- 狭いシングルのベッドにごろりと俯せた片倉は、あちーと言いながら冷蔵庫へ向かう猿飛の良く引き締まったほそい背中を眺めていた。
いろいろな事が唐突に起こりすぎていてよくわからないが、ここは部下の猿飛の部屋で、なし崩し的に体の関係を持ってしまったせいで二人とも素っ裸である、と言う事だけは理解できている。
「片倉さんも何かのみます?」
水かービールかー、と冷蔵庫を覗き込みながら何事もなかったかのように喋っている猿飛を横目に、片倉は終電のない今から、どうやって家に帰るかを考えていた。タクシーで帰るか、それとも一度会社に戻って会社で寝るか。幸いにも明日は日曜日だ。契約のまとまった今、休日に出勤してくるような物好きはいないはずだ。
そんな事を考えながら、事後の気怠さに身を任せていた片倉の視界で猿飛がひらひらと手を振った。
「ぼーっとするほど良かった?」
「馬鹿野郎。どうやって帰るか考えてたんだ。」
「泊まって行けばいいでしょうよ。」
「あのなぁ…」
呆れて物も言えない片倉を尻目に、猿飛は物のないフローリングの上に裸のままでぺたりと座り込んで缶ビールを煽っている。
ぷは、とさも旨そうに息を吐き出した猿飛を見ていると、自分ばかりいろいろと考え込んでいるのがバカらしくなった片倉は、手をのばして猿飛の手から缶ビールを奪い、寝そべったままそれを煽った。
冷えたビールが火照った体の中をするすると落ちていく。
少しはっきりした思考で猿飛の部屋の中をぐるりと見回す。
すっきりとした部屋の中、目に付く場所にはほとんど物がないせいで生活感がまるでない。しかし、それが逆に飄々として捉えどころのない猿飛らしい気さえする。
「泊まってくにしろ帰るにしろシャワーくらい浴びてけばいいんじゃないの?」
「その前に、聞いておかなきゃならんことがいくつかあるだろ。」
どうやって帰るかを考えていたが、よく考えれば現在の状況は異常な事態ではないか?そもそも、自分と猿飛はただの上司と部下のはずである。
それがなぜ、突然こうなっているのかを考えるべきだと思った。
まずは、この事態の発端である目の前でビールを煽っている男に事実関係の確認を。
「聞いておかなきゃいけないことって何です?」
「まず、テメェはゲイなのか?」
「多分違います。」
「多分?」
すっぱりと答えた猿飛の言葉はしかし、曖昧だ。
答えたくないのか、コツン、と狭いローテーブルに缶を置いて、片倉に背を向けたまま脱ぎ捨ててあるワイシャツを羽織っている。
聞かれたくないことだったろうか、と一瞬罪悪感が頭をよぎったが、どう考えても思いつきや酔った勢いのイタズラと言うには度がすぎている気がしてならない。
片倉は別段そう言ったことに偏見はないが、一般的な男の基準通り女が好きだ。もしゲイで自分を好きだと言われたら、自分はそれに応えなくてはならないのだ。好奇心で聞いている訳ではない。
聞き返して黙った片倉の気持ちを汲んだのか、猿飛はどっちでもいいんだと思います、と自信なさげに答えた。
「女の子と付き合ったこともあるし、可愛いなとも思うけど…わかったと思うけど、男と寝たこともあるんで、バイってことになるんじゃないですかね。」
「なんでこんなことしたんだ?」
「そんなの…アンタが好きだからに決まってるでしょーが。」
「なんで俺なんだ…」
思わずため息と共にそんな言葉が口をついて出た。
猿飛は居心地悪そうにシャツの裾を遊んでいる。
「仕方ないじゃん…好きなんだから。」
片倉から猿飛の表情は見えなかったが、声の調子で酷い顔をしているだろうことは理解できた。
好きなんだから、と言われてしまえばそこまでである。酔った勢いで迫った結果こうなった、というところだろうか。
「だいたい…なんで拒まなかったんですか。」
「拒まれたかったのか?」
「そういうわけじゃ…ないけど…」
「けど?」
テーブルの上のビールの缶に手を伸ばす。猿飛の柔らかい髪の毛が触れた。
