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つい数時間前、同じ研究室の慶次がそそくさと帰って行った理由を佐助は思い知った。
佐助はとある大学の大学院の修士課程に在籍している。
ついこの間、同じ大学の学部を卒業し、3年の秋から付き合っている男と同居を始めた。
生憎、その男は国際学会に出席するためにハワイに行っていて、帰る理由も見当たらないので、企業からの依頼での教授名義の研究結果を纏めていた佐助は、研究室の扉を不躾に開けた元親が顔を出したときも、どうせ暇つぶしにきたのだろうくらいにしか思っていなかった。
「佐助、ちょっと手伝ってくれねえかなァ。」
「暇つぶしの手伝いはしないよ。俺様今忙しいから。」
つけていたヘッドホンを外し、椅子ごと扉を振り返った佐助に、元親は違う違うと笑った。
それはもうぞっとするような死んだ目で。
「え、なに。ちょっと目が死んでる。」
「一年のガキどもがてんてこ舞いで俺も巻き込まれてんだよ…」
まだ入学したてホヤホヤの一年生がてんてこ舞い?と入学したての頃の自分を思い出す。
どうにか4年前の記憶を掘り出してみるが、元親や慶次とバカなことをして元就に呆れられていたことくらいしか思い出せずに、小さく肩を竦める佐助の前で元親はジーンズのポケットから出したくしゃくしゃのタバコを咥えた。
「禁煙。」
「吸わねえよ。いいからガキどものレポート見てやってくれよ。わかるだろ?」
「レポート?」
過去4年の間に、卒論も含めて腐るほどレポートを書いてきた佐助には、元親がどのレポートをさしているのかが理解出来ず、再び考え込む。
時期を考えると1番最初に書かされたレポートだろうが、全くと言っていいほど思い出せない。
そんな佐助に、波高測定な、と元親がめんどくさそうに言った。
ああ、あれ。一番基礎の、一番簡単な、説明で聞いた公式に当てはめてグラフ作るだけのあれね。ちょーっと待って。どこが難しいのかわからないぞっと。
心の中でそれだけを並べたてる佐助の表情から全てを悟ったらしい元親が、俺にもわからねえよと火をつけない煙草の先を揺らしながら言った。
「とりあえず、教授も助教もドクターも居なくて人手が足りてねえんだ。毛利はバイトで帰っちまうしよォ。」
「いや、俺も忙しいから。」
さっき言ったじゃん!と喚くも虚しく元親は煙草を咥えたまま佐助の手を引いた。
首にかけたヘッドホンのコードがパソコンに引っ張られてガシャガシャと音を立てる。
「首締まるから!ちょっ、わかったから!もう!行けばいいんでしょ!行けば!!」
「そーゆうことだ。早く来いよ。どうせ片倉も居ねえから帰る理由もねえだろ?」
尖る犬歯を見せて悪戯っぽく笑った元親に、手元にあった資料の本を投げつけてうるさいなと叫ぶ。
誰かに聞かれてたらどうするんだ。馬鹿じゃないの。
咎める視線で元親を睨みつけると、悪かったよとさして悪びれた風でもなく研究室を出て行った。
ヘッドホンを外してデスクに置き、フラッシュメモリに今開いているデータを移し替えて立ち上がる。
ふと振り返るデスクの主は明日までハワイだ。
家でもできる作業だが、片倉が居ない家は静かすぎて落ち着かず、ここで夜明かしをすること6日目である。
佐助の同居人兼恋人が、所属する研究室の助教の片倉であることは元親だけが知っている。
卒業までは誰にも話すつもりはなかったが、研究室の新歓でベロベロに酔っ払った元親に近所で絡まれ、引っ越したんだろ新しい部屋見せろよと迫られてしまえば連れて帰らざるを得なかった。
たまたま居間にいた片倉と鉢合わせ、その時は一気に酔いが醒めるほど驚いた元親も、いまや佐助をからかって遊ぶ日々である。
どうせ片倉が居ないのだから、今日もここで朝まで過ごすことには変わりないが、他人にそれを指摘されるとなんだか情けない気分にもなる。
いい年した男が寂しくて帰れないみたいじゃないか、と呻くように言って元親に投げつけた資料を拾い上げた。
それがその通りなのだから神様も救いようがないだろう。
データを移し替えたフラッシュメモリと資料、デスクに放り出してある鍵の束。
その横にある鳴らない携帯は要らないなと小さくため息をついて研究室の明かりを落として鍵をかける。
そのままエレベーターホールの向こう側にある元親が所属している研究室に向かう。
エレベーターホールと研究室の隣にあるミーティングルームには見覚えのある一年がたむろしていた。
研究室を覗くと、かすがが一年生のパソコンを覗き込んでいる。
「元親は?」
「煙草だ。」
