足早に成実のあとを追う原田は、一度は視界から消えた成実の背中を再び視界に収めて歩調を緩めた。
元から小さな背中を丸め、両手をポケットに突っ込んで歩く成実は、すれ違う通行人の肩にぶつかりながらふらふらと繁華街の中を歩き、結局事務所近くの公園に入った。
公園の周りをぐるりと囲む背の低いフェンスに凭れた原田は、胸のポケットから携帯と煙草の箱を纏めて出し、中身を咥えてからリダイヤルの番号を呼び出した。
携帯を肩で挟んで火を点ける原田がライターをポケットに押し込んだところで相手が出た。
「俺だ。お前、今どこだ?」
『帰りのタクシーです。もう終わったんですか?』
「ああ。どれくらいで戻る?」
煙を吐き出しながら肩越しに植え木の向こうの成実の様子を伺う。
成実はベンチに全身を投げ出すようにして座り、ネオンの明かりに星が霞む空を見上げたまま微動だにしない。
『買い物に行って、30分かからないくらいだと思います。』
「そうか。豊臣の若頭に虐められて、坊が荒れてな。俺たちじゃ手に負えん。」
『叔父貴で無理なものが俺にどうにかできる筈ないでしょう。』
機械越しでは更に感情の読み取れない静かな声が応えるのに、深いため息を返した原田は煙草を落として靴の裏で踏んだ。
「坊が家に入れるのはお前だけだ。俺や遠藤でさえ入れない。それがどういうことかわかんねえような間抜けに育てた覚えはねえぞ。」
嘆息気味に言った受話器の向こうで綱元は口を噤んだ。
普段なら何も言わずともすっ飛んでくる綱元が、曖昧に返事をする理由はわからなくもない。
自分の不始末のせいで成実に要らぬ心労をかける羽目になったことを、誰よりも理解している男である。
そんな自分がのこのこと出ていって良いものかという葛藤があるのだろう。
「申し訳なく思ってんならとっとと戻ってご機嫌取りしろ。事務所の近くの公園だ。30分で来なきゃブッ飛ばすぞ。」
綱元の返事を聞かずに電話を切った原田はスーツの胸ポケットに携帯を落としてため息混じりに背後を振り返る。
先ほどと変わらぬ格好の成実は、いつの間にか火の点いた煙草を咥えて空を見上げていた。


靄のかかったようにぼんやりとする思考の片隅ではずっと父親が怒鳴っている。
男らしくあれ。筋を通せ。嘘はつくな。他所様に迷惑をかけるんじゃない。
人間を大切にしろ。
口を酸っぱくして言われ続けた言葉は、たしかに成実の中に生きている。
しかし、言った本人は既にこの世を去り、突然重荷を背負うことになった成実に助言の一つもくれることはない。
口うるさい父親をめんどくさいと思っていたが、今は大事にされていたのだなと思う。
咥えただけの煙草の先が風に煽られて赤く燃えた。
冷える指先で短くなった煙草を足元に落とし、ポケットに手を突っ込んで立ち上がる。
いつだって自分のわがままだけを通してきた自分が、他人を大事にできる筈もない。
あの場で竹中を殴らなかっただけ大人になったと思う。
自分はその程度の人間だ。
顔も覚えられないほどの構成員全ての面倒をみてやれるほどの器は到底持っていない。
砂利を踏みながら公園を出て自宅へ向かう。
繁華街の中心を外れた住宅街は、街の喧騒を遠く聞きながら今日も当たり前のように静かな影を落としている。
いつまでも整理のつかない心の奥を勝手に荒らされて、自分さえどうすればいいかがわからない。
マンションのエントランスを抜け、明るすぎるエレベーターに運ばれて自宅の扉を開ける。中はまだ暗い。
暗く冷たい居間のソファにほどいたネクタイとジャケットを放り出して寝室のベッドに倒れこんだ。
綺麗に整えられた布団の上で丸くなった成実は息を止めて自分の鼓動に耳を凝らす。
規則正しく脈打つその音は生きている証だ。
軽く握った指の関節を齧る。
