関ヶ原に陣幕と松明のヤニが燃える黒煙が靡く。
とりどりの陣幕が乱世の縮図のように犇めくその上空を一羽の大鴉が悠々と舞う。
その華奢な足に掴まる闇色の装束を着た忍は、厳しい視線で地上を一瞥すると、巧みに鴉を操って伊達の本陣裏の雑木林に鴉を向けた。
今頃各陣の忍は諜報や罠の仕掛けにといまだ静かな戦場をかけずり回っている頃合いだ。もっとも、この忍とて例外ではなかった。
敵である東軍の陣の配置を念入りに確認し、主にそれを伝えるという重大な任の最中である。
雑木林の茂みに鴉の足から飛び降りた忍は、音もなく手頃な枝に体を落ち着ける。
遠くに見える伊達の家紋が入った鉄紺の陣幕がばさりと風に舞った。


「さて、」
呟いた忍がぐるりと周囲を見渡す。護衛の黒脛巾の姿はほとんど見当たらない。
今のうちにやっておかなければならないことが、忍にはもう一つあった。
わざとらしい程にがさりと音をたてて草の上に飛び降りた忍の足下に四方からクナイが飛ぶ。それをいとも簡単によけてみせた忍は、振り返りざまに背後に迫っていた忍の首筋に手刀を決めた。
がくりと崩れ落ちる体を抱きかかえた忍は、それまでの忍らしからぬ行動など嘘のように俊敏にその場から消えた。
あれはどこの手の者かと、その場に取り残された忍たちは護衛の任を箒することもできずにただ首を傾げるばかりである。



一方その場を離れた忍は、連れ去った忍の顔を見て驚いた。
まだ年若い、下手をすれば己の主などよりも遥かに幼いその忍の頬をぺちりと叩く。一瞬気を飛ばしただけのその忍は小さく呻いて目を覚ました。
首筋に大きな手裏剣を宛てがわれたその年若い忍は、可哀想に、声の一つもあげることができないようであった。
「一つだけ、俺様に協力して欲しいことがあってさ。」
敵とも味方とも、どこの手の者かも判断しかねるその忍の申し出に、年若い忍はいぶかしげな表情を崩さず、隙あらば逃げ出そうと忍の気配を探っている。
なに、そんな難しい話じゃない。
そう言って忍は薄い唇に人好きする笑みを浮かべる。
「俺様に、その装束、貸してくんない?」
「は?」
「いやだっていわれても、剥ぐだけなんだけどね。あ、返すアテもないんだけどさ。」
忍を見下ろす琥珀の瞳は奥州の雪よりも低い温度で年若い忍の頬を舐めた。口元だけが薄ら寒く笑みを形作り、しかし否ともいわせないその視線に、忍の背を恐怖が走る。
「いいかい。この戦が終われば乱世は終わる。軍配がどっちに上がったとしてもだ。泰平の世に、忍はいらない。俺たちはこの戦で全員死ぬのさ。」
その忍の言うことはもっともだった。死と隣り合わせの乱世に生きているからこそ、死を厭わない忍と言う存在が許されているのだということくらい、年若い忍にも理解できた。


「だから、アンタはここで死にな。」


話す間にも手早く装束を脱がせていた忍は、言い終えると同時に、己が着ていた闇色の装束を年若い忍に投げた。
「どう、して・・・」
投げられた装束を抱きかかえたまま、年若い忍は呟いた。その忍にとって、眼前で白すぎる痩躯を晒す忍に損なことをされるような覚えはどこにもなかった。
同じ里で育った者でもなければ、同じ黒脛巾でもない。うっそうと茂る雑木林の葉の隙間から漏れる月光に照らされる鮮やかな髪にも、露になった端正な作りの顔にも。一切見覚えなどない。
ただ、無防備に晒された背中に走る無数の白い傷痕が、その忍のくぐり抜けてきた死線の数と、圧倒的な経験の差を叩き付ける。
奪い取った装束を身に着けた忍は振り返ってその問いに答え、音もなく姿を消した。
ただ一人、取り残された年若い忍は、すべてを悟ったような忍の寂寥に翳る横顔の残像を見続けていた。


