綱元が運転する高級車の助手席で、成実は片膝を立て、窓ガラスにちいさな頭を預けたままフロントガラスの向こうをぼんやりと見つめている。
ダッシュボードに反射した高速のオレンジ色の明かりが整った成実の顔を照らす。
実家に呼ばれた日の成実はいつもこうだ。
時折子供のように右手の親指の爪をかじっては、思い出したようにその手を下ろす。
何度目かに成実が爪をかじるのを運転の横目に捕らえた綱元が溜め息とともにそれを咎めた。
黙ってろ、と呟いた成実が再び指先を唇につける。

「せっかく、きれいな手なんですから。」
「離せよ。」

ハンドルから離れた綱元の左手が成実の手首を掴み、つけていたシルバーのブレスレットが音を立てる。
思いの外強く握られた手首に苛立った成実の頭が窓ガラスから離れ、綱元の手を振りほどく。
運転の片手間であったせいもあってか、綱元の手はあっけないほど簡単に運転へと戻って行った。

「暫くかかりますから、寝てたらどうですか?」
「寝れるならとっくに寝てる。」

再びもとの姿勢に戻った成実はそう答えると、もう話し掛けるなとでも言いたげに窓の外へと視線を移した。
従兄弟の政宗が代表取締役を務める会社の決算報告の取締役会議と株主総会に出席したせいで、折角のゴールデンウィークも丸つぶれである。
いくら大学生の成実であっても、ゴールデンウィークがつぶれた程度でここまでへそを曲げているわけではない。
その原因は成実が産まれてからずっと積み上げられてきた、伊達の家と父親、そして成実の関係であることくらい車を運転している綱元はよく知っている。
会場であり、伊達家の人間が宿泊していたホテルから成実がひとりで暮らす大学の近くのマンションまでの運転手を任された理由は、それを良く知っていてなおかつ成実の扱いに炊けているからだということもよく理解している。
政宗が大学卒業と同時に彼の父親から経営権を譲り受けたその会社は規模も大きく、更に親族経営ということもあって伊達家の中にはいつも混沌とした権力争いが横たわっている。
限りなく本家筋に近い場所にいる成実は望む望まないに関わらず、おとなたちの勝手な権力争いに巻き込まれ、高校卒業と同時に取締役に就任させられた。
その時の成実は、進路のこともあり、実父とえらく剣呑な仲であった。その間を取り持ち、どうにかこうにかと言った態ではあったが、成実の取締役就任をまとめたのも綱元であった。
正直な話、成実は会社の経営権や重役の座に魅力など微塵も感じていなかったし、父の言うように経営学部に進むのも本意ではなかった。
従って就職するつもりのない会社の重役兼株主など雑事が増えるだけの面倒なことでしかなく、息子の意思よりも会社を尊重した父親から逃げるようにして都内の工科大に入学した。
(それをネタに綱元から宥められてしまえば逃げる手もなく、こうして取締役の責務を嫌々ながらも果たしているのだが。)
兄弟同然に育ってきたにもかかわらず、社長に就任した従兄弟ばかりが一族の中でチヤホヤされ、そしてその従兄弟のために成実は貴重な大型連休を出席したくもない取締役会と株主総会で潰し、こうして窮屈なスーツに身を包んで夜遅くに自宅まで向かっている。
成実の感情でいくらか悲観的に演出されてはいるが、結果突き詰めれば父親も、従兄弟も、一族の誰もが成実を会社経営と言う名の権力の保持のために使っているだけにすぎないじゃないか、と成実は思っていた。
あんな会社など、とっとと倒産してしまえばいいのだ。
その結果、日本経済にどれほどの打撃が出ようとも、会社に興味などない成実にとっては知ったことではない。
父親の愛情や関心など知らずに育った成実はしかし、それが欲しかった。普通のサラリーマンの家庭であれば、子供が当たり前のように手に入れる父親との円満な関係が、自分にはないことが成実を苛む劣等感の蛆をさらに増やし、頑なに伊達家を拒ませることになっていった。
その中で唯一、成実の話に耳を傾け、頷いたのが綱元だったというだけで。
10近くも年の離れた綱元が、どうして成実にそうしたのかは、成実の知るところではなかったし、父親と秘書の関係にあった男の子供である綱元が成実と仲良くするのも、おとなの醜悪な打算というものであったかもしれない。
それでも成実は綱元を拒む理由はなかったし、むしろ拒んでしまえばどこにも居場所がなくなってしまうような気さえしていた。
だから、本意ではないことも綱元にひとしきり鬱憤をぶちまけてから受け入れてきた。
心のどこかで、綱元は成実を拒まないと思っていたかったのかもしれない。

