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静かな事務所の中で食事を済ませ、食後の一服に火を点けたところで原田が事務所の扉を開けた。
ご苦労様ですと煙を混ぜて声を掛けた綱元に返事をした原田は入り口に背を向けた椅子を覗き込んだ。
「お昼寝か。」
「寝不足なんじゃないですか?昨日は小学生もびっくりの時間に寝たんですけどね。」
「坊はいつまで成長期なんだ。」
笑みを零しながら嘆息した原田がジャケットを脱いでソファにどさりと腰掛けた。
俺に聞かないでくださいよと苦笑混じりに答えて空になった皿を下げに立ち上がる綱元の背中を見送った原田は自分の煙草に火を点ける。
椅子の上で器用に眠っている成実の長い前髪が一筋、鼻梁を滑った。
「遠藤は帰ったか?」
「ええ。久しぶりにお説教されましたよ。」
「暫く放っておけと言っておいたはずだがな。」
元の場所に戻って煙を吐き出した綱元が答えるのに顔を顰める。
当の綱元はいつもの涼しげな表情を崩さずにソファに深く凭れた。
成実が不安定なこの状況で、綱元にまで余計なプレッシャーを与えるのは得策だとは思えず、遠藤には好きにさせておけと言ったがそれも余計なおせっかいだったのかもしれない。
綱元は原田が思うより頑丈にできているようだと、静かに煙を吐き出す綱元を見て思った。
「ついさっき警視庁の明智さんが来られましたよ。」
「ああ、さっき下で見かけたな…ウチに用事だったのか。」
「3年前の件を蒸し返して、ウチの車を調べにくるそうですよ。」
腕を組んだまま煙を吐き出す原田が露骨に嫌な顔をする。
「調べたって何も出やしないんですから放っておけばいいでしょう。まあ、下っ端の車まで調べられたら出なくていい埃も出そうですがね。」
「やめてくれ、頭が痛いよ。」
「とりあえずガレージにある分についてはどうぞと言っておきました。」
目を伏せて小さく笑った綱元が煙草を口に運ぶのを見ていた原田は何か言いた気に口を開き、そうしてそれを誤魔化すように煙草を唇に押し込んだ。
不自然に押し黙る原田をチラリと見た綱元がどうかしましたか?と問うのにいいやと答えて煙を吐き出す。
効きの悪いエアコンが立てる音だけが重苦しく響く沈黙の中で、綱元は胸中で原田に詫びた。
当の本人である原田が言い出さない代替わりを、遠藤がこの状況でほのめかしたということは、既に原田の腹は決まっているのだろう。
それでも言い出さない原田の優しさに今はまだ甘えていたかった。
「そういえば、政宗坊ちゃんはどうしてた?」
「お変わりなく。若いのも拳銃もいらないと突き返されました。」
「そうか。」
「俺はもう無関係だ、と。」
「俺たちはわかってても向こうの下衆がわかってるかどうかが問題なんだがな。」
肺の奥まで吸い込んだ濃い煙を吐き出しながら煙草を消す綱元が答え、原田の前に灰皿を寄せる。
綱元が押し出した灰皿に長くなった灰を落としながら原田が溜め息混じりに言う。
それなんですが、と続ける綱元を視線で促し、ソファの背に体を預けた。
「自宅は大丈夫だとしても店の方はすぐに割れるでしょうし、カタギを巻き込むのはウチの流儀に反するってことで、店側に話だけは通しておこうかと思うんですが。」
「坊はなんて言ってんだ?」
「任せるとだけ。このあと代表に会いにいこうと思ってるんですが、それにはついていくと。」
苦笑気味に言う綱元の言葉に原田はあからさまに顔を顰めた。
「できれば親父が家に押し込んでいてくれると助かるんですけどね。」
「俺は穏やかに一生を終えるって決めてんだ。」
一緒に行ってこいと続けて原田は煙草を消した。
諦めますかと苦笑した綱元が立ち上がり、時計を確認する。
少し早いが小十郎に連絡するかとポケットから携帯を出した。
普段は数回の呼び出しで出る男が、今日は出る気配がない。