『人として、生きな。』










鞘から抜いた刀身を望月に愛でさせながら、竜の右目と呼ばれる男は神経を研ぎすましていた。
戦の前になると嫌が応にも昂り、逆立つ神経を落ち着けるように大きく息を吸い込んだ。
よく手入れされた刀身に映る松明の明かりが、凄艶な売女の指先のようにそろりと右目の切れ長のまなこを撫でる。
「片倉様。」
不意に後ろから掛けられた声に、右目は手にしていた刀を構えて振り返る。
そこにいたのは跪いたひとりの黒脛巾であった。恭しく頭を垂れたままのその闇に溶けてしまいそうな痩躯を認めて、右目は刀を鞘に納めた。
「どうした。」
「真田はどうやら最前線に陣を張り,豊臣方の一番駆けを勤めるようです。」
「そうか。」
短く返答した右目は何かを思い詰めたように中空に浮かぶ白い望月を見あげた。
かつては盟友としてともに闘った武田の、真田の面々の顔が目蓋の裏に浮かんでは消える。
一番最後に思いやった真田の忍頭のくすんだ赤髪が網膜を焼いた。
「ご苦労だったな。」
「片倉様、」
労いの言葉とともに報告に訪れた忍に視線をやった右目を、顔を伏せたままだった忍が真摯な目で見上げる。
沈黙で先を促すと、消えそうな声で一言、忍は呟いた。
「どうか、ご武運を。」
その言葉に瞠目した右目が伸ばした指先には、松明に照らされた暗闇だけがそこに残っていた。
くそ、と呟いてその手を拳に握る。
抱き締めてやることも、死ぬなと言ってやることさえできなかった。生気を感じさせない白い面を覆う黒の布から、そこだけを見せた悲しげに細められた琥珀の瞳に、確かに見覚えがあったというのに。
数の上にも、時勢の上にも不利な豊臣と運命を供にすると決めた主の決断を受け入れるだけの忍は、戦があるとわかってから一度もこの男の元を訪れることはなかった。疑いようなく己に訪れる過酷な運命を見つめる忍の目に、幾度か夜伽を供にしただけの右目の残像など映りもしなかったのだろう、そう思っていただけに虚をつかれた気分であった。
夜が明ける前には必ず姿を消す、春の夜のうたかたの夢のようなその忍は、ついぞ右目の手の内に残ることはなかった。
真田についての報告うんぬんよりも、忍の残した言葉を反芻し、その真意だけを掌握しようともがく右目は、もはやただの男であった。
聡い忍は、東軍に有利なこの戦局を覆すことが如何に困難を窮めるかを、知りすぎた程によく知っているのだ。
それは、西軍の敗北を、ひいては己の主と、彼と運命を供にする覚悟を決めた己の行く末さえをも見透かした悲しすぎる別れの言葉。
西軍の将の子飼いである以上決して口にすることのできない、惜別だった。
しかし、もののふである右目に、忍の言葉の本当の意味での真意を理解することはできない。ひとでも、道具でもなく、曖昧な存在として乱世にのみ存在を許された忍がたどることになる運命など、天下の泰平を望む民草にも、もののふにも想像できるはずもない。
それでも、忍の切なる願いだけは右目に届けられた。

さすけ

右目の掠れた声が戦場に吹く乾いた風に散る。
数える程しか音にしたことのないその名を。本物なのかどうかさえもわからない、しかし右目が想う男を差すその名を。ああ、どうしてもっと呼んでおかなかったのだろうか、右目の逞しい胸郭がぎりぎりと軋む。
心の奥底に押し込んで、目を背けてきた忍への想いが今になって表層に顔を出して右目を苦しめるが、今更何をしても手遅れでしかないのだ。その事実が重たくのしかかる。

