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頭の下から腕が抜ける感触に目を開けた成実はごろりと仰向けに寝返りを打った。
起き抜けではっきりしない視界の中に綱元を捉え、抜け出そうとする腕を掴む。
「起こしました?」
「悪いと思ってんならもうちょい寝てろよ。つか何時?」
掴んだ腕を引きながら体を起こした成実はベッドの上に座る綱元の背中側から腕を回し、チェストの上に載せられた綱元の煙草の箱の中から何食わぬ顔で中身を抜き出す。
ついでにライターを掴み、ベッドの上に足を投げ出したまま火をつけた。
その手が投げ出す前に綱元の指先がライターを攫う。
咥えた煙草の先にライターを寄せた綱元は煙と共にもう10時ですとだけ答えた。
「事務所、行くんだろ。遅刻だ。あークソ。シャワー浴びてねえ。」
言いながら綱元を避けてベッドを降りる成実の手首を掴む。
勢いで振り返った成実が咥える煙草の先から灰が零れた。
「俺が片付けてきます。成実さん、疲れてるでしょう?」
たしなめるように言い含める綱元の手をやんわりと振り払い、成実は悪戯っぽく笑った。
「俺を誰だと思ってんだ?龍正会の十代目様だぞ。」
フンと鼻で笑って見せた成実は伸びをしながら寝室を出て行った。
その華奢な背中を見送った綱元は咥えていた煙草の長くなった灰を灰皿に落としてため息を吐いた。
意地と建前で無理をするのは頂けない。
しかし、止めたところで止まる男ではないことは綱元が一番よく知っている。
扉の向こうでメシがないと喚く煩い男に、先にシャワー浴びてくださいと怒鳴るように返し、綱元は咥え煙草のままでベッドを降りた。
キッチンに向かって足を踏み出す綱元の背後で携帯が着信を告げる。シンプルな呼び出し音は綱元のものだ。
踏み出した足を戻し、上半身だけで振り返った綱元は携帯を取り上げた。
「はい。」
『俺だ。坊はどうしてる?』
「シャワー浴びてメシ食ったら事務所に顔を出すそうです。」
受話器の向こうで小さく安堵の息を吐き出した原田は一拍置いてお前は?と問う。
それに俺ももちろん行きますよと返し、綱元は灰皿に咥えていた煙草を押し付けた。
「1時間くらいで着きます。親父はどちらに?」
『ナツミのとこだ。ちょっと野暮用で遅くなるけど顔は出す。今は遠藤が事務所に詰めてるはずだ。アイツも坊のこと心配してるから、いろいろ煩えだろうがほっときゃいい。年寄りの心配性だ。』
「そんなこと言って親父も心配なんでしょう?」
クスリと笑った綱元は携帯を耳にあてたまま寝室を出てキッチンへ入る。
『まあな。俺ももう年寄りだ。いつになったらお前は俺に楽させてくれるんだ?』
「さあ?何の話だか?」
『すっとぼけやがって。まあいい、とにかく坊のこと頼んだぞ。』
「はい。」
答えて電話を切った綱元は携帯をソファに放り投げて成実の朝食を作り始める。
食パンをトースターに放り込みながら心の片隅にほっとため息を吐く。
原田も遠藤もいるのだ。
若いだけの成実や綱元だけでは丸く収められないことも、経験のある2人がいればどうにかなりもする。
龍正会という総長に似て突っ走りたがる男の多い組織の、最後の理性がふたりであるとでも例えるべきか。
しかし、彼らもいつかは引退する。
現に遠藤は先代の引退と同時に、自分の組の当時の若頭に総長の座を譲っている。
同じように原田も誰かに後を任せて隠居したいと思ってはいるのだろう。
綱元が若頭となったあたりから遠回しに打診してくるところを見ると、後釜の座は綱元に譲りたいらしいことは聞かずともわかる。
それでものらりくらりと躱しているのはやっていける自信がないからだ。
出来上がったハムエッグを皿に乗せ、洗った野菜を乗せてダイニングに運ぶ。
一通り準備した朝食を横目にソファに座り、煙草に火を点けてため息と共に煙を吐き出した。
風呂から出てきた成実に朝食を食べさせ、後片付けはそっちのけで先にシャワーを浴びることにした綱元だったが、キレイに片付いたキッチンを見て、タオルを首から下げたまま唖然となる。