柔らかい皮が微かな痛みとともに引き攣れて立てた歯から逃れていった。
幾度も繰り返されるそれに、指が赤くなるのも構わずに成実はぼんやりと暗闇を見つめていた。
目の前に突きつけられた理不尽を、組長となることで覆せると信じていたが、現実はそんなに甘くない。
いろいろなものに縛られるこの社会で、筋を通すことの難しさを理解した今は悔しさに奥歯を噛みしめるだけだ。
玄関で鍵が開く音がした。
静かな足音が居間を抜けて寝室の扉の前で止まる。
コツンと扉を叩く音が響き、成実さんと静かな声が呼びかけたが、成実は握っていたシーツを離して爪を齧るだけで動かない。
「寝てるんですか?」
ベッドが軋んで沈み、綱元の指先が体を縛るホルスターを外した。
丸めた薄い腹の間に落ちたナイフを拾った綱元はそれをチェストに乗せ、背を向ける成実に覆いかぶさるようにして顔を覗き込んだ。
「起きてるなら返事くらいしてください。」
「うるせえな。黙ってろよ。」
「八つ当たりとは大人げないですね。」
嘆息気味に言った綱元の顔面に枕が投げつけられた。
片肘をついて体を起こした成実の鋭い目が綱元を睨みつける。
「何も知らねえくせにごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。ぶっ飛ばすぞ。」
「なにも聞いてないのに知るわけないでしょう。連れていかなかったのはあなたですし。」
投げつけられた枕をどけた綱元がゆっくりと立ち上がる。
それを目で追っていた成実はベッドの上に起き上がって綱元が寝室を出るより先に部屋を出て行った。
その背中を追う綱元を振り返ることもなく玄関に向かった成実は、靴を履いてドアノブに手を掛ける。
それを見ていた綱元が慌ててその手首を掴んだ。
「離せよ。」
「どこに行くんです?」
「関係ねえだろ。くたばれ。」
「出て行って済む問題なら俺だって止めませんよ。」
「どいつもこいつもごちゃごちゃうっせえんだよ!俺が何したってんだよ?あぁ?」
静かに諌める綱元を下から睨む成実が怒鳴る。
だらしなく肌蹴た白いワイシャツの襟元から覗くあばらの浮いた薄い胸が上下しているのを見つめていた綱元が小さく息を吐いた。
「言いたいことがあるならどうぞ。」
「離せよ。八つ当たりされたくねえんだろ?お前を連れてかなかったのは俺だ。竹中のクソヤローに疑われてるのも俺だし、勝手にキレてんのも俺だ。だから出掛ける。」
成実の言葉を聞いていた綱元の細い眉が怪訝に歪み、成実の手首を掴んでいる指先に力が篭る。
その手を強く引かれてよろめいた成実は壁に手をついて体を支えた。
「何を、疑われたんです?」
頭一つ分高い位置から噛み締めるように問う綱元の声が怒りに凍えて行くのに気付いた成実は目を伏せて小さく舌打ちした。
「…なんでいちいちお前に言わなきゃいけねえんだよ。ほっとけ。」
手首を掴む綱元の腕を振りほどいた成実は玄関の扉を開けて足を踏み出す。
ワイシャツ一枚の肩を綱元の手が再び掴み、強い力で部屋の中へ引き戻される。
「言いたいことがあるなら、言えばいいでしょう?」
よろめいた成実の膝が抜けて玄関の冷たい床の上に座り込む。
うるせえ、と力のない声が告げ、小さな体が膝を抱えて丸くなる。
「どいつもこいつもなんなんだよ。組長がなんぼのもんだよ…もううんざりだ。なんで俺はオヤジ殺した男にヘラヘラ頭下げてんだよ。挙句の果てにはてめえらのことは棚に上げて、うちを疑うってどんな神経してんだ。俺は、何のために大学やめてまでヤクザの組長なんてやってんだよ。俺はな、好きで組長なんてやってんじゃねえんだよ。」
暗く冷たい玄関に、成実の声にならない悲鳴が木霊する。
じっとそれを聞いていた綱元はベルトに挟んでいた拳銃を抜いて靴を履いた。