「綱元。」
「はい。」
「今日、泊まってけよ。」

首都高を飛ばすエンジンの音に、成実の少し高い子供のようでいて、どこか凛とした声が告げる。
明日仕事なんですけどね、と返した綱元に、成実の小さな唇が拗ねたように尖る。

「ヤらせてやるから、泊まってけ。」
「下品です。」
「ビールもあるぞ。」
「車です。」
「いいから今日は俺とヤッて泊まってけ。」

要するにヤリたいだけでしょう、と溜め息を吐いた綱元はそれでもフロントガラスの向こうを見たまま、成実を振り返らない。
小さいころから成実の世話を押し付けられてきた綱元が、この事態を予測していなかったわけではないが、別に付き合っているわけでもない男同士が、しかもお互いそのテの言葉を使えば、ノンケの男二人がからだの関係だけ続けているというのもどうなのかと思うわけである。
(それにもう自分は三十路も越えてしまった。)
最近はそれとなく仕事のせいにして成実の誘いを断わり続けていたのだが、どうも情緒不安定な成実である。
そう易々と引いてくれるとは思えなかった。
しかし、綱元にはこのままだらだらと成実と関係を続けて、いつしか取り返しのつかないことになるのでは、という危惧もある。
(自分は別にいいのだ。しかし、成実にはそうもいかない家庭の事情というものが山積みである)

「成実さん、」
「なんだよ。」
「そう言うの、もうやめましょうか。」
「なんで」
「不毛です。若気の至りで済めばいいですけど、俺なんてもう手遅れですよ。」

だから?と強気に吐き捨てた成実の唇が微かに震える。
たばこを吸うために少しだけ開けた窓から吹き込む風がごうごうと音を立てるのが耳障りで、成実は吸っていたたばこを消した。

「お互い好きでもないのに、そういうの、不毛だと思いません?」
「別に、愛してほしいなんて、言ってない」
「そうじゃなくて。この関係に、あなたは何を求めてるんです?」

やっと成実を見た綱元の眸の、咎める色の冷ややかさに、成実はやるせなくなって俯いた。
スーツの袖口のボタンを指先で弄ぶ。
どうして、とつぜん。この男も俺を見捨てるのだろうか。
成実の心臓がおそろしい程に騒ぎ始め、口の中が酷く乾いた。
いつもの調子で『要らない』と突き放してしまうには、綱元は大きすぎた。

「寂しいだけなら、同級生の女の子とでもヤッてた方がよっぽど健全ですよ。俺でなきゃいけない理由なんてないんでしょうから。」
「ちが、」
「それとも、愛してほしいわけじゃないっていうのは、嘘なんですか?」

そうじゃない、と言いかけた成実の言葉を遮るように言った綱元はしかし、自分の意地の悪さを自覚している。
とりあえず違うと言いたがる成実を利用して、じゃあもういいといわせようとしている自分は、さっきまで彼を苛んでいた利害に目のくらんだククソジジイ共と何ら変わりはない。
成実が自分に絶対の信頼を置いてくれていることは、この長い付き合いの中で重々承知している。
この年若い哀れな青年の望みを少しでも叶えてやりたいと思って、成実の父親や、自分の父親、ひいては政宗やその他の役員たちの小言も聞き流してきた。

「愛情なんて、別に求めてない。他人の同情だか愛情だかわかんねぇ、薄っぺらなもので埋まるようなもんはあいにく持ち合わせてねぇよ。」

動揺の引いた成実の声の冷静さに綱元はそれとわからぬようにわずか瞠目した。
横目で見た成実は、何かが抜け落ちてしまったように前の車のテールランプを見つめている。

「寂しいとか、そんなヌルいもんでもねぇ。俺のめんどくせーこと、全部知ってて、それでもお前が俺を抱くから、意味があるんだよ。」
「愛なんかじゃ足りねぇし、そんなもんめんどくさいだけだろ。余計なこと言わないで、ただ抱いてくれるお前が、必要なんだよ。」

わかったら、もう黙れよ。
吐き捨てるように言って、成実がたばこに火を点ける。キツいメンソールの匂いが、その場にはそぐわないような気がした。

「…都合がいいってことですか?」
「そうかもな。…わかんねぇ。だけど、おまえじゃなきゃ嫌だ。ま、綱元に好きな女ができたって言うなら、小十郎にでも頼むかな。」
「それは小十郎に迷惑でしょう。」
「どーでもいいよ、あんなやつ。」

で、泊まってくのか?と、煙を吐き出した成実の癖のない黒髪が風に乱れるのを、左手を伸ばして直した綱元は、諦めたようにわかりましたよ、と苦く笑った。
結局のところ、自分は成実を好きなのかもしれない、と僅かに痛んだこめかみを成実に見つからないように押さえたのだった。

End

リアルな感触、私に頂戴。

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