政宗もいた頃から数えれば5年ほど成実の食事を用意してきたが、こんなことが今まで一度でもあっただろうか。
一体どうしたのかとソファに寝そべって雑誌を読んでいる成実を振り返るが、何も変わったところはない。
突然どうしたんですかと問えば、気分、とだけ返事が返ってきた。
雨やヒョウどころか、本当に槍や銃弾でも降るんじゃなかろうかと開け放したカーテンの向こうを見たが綺麗な青空が広がるばかりだ。
ひとつ仕事が減ったことに感謝しながらも、余計な考え事が増えたことに頭を痛めながらふたりで家を出たが、当の成実はいつもと変わった様子もなく、昨日の出来事さえも嘘のようにのんびりと事務所へ向かって歩いている。
わざわざ蒸し返してへそを曲げられるのも困るが、一体どう言うことなのかと不安になりもする。
平静を装った無表情の下でやきもきする綱元になど気付くはずもない成実は事務所に入るなり若い衆を呼びつけて賭けポーカーを始め、心配そうに出迎えた遠藤に呆れられていた。
「思ったより普通だな。」
ちょっと出てきますと告げて綱元を連れ出した遠藤が煙草を咥えながらのんびりと呟いた。
遠藤の咥える煙草にライターの火を差し出した綱元はなんとも言いがたい微妙な表情で言葉を返した。
「昨日寝る前は散々暴れたんですけどね。」
「さっき原田から坊ちゃんも出てくるらしいって聞いて心配してたが、余計な世話だったか。」
煙草の吸い殻が散る閑散とした繁華街の中を進みながら遠藤は小さく笑った。
綱元は、だといいんですがねと吐き捨てるように返して歩みを止めた。
「昨日、一体何があったんです?昨夜は成実さんが取り乱しててちゃんと話が聞けなかったんですが…」
立ち止まって真っすぐに遠藤を見つめる綱元に顎をしゃくり、ついてこいと言外に伝えた遠藤は角にあるチェーンのコーヒーショップの入り口に置かれた灰皿で煙草を消して店内へと入っていく。
その背中を追った綱元は、何にする?と問う遠藤にコーヒーでいいですと返した。
ふたり分のコーヒーを受け取った遠藤は灰皿を持って喫煙席へと向かっていく。
平日の昼間、繁華街の真ん中にあるコーヒーショップは人が少ない。
その中でも人の居ない一角を陣取った遠藤が目の前の椅子を視線で指して座れと言った。
「焼香済ませた後に向こうの若頭にちょっといじめられてな。」
「だから、その内容を…」
掴み掛からんばかりの勢いで問う綱元の言葉を掌で遮った遠藤がトレーの上のコーヒーを綱元に差し出した。
「まあ落ち着け。お前さんは坊ちゃんのこととなると熱くなりすぎる。少し冷静になって話を聞け。」
差し出されたコーヒーを一口啜るが、はっきりしないことへの苛立ちは募るばかりだ。
そんな綱元の前で煙草に火をつけた遠藤はゆっくりと煙を吐き出して、煙草を灰皿の上に置いた。
「お前さんに直接謝らせろと言われた直後に、跡目が死んだ近くでウチの車を見たヤツがいると言った。それだけだ。」
酷く簡潔な説明だったが、綱元が成実の怒りを理解するには十分だった。
今にも豊臣会へ乗り込まんばかりの怒りを怜悧な瞳に宿した綱元に向き合う遠藤が呆れたように小さく息を吐き出した。
「お前さんの気持ちもわかる。私だって出来るものなら豊臣会に乗り込んで喧嘩でも売ってやりたいところだが、坊ちゃんはその場で抜きかけた原田を諌めた。今は時期じゃないことを坊ちゃんもわかってるんだ。」
何を『抜きかけた』のかは聞くまでもなかった。
その場に綱元がいれば原田と同じことをしただろう。
それどころか、完全に抜いたかもしれない。
「あの場で一番憤ったのは坊ちゃんだ。その坊ちゃんがした我慢を私らが台無しにしちゃあ申し訳が立たん。」
「でも、ウチは一切関わってない。」
「それも私はよっく知ってるさ。坊ちゃんはあの若頭が大切に育てた息子さんだ。そんな姑息なこと、するわけがないだろう?」
綱元が冷静さを取り戻そうとして咥えた煙草に火を寄せてやりながら遠藤は笑った。
その火に顔を寄せた綱元は大きく吸い込んだ煙をゆっくりと時間をかけて吐き出した。
「それでも、豊臣会はウチを疑い続ける。」
「本心じゃあ疑ってないさ。ウチに難癖つけてどうにか取り込みたいんだろうよ。…下衆のやることだ。」