ぼんやりと顔を上げた成実の視線が綱元の手に握られた拳銃を認めて戦慄する。
「なんの、…つもりだ?」
成実の喉仏が上下し、掠れた声が問う。
それに振り返ることもしない綱元は玄関の扉に向き合ったまま静かに答えた。
「終わらせましょう。そんなに辛いなら。俺が豊臣の連中を始末しますから、あなたはその責任をとって組を解散させればいい。その後はあなたの好きなように生きればいい。社会的な責任は、俺が全部引き受けますから。」
肩越しに成実を見る綱元の目は揺らがない。
「おい、…ふざけんなよ。」
ふざけてなんていませんよ、とと答えた綱元が振り返り、うずくまったまま動けない成実の視線が拳銃に張り付くのを見てそれを背後にそっと隠す。
そのまま成実の前にしゃがみ込んだ綱元の手が成実の黒髪を梳いた。
「俺は龍正会の組長が大事なんじゃない。あなたが大事なんですよ。あなたのためなら、組だって俺の命だってくれてやる。」
成実を慈しむ指先と絶対零度の怒りに透徹する切れ長の黒い瞳から逃れるように成実は顔を伏せ、髪を撫で続ける綱元の手を握った。
「お前に、そんなことさせてえわけじゃねえんだよ。だから、」
ひくりと肩を震わせた成実の声が途切れる。
呻くように行くなと告げる声に苦笑した綱元は握った拳銃を再びベルトに挟み、絡んだ成実の指を引く。
「どこにも行くなよ。頼むから。」
事あるごとにぶり返す怒りと痛みが完全に癒えることはない。
慌ただしく過ぎる毎日の波の中に押し込み、無理やり忘却の彼方へと押しやることしかできないのだ。
皮肉にも、望まなかった今が成実の途切れそうな理性を細々と繋ぎとめている。
その理性が途切れた時、綱元は必ずそばにいる。
八つ当たりしようが、無茶を言おうが、こうして何も言わずに寄り添っている。
目の前に片膝をついて跪くようにしている綱元の首に腕を回し、しがみつくようにして抱き寄せた。
「あなたがそう言うなら、俺はどこにも行きませんよ。今までだって、そうしてきたでしょう?」
成実の肩口で言い聞かせるように言った綱元の手があやすように成実の背中を叩く。
しがみつく成実を抱えるようにして立ち上がった綱元は靴を脱ぐために成実から手を離す。
それを察した成実は綱元の首に回した腕をゆっくりと解き、その場に俯いた。
「八つ当たりくらい構いませんから、もう俺の知らないところで荒れないでください。気が気じゃない。」
苦く笑って言った綱元が俯く成実のちいさな頭を撫でて部屋へ上がる。
動かない成実はワイシャツの袖を急かすように引かれてのろのろと靴を脱ぎ、綱元に手を引かれて居間へ移動する。
成実の頭の中のほとんどを占めていた怒りが、風船の空気が抜けるように萎み、空白に混乱する。
綱元に促されるがままにソファに座り、落ち着けずに膝を抱えた。
「腹、減りません?」
「…食欲ない。」
「寝ます?」
「ん。…お前も寝る?」
小さく頷いて隣に座る綱元の肩に頭を乗せる成実が伺うように言う。
ふわりと笑った綱元は成実の額に唇を落として答えた。
「どうせ一人じゃ眠れないんでしょう?」
「…悪ぃかよ。」
「そんな成実さんも可愛らしくて好きですよ。」
「気持ち悪ぃ。もう寝る。」
「俺もすぐ行きますから。」
拗ねたようにそっぽを向く成実は立ち上がって寝室へと消えた。
その背中を見送り、ソファの上で脱力した綱元はこれで良かったのだろうかと思う。
首を締めるネクタイを緩め、ボタンを外す。
この3年間、成実が組織のトップとしての重圧に耐えきれなくなるたびに考えてきた選択肢だ。
成実が組長となることを決めた理由をきちんと彼の口から言葉として聞いたことはないが、何となく察しはついている。
