「おい、成実。一限落とすぞ。」
政宗は成実の部屋の扉を開けて顔を顰めた。
かろうじてベッドとパソコンを置いてある机まで移動できるだけのスペースが残されただけの床の上には雑誌や教科書、ばらばらになったルーズリーフが散乱している。
その上に昨日成実が着ていた服が点々と足跡のように残されていた。
それを拾い上げながら、政宗はベッドの上で丸くなっている成実から布団を引き剥がす。
さむいと唸る成実の脇腹を蹴り飛ばして仰向けに転がすとぼんやりとした眸が政宗を見た。
昨日は遅くまでレポートを作っていたようだから仕方がないとは言え、もう起きないことには3年連続で落とし続けている英語の単位がマズいことになる。
「8時。起きねえとまた英語落として今年こそは留年だ。」
「あー…やべえ…ねみい。」
「綱元来てねえから電車だぞ。」
「どうしてあと30分早く起こしてくれないかな政宗君。」
半分枕に顔を埋めたまま呻く成実がよろよろと体を起こし、机の上に散らばっているレポート用紙をかき集める。
腰からずり落ちたスウェットのゴムからパンツがはみ出している。
「朝メシあんの?」
「ある。それより食う時間あるのかよ?」
「微妙。政宗、車で送って。」
まとめたレポート用紙をきちんとクリアファイルに入れた成実は開きっぱなしのノートパソコンを閉じてレポート用紙と一緒にかばんに押し込むと、教科書がないと騒ぎ出す。
政宗知らねえ?と机の上を引っ掻き回す成実に知るわけねえだろ掃除しろとだけ返して政宗は成実の部屋を出た。
成実の服を洗濯機に放り込んでスイッチを押す。
政宗がここで暮らすようになったのは大学に入学したときだ。
龍正会の跡目であることが他の組にも知れ始め、豊臣会との間も日に日に拗れていた頃だった。
実家はここから電車で一時間ほど田舎へ向かった閑静な住宅街にあるが、何かあっては困るということで事務所から徒歩10分の場所にある龍正会の持ちビルの最上階に住むことになった。
学校からも近く、夜中でも事務所に行けば誰かしらいるという好条件で、しかも気ままな一人暮らしを謳歌できたのも3年に上がるまでだ。
政宗が3年になる年に大学入学を決めた成実が転がり込んできた。
成実も次期若頭であることには変わりない。
一部屋くらいよこせと強引に住み込んできた成実を追い出すこともできないまま奇妙な同居生活を送っている。
組が落ち着いているときは綱元が家のことをしにきてくれるが、忙しいときは大抵政宗がすることになる。
成実は勉強と人を困らせることしかできないのだ。
「政宗ー。マジやばい車出して!お願い!!」
「俺もこのあと事務所に顔を出すんだ。残念だったな、遅刻しろ。」
「じゃあ遅刻する!留年してやる!!」
「あー!うるせえなお前は!!メシでも食って静かにしてろ!!」
成実を怒鳴りつけた政宗は居間のテーブルの上に投げ出してある煙草の箱を掴んで中身を咥えると乱暴に火を点けてライターを放り出し、その横に置いてあった携帯を開く。
リダイヤルから呼び出した遠藤は数回の呼び出し音の後にしわがれた声で答えた。
「叔父貴、成実の留年の危機だ。」
『また寝坊ですか?』
「送ってけってうるせえから事務所に顔出すの遅れそうだ。」
くつくつと喉で笑った遠藤が問うのに、自分のせいではないのにばつが悪くなった政宗は答えながら元凶を振り返って半目で睨みつけた。
ダイニングでトーストを頬張る成実は政宗の視線になど気付くことなく牛乳を飲み干している。
いくら飲んでもチビのくせに。
政宗の舌打ちに遠藤が受話器越しで笑った。
『坊ちゃん、綱元が今から帰りなんで、ついでに送ってくそうですよ。この時間なら5分で下に着きますから、なんとか間に合うように成実坊ちゃんを叩き出してもらえますかね?』