吐き捨てながら灰皿に置いた煙草を取り上げる年老いた指先を見つめて、どうすればと呟いた綱元を柔らかい笑顔で見た遠藤が煙を吐き出す。
「そう言えば、政宗坊ちゃんに会ったんだろう?昨日。」
「ええ。」
「お元気にされてたか?」
「お変わりなく。成実さんに言われた通り、警護の打診をしましたが見事に断わられました。」
言いながら肩を竦めた綱元に、同じく肩を竦めてみせた遠藤がコーヒーに口を付ける。
「ご自宅は割れていないにしろ、店の方はいつ割れてもおかしくない。店側には話を通して若いのを回せということです。」
「その方がいいだろうな。代表取締役がお前さんの友達なんだったか?」
「知人程度ですが信用は出来る男です。元々政宗さんが入店する時に大まかな話はしてありますから、巻き込まれたとしてもウチがどうにかすることくらいは想定内でしょう。」
頭のいい男で助かったな、と遠藤が笑う。
全くですと返し、目の前のコーヒーを手に取った綱元はいただきますと小さく頭を下げて口を付けた。
安い割にはきちんとコーヒーの味がするそれを舐めるように飲んでひとつ息を吐く。
「問題は豊臣会だな。ほっときゃあいいんだろうが、鉄砲玉送り込んできた過去があるからな。」
「それがなければこちらももう少し柔軟な対応が出来るんですがね。」
「まあそれもそうだ。とりあえず坊ちゃんの周辺には十分気をつけろ。どこで弾が飛んでくるか判ったもんじゃない。自宅に押し込んでおきたいところだが、それができるようなお人じゃあない。」
短くなった煙草を灰皿に押し付けた遠藤が困ったように笑う。
堅い声でわかっていますと返した綱元も煙草を消した。
「それと、お前さんも十分に気をつけるんだぞ。」
「俺、ですか?」
コーヒーを啜りながら言う遠藤をきょとんと見返した綱元に溜め息を吐いた遠藤がお前さんだと繰り返す。
「お前さんは坊ちゃんのボディーガードじゃないんだぞ。」
「ええまあ…ボディーガードというか家政婦のようなものですが…」
「そうじゃない。お前さん、若頭だろう?」
当たり前のことを言われて初めてそうだったと気付く。
遠藤は眉間に皺を寄せて綱元を見ながら再び口を開いた。
「龍正会の若頭は組長を庇って死ぬのが当たり前だと思われたら困るだろう。それに、お前さんが居なくなったら誰があのお転婆の相手をするんだ?私や原田みたいな年寄りじゃ手に負えんぞ。」
ふふと笑って遠藤がちゃかすように言うのに、今度は綱元が眉を顰めた。
「俺が居なくとも遠藤さんと親父がいれば何とかなりますよ。俺がいても、お二人がいてくれなければウチは回らない。」
「そうやって責任逃れしてるうちはお前さんもまだまだ若造だな。私や原田がそれを許しても下の連中は許してはくれんだろう。お前さんがどう思っていようが、お前さんはアイツらの兄貴分だ。坊ちゃんの世話だけがお前さんの仕事じゃない。そろそろ腹ァ括れ。」
穏やかな笑顔とは裏腹のドスの利いた声が綱元を叱咤する。
成実に一生の忠誠を捧げるだけの腹は括れても、組の若頭としての責任を負うだけの腹は括れていないと言うことだった。
成実だけで手一杯で、他の人間のことなど考える余裕もない。
「原田が代替わりさせる時期がわからないと嘆いてたぞ。アイツももう若くないんだ。そろそろ腹括ってやれ。まあ、あのお転婆が相手じゃあそれも難しいだろうが、やってるうちに腹も括れる。坊ちゃんがそうだろう?」
そう言われてこれまでの3年間、自分は何一つ変わっていないのだと綱元は唇の内側を噛む。
組長として生きていくことを強いられた彼は、そこで生きていくために前に進む。
自分はその後を追うこともせず、ただ遠く離れていく背中を眺めているだけだ。
「今すぐには無理でも、遅かれ早かれいずれはお前さんと坊ちゃんが組を引っ張っていかなにゃならん時が必ずやってくる。若頭が亡くなって、お前さんには導になる男がいない。それは可哀想なことだと思うが、まずは若頭としての責任を負う覚悟を決めろ。この世界で生きると決めた時と同じだ。少し責任は重くなるが、あの時よりお前さんも大人になった。お前さんはいい男だ。私も原田もお前さんに期待してるんだ。」