どんな形であれ、父親の仇である豊臣会と決着を付けたいのだろう。
数ばかりふくれあがる化け物のような豊臣会に対抗するために、長い歴史の中で積み上げられてきた龍正会の権力が必要だった。
だから組長となることを承諾したのだろうと綱元は思っている。
ポケットの中の煙草の箱から中身を出して火を点ける。
頼りなげに天井へ逃げる細い煙が蛍光灯に透かされて紫色に光る。
通っていた大学を中退し、危うく命を落としかけてもその手を離さなかった成実が、その権力を手にしてもなお何も変わらない現状に納得しているはずがない。
気持ちばかりが先走り、進まない現状に耐えられず時折崩れるその体を支えながら彼の隣で彼を守ると決めたのは自分だ。
しかし、自分には荷が重いのだと今回の事で思い知らされた。
それならばいっそ、決して短くはないこれから先の自分の人生を失うことになっても成実を自由にしてやりたいと思う。
龍正会という権力を失えば、彼はもう闘えないのだ。
闘う必要も、苦しむこともない。
そうすることが正しいかどうかはわからない。
ただ、成実が壊れてしまう前にどうにかしてやりたいと思うだけだ。
今まで成実が兄と慕った政宗は一切無関係を貫いているし、先代も口は出しても手は出さない。
遠藤や原田のようにそばで見守る人間はいるが、彼に救いの手を差し伸べる人間は誰もいないのだなと改めて思った。
政宗や先代の態度を責めるわけではない、ただ、自分がどうにかしてやらなくてはと思っただけだ。
綱元とて成実と大差ない。
ただ焦っているのだ。成実をどうにかしてやりたくて。
原田に言われたことを思い出して苦笑する。
それでも、成実をひとりにするという選択肢はもう既に残されていないことを知った。
「綱元、寝ないの?」
咥え煙草のまま天井を仰ぐ綱元を窺うように、スウェット姿の成実が寝室から顔を覗かせた。
疲れた笑顔を張り付けた顔で振り返り、咥えていたまだ長い煙草を灰皿に押し付けてソファから立ち上がる。
「心配しなくても今行きますよ。」
「早く来いよ。眠れない。」
はいはい、と軽く返して成実が凭れている寝室の扉を目指す。
ジャケットを脱ぎながら歩いてくる綱元を眺めていた成実は子供のようなあどけない顔でベッドへと潜り込んだ。
「そう言えば、政宗、なんて言ってた?」
「全部必要ないって断わられました。幸村さんが居た手前そう言うしかなかったのかもしれませんけどね。」
「そっか。」
クローゼットの前で着替える綱元の方を向いて丸くなった成実の声が寂しそうに乾いて響く。
「でも小十郎には一応話しておきましょうか。何かあってからでは遅いですし。」
「任せる。よくわかんねえし。」
着替えを終えた綱元が成実の隣に潜り込むと、待っていまいしたとばかりに寄ってくる。
成実の頭の下に腕を押し込みながら暖かい体を抱き寄せる。
「しばらくのんびりすればいいんじゃないですかね、成実さんは。」
「綱元は?」
「色々とやることがありますから。」
「じゃあいいや。俺も事務所出る。」
綱元は何も答えないかわりに成実を強く抱き締めた。
「なあ、どうしても俺が…耐えられなくなったら、お前が俺のこと…殺してくれ。」
うつらうつらした声が強請るように言い、そうして規則正しい寝息に変わる。
本気なのかどうかを聞き返す暇さえ与えられなかった。
切り揃えられた黒髪がここ数日の疲労に幾らかやつれた印象のある頬にかかっている。
そんなことにはさせないと呟き、その髪をどけてやる。
綱元の胸元にしがみつくようにして眠る成実の肩に布団をかけ直して綱元も目を閉じた。

End

誰かのために生き急ぐ人間が居るということ。

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