冬も近い刺すように冷たい雨が静かに降る夜だった。
奥州の独眼竜が右目の館の濡れ縁の向こう側、庭先に俯き立ち尽くす忍がいた。
隠しもしないその気配に気付いた右目が障子を開けてやるが、忍は室に上がろうとしない。
動く気配も見せずただ己に憑く禍事を禊ぎ落とすように冷たい雨に体を打たせつづける忍に違和感を感じた右目ではあったが、開けた障子に凭れ腕を組んだまま動かない。
元より他人に縋り付くことなど知らない不器用な忍の指先に縋る事を教えたのは右目である。
しかし、求めない忍に与えてやれる物など何もないことを理解していた。
忍が求めるまで与えないのが二人の暗黙の了解であった。
ぽたりぽたりと忍の長い襟足や斑の忍装束から雫が落ち、冷たく淀んだ空気に震える細い肩に生々しく開いた傷を見つける。
足下は跳ねた泥とも血溜まりを踏んだ痕とも取れる黒い染みが斑に浮き上がり、蝋人形のように整った顔にも幾筋かの擦過傷。
戦か、暗殺か。どちらにせよ忍が纏うのは剣呑なまでに陰欝なものである。
降りしきる雨に似た冷たく鋭い視線で忍をねめあげ常ならばいっそ潔いまでに他人の業までをも背負いたがるこの忍が禊とは、とそれとわからぬよう唇をわずかばかり歪めた。
相も変わらず言葉はない。





どれほどそうしていただろうか。
暖かな室の中にいた右目の羽織った打ち掛けが雨に冷えて重さを増した頃。
それまで微動だにせず虚ろな視線を投げていた忍の唇がわずかに動いた。
室の内に灯る小さな蝋燭の明かりが照らさなければ気付かないようなそれを右目の弦月のような細い双眸が目敏く見つける。
その軽薄な唇から紡がれる、ともすれば弱い雨の降る音に掻き消されてしまいそうな音を拾い集め、言葉として認識した右目が瞠目する。
刹那、忍の体はぬかるんだ庭先の土の上に頽れた。
膝をつき、蹲る忍の背中が小刻みに震え、押し殺した嗚咽が泥を握る音に混じる。
乾いた瘡蓋の色に似た忍の髪に降りしきるのは冷たい冬の雨か、それとも。
右目は緩く首を振る。
細い背に降りしきるのは己など未だ嘗て経験したことのない壮絶な痛みと底知れぬ後悔。
掛ける言葉は勿論、差し伸べる腕さえも持たない右目は、ただ黙して耐える忍を見詰めることしか出来なかった。
庭に咲いた早咲きの椿が、細い雨の冷たさに凍え、そのまっかな首を落とした。



『さなだのだんなが、しんだ。』










行く宛などもうどこにもなかった。
胴体から離れた首など見られるわけもなく、大将の討ち取られた戦場を後にした。
主を討ち取った男の顔など覚えてもいない。
振り返ったそこに、もうあの暖かな笑顔はなかった。
見事武田の一番駆けを勤め上げた、立派な最期だった。と語られるのだろうか。
そんなもの、何の慰めにもならないというのに。
忍は戦場の慟哭から離れた雑木林に一人立ち尽くし、酷薄に薄い唇を歪めた。
些か生々し過ぎるほどに頭蓋の内側に張り付く主の屈託のない笑顔が昏い影に沈んでゆく。
戦況が不利なことはわかっていた。
一番側を離れてはいけない相手だということも。
失えば己が生きる価値を持たない道具と成り下がることも、聡い忍はよく知っていた。
色のない戦場の土の上に虚しく落ちた深紅の二槍があまりにも哀しかった。
己を責めることをしないその二槍が恐ろしいほどに優しく、忍はその戦場から逃げ出した。
何も考えずとも慣れた足はこの屋敷へ向かい、入り慣れた室の前に忍を運んだ。
休まずに駆けた痩躯は限界であったが、そこで倒れることはなかった。
しかし、恐ろしいほどに麻痺した全ての感覚がさらに抜け落ちて行くのを感じていた。
自分が無意識にここへ足を運んだ理由も良くわからなかった。
ただ、縋り付く腕が欲しかっただけなのかもしれない。










目を開けるとそこはよく知った室だった。
御簾の向こうから墨をする静かな音がする。
昨日の夜、雨の庭先に倒れ込んで泣いたことは覚えているが、その後布団に入った記憶などない。
世話焼きの右目が寝かせてくれたのだろうと当りをつけて体を起こした。
衣擦れの音は思ったよりも大きく響いた。