もう少ししてから掛け直すかと諦めかけたところで、小十郎が電話に出た。
寝起きそのものの掠れた声が応える。
「龍正会の鬼庭です。起こしました?」
『何の用だ?』
「少しお話がありまして、政宗さんの件で。」
ゴソゴソと衣擦れの音がして、すぐに静かになる。
『ややこしいはなしか?』
「まあ、それなりには。」
『ややこしいついでで悪いんだが、うちからも頼みたいことがある。』
「珍しいですね。」
『店半分、プライベート半分の頼み事だ。さっさと片付けたい。』
あくびをかみ殺しながら言う小十郎に、このあと店に行っても?と問うと営業前にしろと返事がくる。
では店でと言って電話を切った。
夕方には起きてくれるだろうかと椅子の上の成実を振り返るが、身じろぎ一つしない。
一時間ほど経って、若い衆がちらほらと事務所に戻り始めた喧騒に、成実もようやく目を覚ます。
デスクの隅に寄せてあったオムライスを頬張りながら、応接セットの綱元に手招きした。
「政宗んとこ、繋ぎとったのか?」
「営業前にということらしいんで、5時くらいに出れば十分ですかね。」
そう言ってデスクの上のティッシュを一枚抜いて成実に渡す。
怪訝な顔で綱元を見上げた成実の唇についたケチャップをそのまま拭ってやった。
「子供扱いしてんじゃねえよ。」
「子供みたいな食べ方するからでしょう。」
「うっせえ、吊るすぞ。」
言い返しかけた綱元のポケットの中で携帯が震え、ため息混じりに背中を向けた綱元は無視してオムライスを頬張る。
寝起きでオムライスは微妙だったかなと唇を舐めながら、焼肉食いてえなと考える。
腹は減っているのだが咀嚼するのが億劫だ。かと言って飲み込むと綱元がうるさい。
よし、これはもう晩飯にとっておこう。
半分ほどオムライスの残った皿を押しやり、デスクのうえに放り出してあった煙草を取る。
横から差し出される火を移しながら、背をむけて電話をしている綱元を眺める。
短い黒髪と広いスーツの背中を順番に見て、やっぱ綱元はケツがいいよなと煙を吐き出した。
その瞬間に綱元がチラリと成実を振り返る。
超能力でも使ったのかと身を硬くしたが、何事か喋って電話を切った綱元は何もない顔で成実の前に戻ってきた。
「小十郎が今から来いと。」
「あ?…誰それ?どこへ?」
灰皿に灰を落としながら目の前に立つ男を見上げる。
「政宗さんの店の、」
「ああ、代表?」
「ええ。そういうことですから行きますよ。」
言うだけ言って背を向ける綱元が小十郎を優先する態度に苛立った成実は煙草を唇に挟んで腕を組んだ。
「オムライスまだ残ってる。」
「戻ってから食べればいいでしょう?」
「待たせとけよ。」
「向こうにも事情があるみたいですから、急いでください。」
なんなのお前まじむかつく。
そう喚こうとした成実に、事務所の扉を開けて振り返った綱元はにべもなく言う。
「今行くのが嫌なら俺一人でいってきますから、あなたは原田さんと一緒に帰っておいてください。」
立ち上がるしかなくなった成実は乱暴に煙草を消し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
収まらないイライラを靴底に叩きつけるようにして辿り着いた店の前を素通りした綱元は、ビルの脇の狭い路地に入り、そこから階段を降りて行く。
暗く湿った空気がわだかまる階段の先にある扉の前で綱元は立ち止まった。
「入らねえの?」
「ここで待ってれば開くそうですから。」
「開けゴマかよ。」
そう言って成実は手持ち無沙汰にポケットに両手を突っ込み、壁に凭れた。
綱元はチラリと腕時計を見て、成実の向かいに立った。
狭い空間が余計に狭く感じる。
ポケットの中で指先に触れた煙草の箱を出して、中身を咥える。
すかさず差し出された火は手のひらで断り、煙たくなるだろと煙草の先を揺らして言う。
「別に気にするような間でもないでしょうに。」
「いいんだよ、別に。落ち着かねえだけ。」