「それで済むならどうってことねえ。綱元に礼言っといてくれ。」
そう言って電話を切った政宗は煙草の灰を灰皿に落とし、再びそれを唇に挟んでから成実を振り返った。
無事最後のウインナーを口に押し込んだ成実が座るダイニングの椅子の足を蹴り飛ばす。
「なに。食後の急な刺激は体に悪からやめろよ。」
「うるせえよ。綱元が帰りに寄ってくれるらしいから5分以内に下に行け。」
「食後の一服して顔洗って歯磨きする時間は?」
「ねえな。」
「くそ、寝癖も直してねえ…綱元も政宗もマジで空気読めねえ。」
底の方に少しだけ牛乳の残ったグラスを煽りながら言った成実が小さく舌打ちするのを聞いた政宗はコイツには何を言っても無駄だと頭を抱えた。
政宗の煙草の先から長くなった灰が落ちる。
「もう何でもいいからとっとと行けよバカ実。」
「うるせえよバカ宗。」
ぺろりとしたを出してグラスの縁を舐めた成実はそれをテーブルの上に置いてゆっくりと立ち上がった。
居間と廊下を隔てる扉のノブに手をかけた成実が振り返り、にこりと笑った。
「政宗、30分以内なら遅刻にカウントされねえ魔法の法則知ってる?」


結局、政宗が家を出ることができたのは成実が出て行ってから1時間半も経ってからであった。
魔法の法則をいいことに歯磨きと洗顔を済ませた成実は更にソファにふんぞり返って食後の一服を始めた。
それを怒鳴りつけていたところで玄関の鍵が開き、寝不足と疲労で絶対零度の怒りを背に宿した綱元が乱入して、成実は首根っこを掴まれながら引き摺られる形で家を出た。
成実を従わせるにはそれくらいの実力行使が必要、と心のメモ帳に赤の極太マジックで書き込んだ政宗は、成実が食い荒らしたダイニングを片付け、更に洗濯物を干してからスーツのジャケットに腕を通した。
ネクタイを取りに寝室に入ったところで居間のテーブルに残してきた携帯が鳴った。
遠藤からだろうかと思って慌てて居間に引き返す。
ドタバタしたせいで事の顛末を伝える事もできないままの遅刻だ。
叱られるかもなと思いながら開いた画面には知らない番号が表示されていた。
まさか、と思いながら通話ボタンを押し、急に震え出す指先で握った携帯を耳に当てた。
「はい。」
『あ、伊達殿の携帯でござろうか?真田幸村と申すものですが。』
「ああ。アンタか。」
平静を装った声の語尾が微かに震えて消えた。
ざわめく受話器の向こうで女の高い声が笑っている。
「何の用だ?」
『あの、割のいいバイト…というのを、その』
「金借りるのは諦めたか?」
『まだ諦めたわけでは…しかし、まずは生活をどうにかせねばと』
テーブルの上の煙草の箱を持ち上げて落とす。
音を消して点けたままになっているテレビの画面に表示されている時計が9時20分を指すのと同時に受話器の向こうでチャイムの音がなった。
その懐かしい音を聞きながら、政宗は学校は何時に終わる?と問うた。
『今日はテストゆえ昼前には…』
「終わったらもう一回連絡してこいよ。探しといてやる。」
じゃあなと短く言って電話を切った政宗は腹の奥に溜めた空気を太く吐き出して天井を仰いだ。
あの日から2週間。気にはなっていた。
待っていなかったと言えば嘘になる。
どうしているだろうかと考えなかった日はない。
別の組が経営するヤミ金に駆け込んだか、それとも諦めて表の世界でうまくやっていく術を見つけたか。
前者であれば遠藤の言った後味の悪さを経験する事となり、後者であれば少しは救われる。 どちらにしろ自分のために結果を知りたかっただけだなと渇いた嘲笑を一つこぼして寝室に投げ出してきたネクタイを取りに戻る。