テーブルの上を見つめる綱元の顔を覗き込むようにしてわかるな?と聞く遠藤に小さく頷く。
怒られた子どものような綱元は、遠い昔に説教をした時と同じ顔をしている。
あの時は原田から一発殴られた後で、目の端を切っていた。
坊ちゃんも綱元も変わらないなと懐かしさのようなものを感じた遠藤の口元が緩む。
テーブルの上から視線を上げない綱元の指先が内ポケットへ潜り、煙草に火を点けた。
「少しだけ、時間をください。」
「それは私じゃなくて原田に言うんだな。アイツははやく引退したいんだよ。」
はい、と掠れた声で答えた綱元の煙草が短くなるまで遠藤はのんびりとコーヒーを飲み、綱元はただぐったりと項垂れて煙草を灰にした。
誰よりも早く賭けポーカーに飽きた成実は景色がゆがむ防弾ガラスの窓の外をぼんやりと眺めている。
昨日からひどく頭がぼんやりする。
何を考えるのも億劫で、早く豊臣会とカタをつけろと喚く脳の裏側が眠たいと喚く。
全て綱元に任せて眠っておけばよかったと思うが、綱元のいない事務所でさえこの有様だ。
一人きりの自宅でなど眠る事を選択できるかどうかすら怪しい。
昼間の寂れた歓楽街を行き交うスカウトの黒いスーツを数えているうちに、遠藤と一緒に出て行った綱元が一人で戻ってきた。
叔父貴は?と問う成実の声に、帰られましたと返す声がいつにもましてひやりとしている。
「なんの話だったんだ?」
「昨日の話を少し。」
そうかと答えて、でかいデスクの前に座る。
怒っているのかと思ったがそうではない。
思えばもうずいぶんと長い付き合いになる表情の乏しい男の感情は、やっとなんとなく理解できるようになった。
「豊臣への返事は、俺が一人で」
「電話でいい。会いに行くまでもない。」
「別に喧嘩を売りに行く訳じゃ」
「そうじゃない。」
遮るように答えて、無駄に大きい椅子を回した。
戦前から続く極道の総長だけが座ることを許された椅子の背がふたりを隔てる。
権力の象徴のように大きな椅子。
『逆らうな』の意味を込めて回した椅子の上に胡坐をかく。
いつもなら噛み付く綱元が何も言わないことに、訳もわからないまま酷い動悸が成実を苛んだ。
「夕方」
ほつりと綱元が言う。
「政宗さんの店の代表と会ってきます。成実さんは原田さんが来てから原田さんと先に帰っていてください。すぐに終わらせて俺も帰ります。」
あぐらを崩し、椅子を回す。
靴を履いたままの足をデスクの上に放り出し、内ポケットから出した煙草を咥えた。
綱元が差し出すデュポンの火に煙草の先をかざし、ゆっくりと煙を吐いた。
「…俺も行く。」
ひとりは嫌だと唇の中で呟く。
「あまりうろうろされても困ります。」
きっぱりと言う綱元に、お前が守ってくれるんだろ?と問う。
それはと口籠った綱元に、じゃあ問題ないなと一方的に答えて灰皿に灰を落とした。
「アポとってあんのか?」
「これからです。」
「さっさと電話して飯行こうぜ。腹減った。」
「相手はホストなんですからまだ寝てますよ。」
「じゃあ先に飯。」
そう言って立ち上がる成実は伸びをしてなに食おうかなと入り口へ向かって歩き出す。
その目の前で扉が外から開いた。
「ご無沙汰しています。十代目。」
ふわりとした口調でありながらも纏わり付く不快感に苛まれる声だ。
「お久しぶりです、明智さん。警察の方がこんなところへ何の用です?」
足を止めた成実を引っ張るようにして成実の前へ出た綱元が代わりに応対する。
色素の抜けた長い髪が外からの風に乱れる。
警視庁の組織犯罪対策4課の刑事だった。
「先日、豊臣会の組長の息子さんが亡くなった事故現場付近で龍正会の車を見たと言う目撃情報が入ったものですから、少しお話を伺いに。」
問い掛けた綱元には見向きもしない明智は成実を蛇のような目で見ている。
応接セットにいた若い衆を外に出し、成実と綱元、そして明智だけが残った。
「十代目は何かご存知ですか?」
「車なら下の車庫に全部揃ってるから好きなように見りゃいい。ウチみてえなビンボーヤクザが今を時めく豊臣会さんに喧嘩売ったりしねえよ。」
面倒臭そうに言った成実を咎めるように振り返るが、当の成実は黙ってろとでも言いたげな視線を寄越すだけだ。