言葉にして初めてああそうかと思う。
政宗にはもう3年近く、会っていない。
その間に父親の一回忌や祖父の何回忌だかもあったのだが、政宗はそれらへの出席を頑なに拒んだ。
それが成実への拒絶のような気がして、どうにも胸にわだかまることがある。
政宗はきちんと筋を通して組を抜けていったのだし、そうなった以上、極道とは関わり合いになりたくないと言うのは理解できる。
恋人が検事志望の大学生ともなれば敏感になるのも致し方ないかもしれないが、成実の父は政宗の叔父であり、成実の祖父は政宗の祖父でもある。
親族と割り切って、それくらいは顔を出せばいいのに、と思ったのを思い出してフィルターを噛んだ。
足元の汚れたコンクリートはところどころ色を変えている。
視線を落とした爪先に見える、周囲に馴染まないそのシミを哀れだと思った。
無言の空間の中で再び綱元が腕時計を確かめた。
その直後に鉄の扉が開き、綱元より幾らか年嵩に見える男が姿を現した。
「なんだ、坊ちゃんも一緒なら先に言え。」
扉を押し開けた格好のままで綱元を見た男はそのまま外に出て扉を押さえる。
その前を通った成実が中へ入り、その後から綱元が続く。
ガシャンと重たい音を立てて閉まった扉は無視してさっさと中へ入って行く成実の後ろで綱元は小十郎を振り返って肩を竦めた。
「坊ちゃん、機嫌悪いのか?」
「オムライス食べ損ねて拗ねてるんですよ、たぶん。」
「相変わらずだな。」
厨房から出したコーラと水のペットボトルを持ってホールへ向かう小十郎の後ろで綱元は苦笑した。
ホールの端にあるボックス席のソファを早々に陣取った成実のとなりに座る。
営業中より明るい店内を見回しても三人以外に人がいる気配はない。
「もうひとりいるんじゃなかったんですか?」
「遅れてくる。先にそっちの話を聞く。」
そう言って栓を抜いたコーラの瓶から備え付けのグラスに中身を移し、それを綱元と成実の前に置いた小十郎はヘルプ用の椅子に座った。
話すつもりのないらしい成実はおざなりにコーラを舐め、さっさと煙草に火を点けた。
「少し豊臣会と不穏な空気でしてね。」
「いつものことだろう?」
言いながらペットボトルを開けた小十郎は中身を一息に煽った。
「そうなんですが、まあ今回は政宗さんが巻き込まれてもおかしくない状況です。」
「ってことはうちも巻き込まれるかもしれねえってことか。」
「カタギさんにご迷惑をかけるほど落ちぶれちゃいないと思いたいんですがね。」
苦笑気味に言ってスーツの内ポケットから煙草を出した鬼庭に、小十郎がライターの火を差し出した。
それで煙草に火を点けた綱元がゆっくりと煙を吐き出すのを眺めながらライターを片付けた小十郎は普段から渋い顔をさらに顰めて小さくため息を吐いた。
「政宗ももうカタギだろ。」
「俺たちはそう思っていても、あちらがそう思うとは限りませんしね。今まで通り組関係者は入れないことくらいしか手はなさそうですが…それでも何かあればすぐに連絡してください。」
店で暴れるくらいの嫌がらせはあるかもしれない。
綱元がそう呟いたのを最後に沈黙が落ちる。
古い空調が耳障りな低い音を立てるその緊張した沈黙を破ったのは突然開いた裏口の扉だった。
瞬時に背中に手を回した綱元を成実が視線で諌めた。
「あれ、俺様タイミング悪かった?」
派手なオレンジ色の髪を掻き上げた、いかにもホスト然とした男が軽い調子で言う。
「…もう少し静かに入ってこれねえのか。」
呆れた声で言った小十郎が、うちのNo.2の佐助だと紹介するその男は、咥えたままだった火の吐いていない煙草を取り、小さく二人に頭を下げた。
「これが噂の、ですか?」
「まあそう言うことだ。」
綱元と小十郎にしか分からない会話の後、佐助は小十郎の隣に持ってきたヘルプ椅子に座った。
それを待っていたらしい小十郎がそれで、とスーツの内ポケットから分厚い封筒を出して綱元の前に滑らせた。