仕事のアテはなかったが、遠藤に聞けば金融屋の電話番か風俗のボーイくらいはすぐに見つかるだろう。
もちろん組の系列の店で、である。
踏み外すなと道を潰したのは自分だ。
せめてそれに代わる道を用意し、再び踏み外す事ののないように見守ってやるのが義務だろうと思うのだ。
ネクタイを上まで上げて部屋を出る。
生まれたときから表の世界で生きていく事は許されない自分が、たった一度会っただけの男にこちらの世界には来るなと叫ぶ。
酷く滑稽だと思った。
政宗のいる場所は、居場所を与えられなかった男たちが来る場所だ。
まっとうな世界では生きていけない、不器用な男たちが命を賭けて居場所を作る世界だ。
その醜い賭場に、彼のような男は似合わないと思ってしまう。
疑う事を知らない無垢の眸がここで勝ち残れる確率は宝くじで一等を当てる程度の確率だ。
させやしないさと煙草を咥える薄い唇の内側で嘯く。
望まずともこの手の中に落ちて来る覇権を思ってフィルターを噛んだ。
事務所近くの路地をのんびり歩く政宗の視界の端で見覚えのある男が誰かと話している。
公園の植木の傍で何かから隠れるように向き合っている相手には見覚えがない。
銀色の派手な頭に、鋭い刃のような眸。そして深い黒のスーツを着ている。
一目見ただけでいいものだとわかるそのスーツの襟にバッジはない。
どう見ても堅気ではないが、この街に堅気に見えない堅気はごまんといる。逆も然りだ。
別の組織の人間ではない事を確認した政宗は再びのんびりと足を進めて事務所に向かった。


「アルバイト?」
事務所に詰めていた遠藤は政宗の話を聞くなり素っ頓狂な声を上げて政宗の顔を正面から見据えた。
「それは坊ちゃんがなさるんで?」
「ンなわけあるかよ。知り合いに頼まれてんだ。ちょっと割のいいバイト。」
事務所の応接セットで花札に興じながら言う政宗に、早い昼食の菓子パンを齧っていた遠藤はどうですかなあと唸った。
「その知り合いってのはいくつなんです?」
「18の高3。3月で卒業だ。」
「ってこたぁ、風俗関係はアウトですからね。ウチの金融屋の電話番がせいぜいでしょうな。」
電話番かと唸った政宗は困ったなと口の中で呟きながら札を捨てた。
電話番は主に取り立てにいっている昼間がメインの仕事だ。学校に行きながらは無理がある。
「なんとか風俗のボーイ、捩じ込めねえか。キャバでもいい。」
「できん事はないでしょうが、親父がなんて言うか…。それにその相手はその手の仕事だってことは知ってるんですか?」
「まあグレーゾーンの仕事だってことはわかってるだろう。」
言いながらそれもどうだろうかと思う。
あの世間知らずっぽい男が、果たしてそれを理解しているかとなれば疑わしい。
「とりあえずあるにはあるんだな?風俗かキャバのボーイは。」
「まあグラスを割らずに運べるならキャバかスナックのボーイくらいあるでしょう。店の女共を孕ませねえって約束できるなら。」
「それはキツく言っとく。」
じゃあ見つからん事もないでしょうと遠藤が言うのと同時に政宗のポケットの中で携帯が鳴る。
携帯を出しながら、五光で俺の勝ちなと手札をテブールに投げ捨てた政宗は通話を繋いで携帯を耳に当てた。
「終わったか?」
『はい、あの…』
「新宿駅の東口だ。どれくらいで来れる?」
『20分もあれば。』
「アルタの前で待ってるから早めに来いよ。昼奢ってやる。」
返事を待たずに電話を切った政宗の後ろで花札をしていたメンツが勝ち逃げは許しませんよと喚いた。


新宿駅の改札を抜けた幸村は人の多さに辟易しながら指定された場所へ向かう。