「3年前の一件がありますから、我々も懐疑的になってしまいましてね。」
明智の言葉に成実はあからさまに顔を顰めた。
「3年前の後始末をしたのはあんたらだろ。その件については兄貴分がちゃんと落とし前をつけてこっちでもカタはついてんだ。」
知ってんだろ?と続けて成実はスーツのジャケットから煙草の箱を出した。
その指先が煙草を抜き取る様を常に微笑んで見える明智の底の見えない眼が見つめている。
その視線を遮るようにして綱元は成実にライターの火を差し出した。
「カタは付いたが納得はしていない、と言う感じでしょうかね。」
「納得いかなかろうが納得した顔しておくのがオトナだろ。話はそれだけか?」
億劫そうに煙を吐き出す成実が目を伏せて問うのに、歪な笑みを口許に浮かべる明智は頷いた。
「ええ…まだ交通課の方からタイヤ痕の分析が回ってきていないので、それが回ってきてから車両の確認に窺いますよ。」
「その間にタイヤは交換しておくしかなさそうだな。」
警察組織の無能を嘲るように煙と共に笑った成実は今から飯なんだと小さく首を傾げて言った。
また敵を作るようなことを言って、と綱元が吐き出した溜め息が成実の足元にわだかまる。
成実の挑発を整った微笑に受け止めた明智は、それはお邪魔しましたと告げて事務所を出て行った。
取り残された成実は踵を返してデスクの前の椅子に戻ってどさりと体を落とした。
咥えたままの煙草の先から灰が舞う。
「食欲なくなった。何回会ってもむかつく男だよな、アイツ。」
「だからって敵を作るような言い方はしなくても良かったでしょう。」
「作ってねえよ。もともと敵だ。」
こちらは極道であちらは警察なのだから相容れることはないだろうが、向こうの懐疑を煽るようなことを、敵だらけの現状で言わなくてもと思ったがそれは言わないでおいた。
「タイヤ交換なんて出すなよ。」
「わかってます。警察が調べ終わってから出しておきますよ。」
「そうしてくれ。メシ行くなら行ってきていいぞ。俺寝てるから。」
出て行った若い衆がひとりも戻ってこないところを見ると、長くなるとでも思ってどこかへ昼食をとりに出掛けたのだろうか。
原田が来るまではまだ時間があることを確かめて、出前にしますと椅子の上で寝る体勢に入っている成実に告げた。
「出前にするならオムライス頼んどいて。定食屋だろ?」
「ええ。すぐに来ると思いますけど。」
「起きてから食う。すげえ眠い。疲れた。」
「だから休んでくださいって言ったでしょう?」
行儀悪くデスクの上に成実が脱ぎ散らかした靴を下ろした綱元が言うのに、うるせえなと返して成実は目を閉じた。
定食屋に出前の電話をかけ、この短時間で既に規則正しい寝息を繰り返す成実の黒髪を撫でた。
成実が納得していないのは3年前の事件ではない。
その一件を発端にして歪んでいった自分の人生だ。
まだ25歳なのだ。
世間一般の25歳は何をしているだろう。
25歳の頃の自分は何をしていただろう。
責任も建前もなく、原田や先代たちの庇護のもと自由に生きていた。
成実もそれが出来るはずだった。
いつも隣にいた政宗と共に特に何の感慨もいだかずにそうして生きていけたはずだった。
それを奪われ、それでもなお納得できるだけの結果を掴むために必死に背伸びをするこの身体が崩れ落ちる前に、彼の納得がいく結果が残ればいいと綱元は思う。
そのための努力は惜しまずにいられるのに、そう考える綱元の背後で事務所の扉がノックされ、懇意にしている定食屋の親父が現れた。
「坊ちゃんのオムライス、大盛りにしといたよ。」
「いつもすみません。」
綱元が財布から出した札を受け取り、釣り銭を渡しながら親父は事務所の中を覗き込んだ。
「静かだと思ったら坊ちゃん寝ちまってるのか。」
「起きてから食べるそうですよ。」
「坊ちゃんも随分組長さんらしくなったもんだ。また店の方にも顔出しておくれ。」
そういって親父は出て行った。
成実のオムライスをデスクの隅に載せてその寝顔のあどけなさにため息を吐く。
眠る成実のスーツの襟のバッジが眩しくて目を伏せた。
End
利害が一致しない。