- 美しい弓張り月の夜だった。
隆元は冷たい雪が薄く積もる海岸に立ち尽くしていた。
冷えて張り詰めた空気の塊が潮風にごそりと動く。
黒々とした海が切なげに波打つさまが微かに見える程度の闇の中、隆元は縋り付くように空を見つめる。
制止する兄弟や家臣を振り切り、単騎駆けで遠乗りをしてきた隆元の鼻と頬は寒さにかじかんだ薄紅を刷いている。
浜に曳き揚げられた壊れた小舟が強い風に軋んだ。
昼過ぎ、長曾我部信親の訃報が毛利宛てに急ぎ届けられた。
最悪の戦況の戦場から撤退する部隊のしんがり。
追従する700の兵と共に大将である元親を逃がすために、奮戦の末敵将に討たれたという。
持ち帰られた甲冑は数多の傷を負い、槍は折れ、左文字の長刀は激しい剣戟の為に刃は毀れ、切っ先は欠けていた。
長曾我部の使者が語る間、隆元は栗色の瞳が零れ落ちるのではという程に瞠目し、ひたすら襖を見つめていた。
元春と隆景も放心したように話を聞いている。
一通り語り終えた長曾我部の使者に惜しい男を亡くした、と告げた元就の声は酷く苦かった。
酒肴をもって使者を労うよう家臣に命じた元就が振り返った隆元はじっと俯いていた。
にいさま、と隆景が声を掛けると隆元は静かに座を辞し、厩へと向かう。
戦場に立つときですら僅かも乱れぬ絹糸の栗毛を振り乱すよう、早足に廊下を進む背中は、いっそ狂気じみた悲哀さえ滲ませていた。
良く手入れされた美しい葦毛の馬を出し、後を追ってきた隆景の制止も聞かずに馬を走らせた。
そのまま出てきてしまったせいで薄着の肩が酷く冷たく、すぐに指先がかじかんだ。
されど隆元は馬を止めなかった。
常の隆元にはないほどに激しく鞭を入れ、ひたすら海を目指す。
長曾我部が毛利を訪れる度に迎えに出たあの海岸へ。
城下の大通りを抜け、暗く寂しい枯れ葉ばかりの林を駆ける。
坂道も畦も、景色の移ろいなど見えぬ速さで駆ける馬の躯から、白く湯気が上がろうとも、隆元はその速さを緩めない。
速く、もっと速く。
時の流れをも越える速さで駆ければ、信親と再びまみえることが出来るかもしれないという妄執に追われて。
隆元は寒さに目元を滲ませながら松林を抜けた。
暮れなずむ空は薄雲を深緋に染め、日輪は猩々緋に燃えてその身を揺らがぬ水平線に落とした。
背後から黒々とした漆黒が迫る。
内湾にあたる瀬戸内の海はその日も凪いでいた。
外海はいつも激しくうねるのだと。
その激しさと包容力を信親は愛しているといった。
そして、隆元殿は外海のようだとも。
言外の告白に隆元が俯いたのはいつのことであっただろうか。
さして遠い昔の話ではないのに、もう手の届かぬ明日のことのように、繋いだ馬を撫でながら隆元は思い出す。
かじかんだ掌に感じる熱が酷く愛おしく、恐ろしいほどに懐かしかった。
見上げた弓張り月は頼りなく隆元を見つめていた。
大きく欠けたその月は、儚げに結い髪を揺らす隆元に良く似ていた。
隆元の短い人生の中で満ちていたのは、ほんの一瞬であった。
胸に飼った劣等感を刔る輝かしい青年と出会い、その痛みに身を窶し、それでもなお惹かれ合った。
彼もまた己が触れれば傷付く隆元に針鼠のジレンマを感じ、その無力と残虐の痛みに喘ぎながら寄り添った。
決して易い慕情ではなく、壮絶な痛みを伴う恋愛。
身を焼くのは甘い愛の炎ではなく、昏い嫉妬の氷雨であった。
しかし傷付いては依り、傷付けては舐めるその関係は恒久たる螺旋を描き、二人を搦め捕っていた。
その螺旋が紡ぐ未来と過去に窒息する二人は恍惚に酩酊し、自ら互いの指先だけを頼りに迷い込む。
暗い水面に静寂が反響し、信親と隆元の境界線を朧にぼかす。
されど強い潮風に伸ばした指先は遠い。
届くことなどないのだと海鳴りがせせら笑った。
寒さだけでなく震える脚が脱力し、さらさらと崩れる砂上の城に繋がれる。
地の底から響く遠い波音の鎮魂歌は信親に宛てた物か、それとも。
へたり込んだ隆元の頬を、冷たい涙が伝っては風に舞う。
地面に落ちることさえ赦されない涙は、昇る信親の魂ともつれ、物語の最後を紡いだ。
途切れた螺旋は戻らない。
過去も、そしてあると信じて疑わなかった明日さえも手の届かない物となった現在。
押し込めた嗚咽がはらはらと剥がれ落ちる不快に、隆元の喉が引き攣った。
「御慕い、申し上げております…信親殿。」
延ばした指先をすり抜けてゆく月色は、脱色された銀色に輝く。
呻くように呟いた隆元の魂の慟哭だけが、途切れた輪廻の螺旋に寒々と響いた。
End
あなたを置いて逝くこと、許してください。