幸村がこの駅に降り立つのは乗り換えを除いて2度目だ。
1度目は2週間ほど前の夕方、学校の授業が捌けてそのままここへ来た。
平日の夕方だと言うのに多すぎる人の流れに押し流されるようにして辿り着いた繁華街の裏路地にある金融屋の窓を眺めていた。
ぼんやりと人混みに流される幸村は一度だけ会った隻眼の男を思う。
仕立てのいいグレーのスーツの襟に議員とも弁護士とも違うバッジを付けた彼は、ヤクザだと言う割には優しかった。
追い返されたその日はこの世の終わりでも経験したかのような絶望感だった。
連れて行かれた店からどうやって帰宅したのかさえも覚えていないし、その後数日間も幸村にしては驚くほど無為に過ごした。
それでも日数を重ねるごとに、彼の言う事は正しいのかもしれないと思うのだった。
人間は重力には逆らえない。
転がり落ちるだけの人生は、そのきっかけが何であれ途中で止まる事はできないのだ。
両親を亡くした日から、マジョリティーに属するように、そして誰にも後ろ指を指されないように生きてきた。
それを自ら後ろ指を指してくださいと言わんばかりの場所に身を落とそうとしていただけだ。
彼のつっけんどんできつい言葉の向こう側にはそれを思いとどまらせようとする優しさが確かにあったのだ。
『割のいいバイト』というのがどんなものであれ、彼に頼ってみる価値はあると思った。 そして今、ここにいる。
待ち合わせの場所で、政宗はぼんやりと大型ビジョンに流れるニュースを見ながら煙草を吸っていた。
意を決してその横顔に声を掛ける。
「お待たせして申し訳ない。」
声がわずかに震えた。
「来たか。何か食いてえもんあるか?」
「…お任せします。」
振り返った政宗は暫く煙草を咥えたままで考え、煙を吐き出しながらファミレスにするかと言って足元で煙草を消した。
幸村が頷くより先に踵を返して歩き始める政宗の一歩後ろを歩きながら、幸村は斜めに掛けたかばんの紐を握り締める。
自分と同じようなテスト明けの学生が嬌声を上げ、楽しそうに横を通り過ぎていく。
その度にこみ上げる惨めさを奥歯で噛み締めながら足元を見つめて歩いた。
幸村を振り返らないスーツの背中は雑踏の中を縫うようにして大通り沿いを歩き、巨大な交差点を抜けてファミレスの扉を開けた。
出迎えた店員がお煙草は?と聞くのに、幸村が喫煙でと応える前に禁煙でと政宗が答えた。
案内された席に向き合って座る。
「好きなもん頼めよ。」
メニューを開いて寄越した政宗はテーブルに肘をついて幸村を見た。
その襟にバッジが見えない。
気を使って外してくれたのだろうか。
小さく頭を下げてメニューに目を落とす。
カルボナーラ、と呟いた声を拾った政宗が近くを歩いていたウェイトレスを呼びつけて注文を済ませて幸村に向き直った。
「んで、学校は諦めたのか?」
「いえ、その…学費を貯めてからでもいいかと。」
「まあ、賢い選択だな。バイトだけどな、俺が紹介してやれる仕事は限りなく黒いグレーだ。それであんたの人生が変わっちまうかもしれねえ事はよく覚えとけ。」
はい、と頷いた幸村は短い爪で学生服のズボンを引っ掻いて俯いた。
「一つ目は金貸しの電話番。ウチの組でやってる金貸しだ。全然まともじゃねえし、平日の朝から夕方、下手したら夜中までじゃねえと困る。二つ目はキャバクラかデリヘルのボーイ。たいしてしんどい仕事じゃねえが夕方から朝方までだ。給料はどっちもそれなりに出すように俺が掛け合っとく。」
そう言って政宗はウェイトレスが置いていった水のグラスを煽った。
氷を噛み砕きながら幸村の様子を伺う政宗の視線の先で俯いたままの幸村が困ったように声を上げた。
「12月までは学校が…」