「前金だ。50ある。」
「どうも。頼みたいことってなんです?」
その封筒の中身を数え始めた綱元が手元に目を落としたまま問う。
「こいつに変な尾行がついてる。」
「変な尾行?」
眉と視線だけをあげた綱元の言葉に小十郎が頷く。
「明らかにヤクザだ。俺も見た。」
「心当たりは?」
「ないから困ってる。バッジがなかったから、ただのチンピラかもしれねえ。」
話す小十郎の隣で当人である佐助は煙草に火を点けている。
数え終わった札を封筒に戻した綱元はそれを自分のスーツの内ポケットへ滑らせた。
「いつからなんです?」
綱元が問うと、小十郎が佐助の脇を小突く。
え、おれ?と間抜けな声をあげた佐助がため息混じりに煙を吐き出した。
「10日くらい前から。最初は店から帰る時に気付いたんだけど、それより前は分からないし、借金もなけりゃヤクザの友達もいない。絡まれたこともないし、全く心当たりない。あるとしたら俺様が可愛すぎることくらい。」
言いながら片目を瞑った佐助の隣で小十郎がこめかみを揉んだが、最後は華麗に聞き流した綱元が腕を組んで考え込む。
「うちの、張り付かせとけ。報告に戻るだろ。相手がわかれば後は俺の仕事だ。」
それまで沈黙を貫いていた成実が新しい煙草を咥えて言う。
それに火を差し出しながら、綱元は渋い顔をした。
「あなたはまだ自分の立場をわきまえられないんですか?」
「わきまえてる。政治は俺の仕事だろ?」
言って火に顔を寄せる成実の横顔にため息を吐いた綱元はライターを片付ける。
綱元と成実の関係を悟れない佐助だけが目の前で起こっている不可解な会話に頭の上でクエスチョンマークを飛ばしていた。
「えっとー…どっちが若頭さん?」
素直な佐助は、それはそれは素直に疑問を口にする。
申し遅れましたと綱元が名刺を差し出し、佐助がそれを丁寧に受け取り、その肩書きを見てやはり訳が分からないと言った風に成実を見た。
その視線を感じ取ったらしい成実は咥え煙草のままスーツの内ポケットから出した名刺をテーブルの上に滑らせる。
「え、ちょっ…十代目って、ええっ!?」
「…あンだよ。」
「まだガキじゃん!!!」
「ガキじゃねえ!!もう25だ!!」
うそだ!
東京湾に浮かべるぞコラ!
綱元と小十郎は同時に頭を抱え、互いの隣で喚く男たちの襟首を掴む。
「テメェはいちいちうるせえんだよ…」
「これのどこらへんがわきまえてるんですか?」
だって、と同時に叫んだふたりはバツが悪そうに俯く。
「とにかく、事情はわかりました。十代目の言うとおりうちの若いのを張り付かせますから、しばらくは今まで通りにしていてください。なるべく綺麗なの寄越します。」
不貞腐れてソファに沈む成実など見えぬ素振りで淡々と話を進める綱元の横顔を睨み付けた。
「そうしてくれ。相手は背中にヤクザですって書いてあるような男だ。」
「ついでに、佐助さんのお写真を一枚借りても?」
宣材で良ければ持っていけと言った小十郎がカウンターに入り、その下から封筒に入った写真を一枚抜いて綱元に手渡した。
それを金の入った封筒に入れた綱元が立ち上がろうとするのを小十郎が制する。
「たぶん上にいる。佐助、飯買ってこい。何でもいい。一人分な。」
「はーい。」
間延びした返事を残して佐助は出て行った。
表の扉が閉まり、一瞬の喧騒が入り込んだ。
「小十郎、意外と面食いなんですね。」
「そりゃブスよりは美人がいいだろ。」
「まあそうですけどね。」
そう言って喉を鳴らして笑った綱元がソファから立ち上がり、成実がそれに続く。
先に扉を開けて支える小十郎の前を通り過ぎざま、成実がはっきりと小十郎を見上げた。
「政宗もこの店も、俺が絶対ェ守るから。」
一瞬あっけに取られた小十郎の前をさっさと通り過ぎた成実に、小十郎はかける言葉もなくその背中を見送った。
End
それでも俺たちはここで生きて行く。