「起きたか?」
「ああ、うん。ごめん、迷惑かけた。」
「かまわねぇよ。政宗様が来てる。会えるか?」


上がった御簾の向こう、一分の隙もない戦装束に身を包んだ右目の姿は酷く忍を安心させた。
見慣れたその姿は、昨日のことが何か悪い夢だったのではないだろうかとさえ思わせる。
しかし痛む肩は間違いなく昨日の戦で負傷した箇所であった。
昨日の雨は、まだ降り続いているようだ。
沈黙した忍の傷ついた頬を右目のかさついた掌が撫でる。
真田子飼いの忍の長として、主の最期を伝えることが最後の任務であることはわかっている。
それでも、今はまだ主の忍で在りたかった。
それが喩え現実からの後昏い逃避であったとしても。
瞑目した忍の頬から手を離した右目は立ち上がり、静かに室を出て行った。
全てを悟った右目は主の所へ行き、忍の話をするのだろう。
取り残された忍と静寂が薄暗い室に溶け込んでいくようだった。





昨夜、庭先に頽れた忍を室に担ぎ込み、褥に寝かせた右目は一気に肉の削げた忍の白い頬を見詰めていた。
あどけない顔で眠るその姿は確かに右目の良く知る忍の物であったが、どこか消えてしまいそうに遠く、影の落ちた死顔のようなそれはやはり知らない者のそれであった。
ちいさな燭台の明かりが疲れきった面に落とす色濃い影のせいにしてしまえばそれまでのその感慨がどこか空恐ろしかった。
主を失った従者など、生きる意味を失ったも同然である。
それは忍と同じく忠誠を誓う主がいる右目には良くわかる。
そして、忍をあの凄絶な絶望から掬い上げる術がないこともいっそ酷すぎるほどに理解していた。
一生を捧げた主に代わる物などなく、対象をなくして抜け落ちた忠誠を賄える感情など存在しないことを。
右目の主は鷹揚にそうかと頷き、暫くの暇を右目に与えて居城へと戻っていった。
その背を見送りながら、右目は己もいつかあの背中を守れずに失う日が来るのだろうかと他人事のように考え、俯いた。
想像するだけで戦慄が背中を冷たく這い回る。
室へ戻ればまだわずかに湿った忍装束に身を包んだ忍が開けた障子に凭れて立っていた。
幾重にも着込まれた忍装束はまるで今にも崩れ落ちそうな忍の痩躯を護る鎧のようで。
すっかり表情の抜け落ちた忍の顔が緩慢な仕草で右目を向く。
無感情に冷えた瞳が虚を映す。


「もう行くよ。」


抑揚のない抜き身の刀のような声で告げた忍の手首を掴んだ右目は意地の悪い質問だと知りながら行く先を問う。


「新しい主を、見つけに。」

忍は所詮傭兵だから。
新しい雇い主くらいすぐに見つかる。


嘯く唇に刻まれた酷薄な嘲笑を右目は傲慢な憐憫を伴って見つめる。
お前の主は真田だろうと言う言葉はどうしても継げなかった。
主の居場所を問われ、城に戻ったと答えればそうとなんの感慨も篭らない声がいらえを寄越す。


「会わずに帰って申し訳ないって伝えといて。」


足元に落ちる忍の影の色だけが黒く右目は掴んだ手甲の冷たさに身を竦めた。
引き止める言葉は幾ら探そうとも見つからない。もどかしさに奥歯を噛んだ。
するりと右目の手を抜け出した忍が氷雨の降る庭へと下りる。
湿度に煙る空気に掻き消えそうな斑の背中。
思い出したように振り返ったかんばせに、いつもの忍化粧はない。


「また、戦場で逢えたら。俺様と戦ってね。」


明らかな離別の言葉。
告げる顔は見慣れたあどけなさを残す情人のそれで。
痛々しく伏せられた赤銅色の睫毛に留まった雨粒が落ちるのが恐ろしく儚げで美しいときつく寄せた秀麗な眉の下の眸が切なく弦月を描いた。


「頼まれなくても殺ってやる。」

その言葉に伏せた顔を上げた忍の目に歓喜にも似た昏い期待を認めてなお右目はそこから目を反らすことはなかった。
ちいさな空気の波紋だけを遺して忍は消えた。
無力感に打ち拉がれた右目の左手の拳を知らないまま。






























『政宗殿、折り入って頼みがあるのです。もし、某が佐助を遺して死ぬことがあれば。あれを伊達の忍として使ってやってはくれぬだろうか。伊達に仕えよと、これは最期の主命であると、伝えてほしい。』



生前、主が遺した主命さえもその忍はついぞ知ることはなかった。


End

真田主従と取るべきかこじゅさすと取るべきか…

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