「まあそうだろうな。3学期は?」
「もう授業はありません。それ以降ならどうにか。」
ぼそぼそと答える幸村を見ていた政宗が口を開こうとしたところで注文したものが運ばれてきた。
とりあえず食えよとフォークを渡した政宗が言うのに、幸村は頷いた。
いただきますと小さく言って食べ始めるのを見届けた政宗は自分の皿の中をかき回した。
「なあ、一つ聞きてえんだけど、あんたがそこまでして行きたい学校ってどこなんだ?」
「学校にこだわりはありませんが、法学部に。」
頬張ったカルボナーラを飲み込んだ幸村が答える向かいで皿の中をつつく政宗は眉間に皺を寄せた。
「弁護士か?」
「いえ、検事に。」
ふうんと気のない返事をした政宗はたらこスパゲッティーを口に運びながら考える。
そんな人間が果たして自分たちのような人間と関わりを持っていてもいいものなのだろうか。
しかし、それを口にするのは躊躇われた。
口に出してしまえば最後、本当に彼を放り出す事になってしまいそうだと思った。
「法学部なんてそう簡単に入れるもんじゃねえだろ。勉強しながらバイトなんてできんのかよ。」
パスタをフォークに巻き付けては解く政宗が言うと、幸村は困ったような、それでいて怒ったような表情で政宗を正面から見据えた。
その瞳の強さに政宗が一瞬たじろぐ。
「それができなければ、俺はこの先一生後悔して生きる事になる。だから、できるできないではなく、やるしかないのです。」
言い切った幸村に、政宗は掛ける言葉もなくピンク色の皿の中身を見つめる。
「俺の両親は、俺が小学生の時に死にました。父は会社勤めのサラリーマン、母は近くのスーパーでレジ打ちのパートをしていました。」


ぽつりぽつりと語られる幸村の身の上話は、この街ではありふれた身の上話だ。
三人で出掛けた時に、ひき逃げに遭った。
両親は真っ先に我が子を庇い、そして命を落とした。
どこにでもいる平凡な一家は一瞬にして、よくある不幸な一家となった。
犯人はいまだにわからない。これだけ時間の経った今、犯人を見つけるのは砂浜に落としたピアスを見つけるより困難だろう。
日夜膨大な人間が犯罪を犯し、命を落とすこの国のニュースの中で、彼らは一瞬脚光を浴びたが、すぐに忘れ去られた。
報道されずとも忘れ去られようとも彼らの人生はそこに存在する。
一時は親戚に引き取られた彼も、両親の残した保険金が底をつくと共に施設へと入れられ、薄れゆく犯人への憎しみを検事になるという意志に変えて日々を繋いでいるのだ。
悪への悲しい憎悪が、彼の中で絶対的な正義となり、その正義のためならば手段も厭わないという矛盾を起こしている。
やはり、彼は世間知らずで純粋すぎるのだと政宗は思った。
手のひらでぬるくなったフォークを放り投げてまだ半分も中身が残った皿をテーブルの脇に押しやった政宗は煙草を探してスーツの内側に潜り込んだ手をテーブルの上に置いて幸村を見た。
テーブルの上を手持ち無沙汰におしぼりで拭きながら政宗は目を伏せた。
「事情は理解した。あんたには金も時間も必要だ。時間を金に換える仕事は向いてねえ。」
皿の中に突っ込んだままのフォークを置いた幸村が意味を図りかねて不安げに政宗の表情を伺う。
「俺があんたに紹介してやれるバイトは、俺のイロになって俺に月10万で囲われる事くらいだな。住む場所も生活も、身の自由も保障してやるからバイトがしてえなら好きにしろ。別にヤらせろなんて言う予定もねえ。形だけの愛人契約だ。」
「愛人契約…?」
「そうだ。聞いた事くらいはあるだろ?」
小さな頭を重力に任せた幸村が頷き、しかし、と声を上げる。