ああそう、と返して手伝うからパソコンかしてよと言うと、かすがは元親のデスクの隣を指差した。
几帳面に片付けられたデスクは元就のものだろう。
佐助がパソコンを起動させたところで、すみませんと緊張した1年が扉から顔をのぞかせた。
こっちで聞くよと言ってフラッシュメモリをパソコンに刺してから1年に向き直る。
寂しさを紛らわせるにはちょうどいいかもしれないなと思いながらパソコンを覗き込んだ。
空が明るくなり始める頃になって、1年はぱらぱらと帰っていった。
途中から風呂に入りたいと喚き始めたかすがを帰し、死んだ目をした元親の隣のデスクで研究結果をひたすら打ち込む。
「なあ、片倉いつ帰ってくんの?」
「さあ?明日じゃん?」
「聞いてねえの?」
「別に迎えにいくわけでもないしね。俺、車持ってないし。」
「免許はあんだろ?車貸してやろうか?」
「しばらく運転してないからぶつけるかもよ。」
「それはやめて。」
残る1年はあと4人。
椅子を軋ませながらコーヒーを啜る元親を見もしないで返事をした。
せっかく人が忘れかけてたのに。このおバカさん。
「あいつら帰るまで帰れねえかなあ。」
「帰れば?うちの研究室開けて俺が見てればいいんでしょ?」
「手伝わせといて先に帰るのは悪ィだろ。」
「いいよ、どうせ朝までいる予定だったし。いいかげん終わるっしょ。」
そう言って椅子を回す。
元親は再び煙草を咥え、少し考えてから立ち上がった。
「ちょっと見てくるわ。終わりそうだったらもう帰す。」
「わかった。」
研究室をでていく元親の銀色の頭を眺め、作業中のデータを保存する。
明日も帰ってこなかったら、これはもう終わってしまうかもしれない。
明後日の日曜日は一体どうやって過ごせばいいのだろう。
さっさと帰ってきてよと心の中で呟く。
去年までは自分の家があった。そこに片倉が居ないのは当たり前で、学校にいなかろうが、出かけていようがさして気にしたことはなかった。
それが一緒に住み始めた途端これだ。
家にも学校にもいるのが当たり前で、いないことがおかしいと思ってしまう。
片倉がいない時間の潰し方がわからない。
どちらかが女なら、卒業と同時に結婚してもおかしくないのに。
そう考えて俺は馬鹿かとため息をつく。
元親も居残り組も帰ると言うなら自分も帰って寝るか、と考えて、寝れるならどうぞと意地の悪い自分が答えた。
それならいっそ帰国の知らせが来るまで起きていたいと言うのが正直なところだし、帰ってきてからならゆっくり眠れるかもしれないとも思う。
もうダメじゃんと呟いたところで、元親が戻ってきた。
「あいつらも帰るってよ。助かったぜ。」
「そうだね。帰ってゆっくり寝なよ。」
「おう。悪かったな、手伝わせて。帰んのか?」
「もうちょっとだから終わらせてから帰るよ。ここは閉めちゃっていいよ、向こうでやるから。」
いいながらパソコンの電源を落として持ってきた荷物を纏める。
「わかった。また今度飯でもおごるわ。」
「ラーメンは飽きたから別のにして。」
「ハイハイ。」
じゃあねと声を掛けて自分の研究室へ向かう。
あとはグラフを纏めて考察を書けば教授にチェックを頼むだけである。
どう考えても明日一日あれば終わってしまうような気がした。
鍵の束の中から研究室の鍵を出し、それを差し込んで違和感に気づく。
鍵が、開いている。
誰かが来るには時間が早すぎるし、警備員はここの鍵は持っていないはずだ。
恐る恐る扉を開ければ中は電気が付いている。
どう言うことだと思いながら自分のデスクに荷物を置いた。
「お疲れさん。」
奥のパーテーション越しに突然声を掛けられて佐助の肩が大仰に跳ねる。
弾かれるように振り返った視線の先には、待ち焦がれた片倉がいた。
ラフなグレーのワイシャツのボタンを二つ開け、いつもはきっちりと後ろに撫でつけられている前髪がおろされている。
「え、なんで?」
混乱する佐助が閉め損ねた研究室の扉を閉め、ついでに鍵も閉めた片倉は佐助の正面に立つ。
「帰ったら居なかったからここかと思って来てみりゃ、携帯だけ置いてもぬけの殻だ。エレベーターのとこに1年がいたから手伝ってんのかと思って待ってたんだ。」
「なんで、…だって誰もまだ帰って来てない。」
テメェが寂しがってんじゃねえかと思ってな、と片倉は見透かしたように笑う。
某然としたままの佐助はゆっくりと手を伸ばして片倉の前髪をどける。
「俺様とうとう都合のいい幻覚まで見えるようになったとか?」
「学会終わって直ぐにキャンセル便で帰って来た俺を幻覚にするとはいい度胸だな。」
「だって、明日か明後日だって言ってたじゃん。」
拗ねる佐助の柔らかい髪をかき混ぜ、滑らせた手でその肩を抱きしめる。
