
成実は皿を押し退けてテーブルの端に顔を伏せた。
綱元のせいにしているが、情緒不安定の一番の原因は今日の葬式であることも理解している。
行きたくないだけだ。
口煩いだけだった父を越えられない人間にした男たちの前で虚勢を張りながら一日過ごすのかと思うと心底うんざりする。
「…めんどくせえ。」
目を閉じてテーブルに向かって吐き出した言葉がころころと床の上を転がり、やがて空気に混ざって澱む。
甘いカフェオレを入れたカップを持った綱元はその姿を見て目を細めた。
「成実さん、そんなとこで三度寝はやめてくださいよ。」
「…起きてる。」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてねえ。食欲もねえ。…行きたくねえ。」
手を差し伸べてやらなくてはつらいの一言も言えぬ不器用な男だ。
椅子に座った綱元はカップを置いて成実の頭に手を伸ばし、寝癖で渦を巻く髪をほどいていく。
「原田さんたちに任せればいいものを、自分が行くなんて啖呵を切るからこう言うことになるんです。」
「死んだのは跡目だぞ。お前も出せねえし、俺まで行かないわけにはいかねえだろ。」
腕の上に顎を乗せた成実が綱元の置いたカップを指先で引き寄せて中身を啜る。
「白のネクタイでもして行ったらどうです?派手なスーツで。」
「おまえ、とうとうイカれたの?俺、冬の東京湾でひとり水泳大会はしたくない。」
「香典を奇数で包もうとした人には言われたくありませんね。とにかく事務所には行くしかないんですから、早く食べてしまってください。」
ずるずると体を起こした成実の前にトーストの皿を出して、蓋を開けたはちみつの瓶を握らせる。
この部屋を出れば成実は本音を建前にすり替えることが出来る人間であることを綱元は知っている。
幼い頃から意地を張ることに関しては誰にも負けていない男である。
その性格が災いして他人に頼ることができない不器用さを身につけることになったのだが。
見ているこちらが胸焼けを起こしそうなほどトーストにはちみつを塗りたくった成実がそれにかぶりつくのを見届けた綱元は自分の食事を始めた。
普段は綱元の倍のスピードで皿を空ける成実だが、今日は綱元が食べ終わるのと変わらない速さで食事を終えた。
空の皿にフォークを置いて食べる前と同じように俯せた成実は大きくため息を吐き出した。
「やべえ本当にばっくれたくなってきた。熱でねえかな。」
「バカなこと言ってないで早く着替えてきてください。ネクタイは黒にしてくださいね。」
「…東京湾に沈みたくねえしなあ。」
「その時は俺が引き上げますよ。」
「そうして。」
ごちそうさまと小さな声で言って、成実は背を丸めて寝室へ向かった。
もう十分沈んでいるが、彼を引き上げるのはなかなかに骨が折れる作業である。
できれば手間は一度で済ませたい綱元はダイニングの上の食器を重ねてシンクに放り込んで、自分も寝室へ入った。
ベッドの上に礼服のスーツを放り出し、クリーニングのビニールを小さくちぎって散らかしていた成実は綱元に気付くとベッドに座って煙草に火を点けた。
ぷかりと輪になった煙が天井に向かいながら形を崩す。
「なあ、…いきたくない。」
「幼稚園児ですか、あなたは。」
綱元が礼服ではないスーツを出す背中をぼんやりと眺めながら、時々思い出したように煙草を口に運んでいた成実は、綱元がスウェットの上を脱いでワイシャツに腕を通す頃になってぽつりと言った。
振り返らないまま返した綱元はボタンを留めながら続ける。
「あなたみたいに心の狭い人間が俺の面倒も見て自分の面倒まで見れるはずがないんですよ。豊臣会が絡めばなおさら。それを意地張ってひとりでやるって言ったのは成実さんでしょう?言ったことには責任持ってもらわないと下に示しがつきませんよ、十代目。」
俯く成実の肩が揺れて、舌打ちが響く。
苛立ちに任せに指に挟んだ煙草を一口吸いつけて灰皿に潰した成実が立ち上がった。
「そう言う時だけは十代目かよ。反吐が出るな。」
「ならさっさと着替えて行ったらどうです?」
ベルトを通しながら成実の顔も見ずに言う綱元を冷たい怒りが燃える瞳で睨み付けた成実はクローゼットの中から白いシャツを出して着替えを始めた。
一足先にスーツに実を包んだ綱元は足元に脱いだスウェットを拾い上げて無言で寝室を出る。
スウェットを洗濯機に放り込みながら、今夜は大荒れだなとため息をつく綱元を成実は知らない。
End
意地を張り疲れることも、ある。