「月に何回か俺と晩飯を食う。それだけの話だ。今一緒に住んでるやつは一緒に飯を食うと飯がマズくなる。あんたは好きなように生きてりゃいい。生活費も必要なものも俺が全部揃えてやる。そうすりゃ一年浪人するだけで入学金と前期の授業料くらいにはなるだろ。その後も続けるかどうかはあんたの好きにすりゃあいい。」
一息に言って渇いた唇を湿らすようにグラスの中の水に口をつけた。
幸村は言われた事が理解できていないのかただ唖然と政宗の長い前髪を見つめている。
「こっちも準備があるから今すぐってわけにはいかねえが、あんたが卒業してからならどうにかなる。気が向いたら連絡してこい。ただし、あんたが養われるその金は、俺たちヤクザが法律の網をかいくぐって儲けた汚い金だってことは忘れるなよ。」
幸村の白い指先が困ったように皿にフォークを置き、そしてもう一度摘まみ上げるようにして握り込む。
突然よく知らないヤクザから愛人契約など持ち出されたら困惑するのは当然だが、政宗はその白い指先を汚したくなかったのだ。
どのみち自分の手は生まれたときから汚い物に触れてきた。
そうして稼いだ金でも彼が受け取るというのならば、彼自身は汚れる事なく目的を果たせるだろう。
叶えてやりたいのだ。どこにでもいる不幸な少年の哀れな夢を。
それを偽善だと人は言うかもしれないが、今まで流されるままに生きてきたこの人生と、これからさき自分が行うであろう悪行の、せめてもの償いとしてできる事はしてやりたいと思うのは間違いだろうか。
ここに答えるものはいない。
再びフォークを置いた幸村も政宗に倣って半分ほど中身のなくなった皿を押し退けた。
「それが、俺にとってメリットしかない提案だと言う事はよく理解しておりますが、なぜ、そのような事を申し出てくださるのです?」
「さあな。悪人もたまには善人に憧れるんだろ。」
「俺には、伊達殿が悪人だとはとても…」
そう言って幸村は目を伏せた。
「言ったろ、あんた俺の好みのタイプなんだ。だから嫌われたくねえんだよ。」
「でも、俺はそれに一体どう答えれば…」
「応える必要なんかねえ。あんたの思うようにやりな。他にどうしようもなくなったら連絡してきな。俺があんたの足長おじさんになってやるよ。」
言いながら政宗は自嘲の笑みを零して立ち上がる。
伝票を取った政宗の背中を見つめる幸村はあの日と同じように底に取り残された。
自分を悪人だと言った政宗の切なげに伏せられた睫毛を思い出して席を立つ。
小走りに店の外に出て姿を探したが、大通りの雑踏に彼の姿はなかった。
かばんの紐を握り締めて胸の奥に詰まる痛い息を吐き出す。
なぜか大声で泣き出しそうだった。
心のどこかで自分は捨てられた子供だと思っていた。
親にではない。社会に捨てられた、望む道を歩む事もできない捨て子なのだと。
そんな自分を無条件に拾おうとしてくれる彼が、一体何を思っているのかは幸村にはわからない。
もし、これが彼の気まぐれな冗談だったとしても、幸村は救われた。
自分のためにどうにかしようとしてくれる人がいる。
施設の先生は確かに優しい。親身になって話も聞いてくれる。
学校の教師も同じだ。
しかし、彼らは法で定められたラインの外側からがんばれと言うだけだ。
そのラインを自ら越えようとする彼は、幸村に何を期待しているのだろうか。
うまい話には裏があるというが、彼と話していると裏を考えようという気さえ起きなくなる。
信じてもいいのか、それとも。もうわからない。
幸村は嘆くように雑踏に消えた彼の背中に呟いてその場にしゃがみ込んだ。

End

その手は、本物ですか?

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