最初はこわばっていた肩の力が抜け、観念したように厚い胸板に額を預けた。
「どうだ?幻覚か?」
「本物。…おかえりなさい。」
佐助を頭の上から覗き込むように下を向いている片倉に、少しだけ背伸びをして口付ける。
「ただいま。」
満足気に笑う片倉の腕の中で、佐助は小さくため息をつく。
今日からは何も考えずに眠りにつける。
「少し痩せたか?」
「さあ?あんまり帰ってなかったから体重なんて測ってない。」
「そんなに寂しがってくれるとは光栄だな。」
「うるっさいな!俺様だって好きで寂しがってたんじゃないよ!」
そこまで言ってはっと片倉を見上げる。
案の定だらしのない顔でニヤニヤと佐助をみている。
「寂しかったか。そうか。」
「寂しくない!お土産のイルカのチョコ待ってたんだよ!断じてアンタのことは待ってない!!」
ばっかじゃないの、と突き飛ばすように片倉の腕から逃れ、片倉に背を向けて散らかってもいないデスクの上を片付ける。
耳どころか首まで熱い。
その佐助の男にしては細い背中に、片倉が抱きつく。
「俺は意外と寂しかったんだがな。」
ぽそりと耳の後ろで零れた言葉に佐助の頭が混乱する。
え、何、どう言うこと?先生が寂しかった?放って行った張本人のくせに?あれでも別に先生のせいじゃねえよな。って言うか、寂しかったって、なに。
「俺だけか。」
いつもの威風堂々とした片倉の声ではない。
切なげなその声に佐助は振り返る。
「俺だって…俺だって寂しかったよ。アンタがいないと何するにもどうしたらいいかわからないんだ。いないんだって思うたんびに苦しくて、だから、その…アンタだけじゃ、ないから。」
徐々に俯く佐助の視線が泳ぎ、片倉の靴のつま先に落ちる。
それを腰に手を当てて見ていた片倉はぽすんと佐助の小さな頭を撫でる。
「それでいいんだよ。意地なんて張るな。毎度テメェは手がかかる。」
ガキが大人のふりしやがってと苦く笑う。
「手がかかるの、知ってて俺様を選んだのはアンタでしょーが。それにアンタ、ガキ嫌いじゃん。」
「ガキみたいに喚くテメェも悪くねえよ。ただし、他所の男にはやるなよ。」
「ワケわかんねえよ。」
「俺の前でだけガキみたいに喚いてろ。一生面倒みてやるよ。」
再びワケわかんないと呟いて、佐助は椅子を軋ませて座った。
その頭をぐしゃぐしゃと撫でる片倉の視線がデスクの上で止まる。
「それ、終わったのか?」
「もうちょい。」
「終わらせてから帰るか?」
「もう帰る。先生の顔みたらなんか眠くなって来ちゃった。」
先ほど持ち帰って来た物を雑に鞄に放り込み、不在着信を知らせる携帯をジーンズのポケットにねじ込む。
それを見ていた片倉はポケットから鍵を出してさっさと研究室を出ると、扉に鍵を残してエレベーターの方へと歩いていく。
片倉が残した鍵で戸締りをした佐助が現れるころにはエレベーターに乗り込んだ片倉が待っている。
ご苦労様ですと声をかける警備員に頭を下げ、久しぶりにふたりで着く家路は、生まれたての朝日が清々しい初夏の匂いがした。
「メシは?」
「冷蔵庫になんかあるっしょ。ってかもう眠い。」
「帰って寝るか。」
「うん。」
あくび混じりに頷いた佐助の手を引いて学校の裏手にある自宅の扉を開ける。
玄関に投げ出されたままのスーツケースを足で避け、佐助の鞄をその横に放り出してベッドへ直行する。
「ねえ、明日買い物付き合ってよ。」
「どこへ?」
「スーパー?」
「チョコは買って来たぞ。テメェ用に2箱。」
カーテンの隙間から漏れる朝日の中で服を脱ぎ捨て、パジャマに着替えることもしないでどちらからともなくベッドへ雪崩れ込んだ。
「イルカのやつ?」
「イルカとマカダミアだ。」
「さっすが。んで、スーパー付き合ってくれる?」
「その代わり明日の晩飯は日本食にしてくれ。」
「好きな物作ってあげる。あとさ、お願いついでにいいかな。」
俯せていた体をよっこらしょと転がした佐助が片倉に向かって子供のように両手を伸ばす。
「今日は抱っこで寝てよね。もう力一杯ぎゅーってしてさ。ついでにおやすみのキスもしてくれると喜ぶよ。」
もうかなり眠たいのか、へらへらと笑う目蓋が落ちそうである。
目を伏せて吐息で笑った片倉が仰せのままにと囁いて、伸ばした佐助の指先を絡めて強く抱きしめる。
「来年の学会は絶対ついていく。次はきっと耐えらんない。」
「頑張って論文書けよ。」
「先生と連名なら頑張れる。」
「考えとく。」
胸のあたりでもごもごと喋る佐助の襟足を引いて顔を出し上げさせた片倉は小さく音をたててその額に唇を落とした。
End
アンタなしじゃ生きられない気がしました。