反問で返したのは、自分でもよくわからなかったからだ。体格差を考えても、猿飛を跳ね除けてでも変えれたはずだ。
それでも帰らなかったのは、やはり好奇心なのだろうか。
猿飛は相変わらず俯いてシャツの裾を折ってみたり、丸めてみたりしている。
プレゼンの時の余裕しかない猿飛はそこにはいない。
可愛らしいとさえ思っている自分をバカだと思って、片倉は残っていたビールを一気に飲み干した。
「断られたら、全部ジョーダンってことにして、あきらめられたかもしれない。」
「…そうか。」
「うん。でも、…いいや。一回でも抱かれたんだ。それで俺は満足だよ。」
ビールの缶を見つめている片倉を振り返った猿飛の貌には自嘲とも泣き笑いともつかない切なげな笑顔が張り付いている。
そもそも、道で手首をつかまれた時点で片倉は振り払うこともしなかった。なぜそんなことをしてしまったのかと、いまになって後悔した。
あの時、振り払っていれば猿飛にこんな顔をさせることもなかったかもしれない。
思わず謝罪の言葉が口をついて出た。
「謝んないでくださいよ。強引だったのは俺だし、イイ思いしたのも俺。あんたは何も悪くない。」
「だが、…」
「謝るくらいなら付き合えって、言っちゃいそうじゃないですか。…アンタ優しすぎるんだよ。」
「言ってみりゃいいだろ?」
「俺様、成功率の低い賭けはしない主義なんで。今日のことはお互い酔って見た悪い夢だと思って忘れましょーよ。明日は休みだし、明後日になりゃお互いすっきり忘れてますって。」
いつもの、飄々とした喰えない部下の顔だった。
今日だけで今までに見たことのなかった猿飛の表情を見すぎた気がする。どれが本当なのかがわからなくなってきた。
当の猿飛は、眉間のしわを深くする片倉など気にした様子もなく、先にシャワー浴びちゃいますよーと立ち上がった。
脱ぎ捨てた自分のスーツを拾い上げ、風呂場へ消えていく猿飛の白い背中を見ながら、片倉はのそりとベッドを降り、勝手に冷蔵庫の中から缶ビールを出した。酒の力もなく考えるにはいろいろなことが一気に起こりすぎている。
猿飛が座り込んでいた床を、片倉の素足が踏む。そこだけが、じわりと暖かい。
ベッドに腰掛けた片倉は開けたビールを一気に煽った。
一気に起こりすぎているせいで、冷静な判断などできるはずもない。
ここまで来た時点で既に冷静さは欠いていたが、嫌ではなかったからここで猿飛と寝た。その理由は猿飛が片倉に抱いている感情とは違う物には違いないが、少なくとも猿飛に興味がないわけではない。
他の男ならばこんなことはしなかっただろうし、男と寝るということには今でもさほど興味は湧かない。つまり、相手が猿飛だったからこの状況になり得たわけだ。
好奇心、ということには変わりなさそうだが、それは男とのセックスではなく、猿飛とのそれということなのかもしれない。
「風呂どーぞ。」
もっともらしく理由を付けたところで、風呂から出て来たらしい猿飛が濡れた髪を拭きながら片倉に声をかけた。
バスタオルは風呂場にあるし、下着は新しいの残ってたからそれどーぞ、などと世話を焼く猿飛は再びゆかにぺたりと座る。
「すまない。」
「いいえ。ってか泊まっていくんですか?」
「そうだな。」
「じゃあ布団だしときますんで…」
「一緒に寝りゃいいだろ。」
バスタオルを被ったままの小さな頭をがしがしと拭いてやりながら立ち上がった片倉は風呂場へ足を向けた。
なんとも言えない複雑な顔をした猿飛の頭がその背中を追う。
「テメェの気持ちはわかったが、俺の気持ちがよくわからん。もう少し時間をくれ。」
「は?」
「テメェのことは…、嫌いじゃねぇよ。」
猿飛が驚いて立ち上がった時には、片倉の姿は風呂場へと消え、静かな水音が部屋に響くだけだった。
頭に乗せたままだったバスタオルを引き摺り下ろした猿飛は、俯いたままズルい、と呟いた。
「真面目過ぎんだよ、アンタは。…期待、しちまうだろ。」
窓越しの喧騒が猿飛の赤面した頬を撫でて行った。
End
リーマンネタだけどずっと全裸っていう。