死ぬんじゃ、ねぇぞ

呻きのように喉奥から絞り出した言葉は死を厭うことなく、日々それと隣り合わせに生きる忍に常日頃伝えたかった言葉なのかもしれない。
陳腐な慕情を綴った言葉よりも忍が厭う言葉だと知っていても、今だけはその言葉を口にせずにはいられなかった。
右目の切れ長の双眸が切なげに弧を描いた。










武田の本陣に帰り着いた忍は、いつも身に付けている斑の装束に着替えると、何もなかったような顔で主の元へと姿を現した。
「ただいま。」
「戻ったか,佐助。どうであった?」
「ま、布陣としてはこっちに分があるよ。伊達の本陣はこの辺。」
こっちが徳川。机の上に広げられていた地図を指差した忍の横顔を松明の光が照らす。幾分か肉の削げたその頬に落ちる影の色は濃い。
それに気付いた主は休むようにと言いつけて陣幕の外に出て行った。
普段は童のように聞き分けなく騒いでいたのが嘘のようだなと小さく息を吐いた忍は、此度の戦がいかに分の悪いものかを良く理解していた。
主もそれはよく理解しているのだろう。なぜ西軍についたのかと問えば徳川と闘ってみたいだけだと言葉を濁した。
西軍方としてこの戦に参陣すると決まってから、忍は死を覚悟した。今まで、恐れたことはなくとも死にに行くのだと考えたことなどなかった。それを考えて、死を恐れてしまうかもしれない己が怖かったのだ。
主のためなら例え命を賭してでも働かなくてはならない存在の忍であることを、誇りに思ったことなどなかったが悲観したこともなかった。
しかしいざ目の前に死を突きつけられてみると、覚悟するにはいくつかの手順を踏まなくてはならなかった。
まずは荷物を処分した。元より持ち物の少ない忍であったが、着物も、主から賜ったものもすべて、誰にも知られることのないように国境の雑木林にすべて埋めた。死ぬ時は何も、生きた証さえも遺さずに死ぬことが忍の思う忍としての美徳であった。
そして、主を生かすためだけに己を鍛えた。普段は鍛錬などほとんどすることのない忍であったが、時間を見つけては己を鍛え、武器の手入れをした。
忍は主こそが己の生の証だと思っていた。何も遺らずとも、主さえのこればそれでいいのだと。
今までに何度か死を覚悟するような戦があった。しかし、そのときには考えもしなかった死との距離が、いまは限りなくゼロに近いことを悟っていた。
そうして研ぎすまされた感覚はますます残酷なまでに忍と、しのびよる死の距離の短さを浮き彫りにしていった。
手に取るようにわかる死のかたちが、限界まで削ぎ落とされた私欲がむくりと頭をもたげる。
もういちど、あいたい人がいる。
しかし、逢ってしまえばもう二度と忍は忍でいられなくなるような気がしていた。みっともなく取りすがって、死にたくないと泣きわめいてしまいそうだった。夜明け前の暗い褥の中で愛でた左頬の傷痕が誓った忠誠を叩き壊してでもふたり生にしがみついてしまいそうで、怖かった。
そうならないためには、こうするしかなかったのだ。
己に言い聞かせるように忍は曇った空を見上げた。湿度の高い風が癖の強い忍の瘡蓋の色をした髪を揺らす。

かみさま、かみさま どうか。

生まれてこのかた信じたこともない、いるのかどうかすらもわからないその存在に縋り付くように雲のかかった望月を見上げる。
忍の容易く折れてしまいそうな細いのどの奥、気道が収縮して顎関節がきりきりと痛む。
縋る腕を自ら手放した忍の痩躯は、何かに縋っていないと、もう立っていることもできない。

旦那は俺様が守るから、小十郎さんに どうか御加護を

握り締めた拳で鋼鉄の手甲が不協和音を奏でた。
夜が明ければここは地獄へと姿を変え、天下は泰平へと向かうだろう。
静かに目を閉じた忍が再びその薄い目蓋を開くとき、忍は迷うことなく死地へと向かう。


End

二度とあえなくてもいい。せめて、その命を。

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